第二話 鳥川魚美の躁鬱
高校入学を直前に控えた春休み。月が替わった最初の日。自宅のリビングで、ささやかな祝砲が響いた。
「お姉ちゃん、小説家デビューおめでとー!」
クラッカーを鳴らして私を祝福してくれたのは、一歳ちがいの妹、
「あ、ありがとう」
平日のお昼前。二階の自室でくつろいでいた私は、柚子にリビングまで引っ張り出されていた。
「でも、ちょっと気が早いよ。まずデビューどころか、受賞だって決まってないから。……へへ」
謙遜しようとしたものの、私は堪え切れず、つい口をつぐんで笑ってしまった。
柚子はハーフツインの髪を揺らして、
「お姉ちゃん大好きー!」
「わっ」
ぎゅうぅっと抱きつき、溢れんばかりの愛情を全身で表現。結果、尻抜けになった姉の言い分は完全にスルーされた。
柚子は気の強い一方、私にべったりの甘えたがり。その上で要領がよくてスポーツもできて、なにより愛嬌がいい。ときどき言動がぶっ飛んだりするものの、それすら人に好かれる魅力となっている。私とちがい、みんなの人気者。自慢の妹なんだけど、最近は身体つきも私より女性らしくなってきていて、そこは少々恨めしく思っている。
「ありがとね。私も大好きだよ」
己の胸板におっぱいを押しつけられたことで少し冷静になった私は、愛する妹を強引に引き剥がした。
「あーん」
柚子は名残惜しそうに私から離れると、仕切り直して再び微笑んだ。そして大袈裟にお辞儀をし、テーブルに向かって両手の指をピロピロ動かす。
「さあ、お姉ちゃん。今日はお姉ちゃんのために、ご馳走を用意させていただきましたっ」
テーブルの中央、大皿の上には私の大好物、揚げたての唐揚げがどっさり盛られている。さらにはスナック菓子とジュース。そしてホールのチョコレートケーキ。まるで夢の国みたい。共働きの両親がこの時間いないのをいいことに、好き勝手やりたい放題だ。末っ子の特権というか、行動力が凄まじい。
「どうしたの、これ。特にチョコケーキ。凄く立派」
ふわふわのチョコクリームとココアパウダーに覆われた、美しく輝くブラウンのケーキ。いくら柚子が料理上手でも、私に気づかれず、これほどのものをひとりで作り上げたとは思えない。しかも中央に飾られた白いプレートには、チョコペンで『CONGRATULATIONS! YOU ARE NOVELIST!』と記されていた。なんて仰々しい。
「ショコラトルテケーキだよ!」
柚子は自慢げな顔で言った。
「ショコ……なに?」
「だから、ショコラトルテ! 先週お姉ちゃんの小説がいいとこに残ったって聞いて、お店に予約しといたの。ふたりっきりでお祝いしたくってね。おかげで下駄箱に隠してあるお父さんのヘソクリ、ごっそり減っちゃった!」
「後日お父さん涙目で草。……で、でも。気持ちは嬉しいけど。まだ受賞が決まったわけじゃないから」
私は焦りを感じて、ご機嫌な妹に釘を刺した。
「えー、だけどぉ。そこらの新人が狙える賞じゃないって、応募前にお姉ちゃん言ってたじゃん」
「う、うん」
だからこそ私自身、驚いている。執筆や推敲にたっぷり時間をかけたとはいえ、人生初の長編作品がここまで届くとは思っていなかった。
「そんな賞のサイシュー? に中学生が残ってるんだから、マジでスゴいよ。私の読みだと審査員の人たち、お姉ちゃんの才能をバッチリ見抜いてるね」
「ど、どうかなあ」
柚子は読書といえば漫画かライトノベルな、偏った造詣を持つ女の子だ。正直、その慧眼の信憑性は疑わしい。それでも、かわいい妹にベタ褒めされて悪い気などするはずもなく。
「きっと編集部だか出版社だかの総がかりで、お姉ちゃんをバンバン売り出す気なんだよ。決まってるよ」
「き、決まってるの?」
そんなわけないでしょーっとは思いつつ、柚子があまりに自信たっぷりなので、私は強く言い返せなかった。
「女子中学生……あっ、もう女子高生かぁ。つまり女子高生作家だね。お姉ちゃんカッコいい!」
「え、えー。……ええー」
あんまり柚子に囃し立てられるものだから、つい私は未来の自分を想像し、一瞬うっとりしてしまった。
女子高生作家、鳥川魚美。うん、悪くない字面かも。
でも、図に乗ってしまうと後がこわい。
「やっぱり……絶対じゃないと思うよ。皮算用で泣きを見るなんて、業界ではザラだからね」
受賞なり出版なりが確定するまで、なにが起こるかわからない。だって小説のみならず、エンタメ業界には悲惨な実例が山ほど埋まっている。ネットで見たから知ってるんだ。
「スゴい!」
柚子が感嘆の声を上げる。
「いまお姉ちゃん、プロの人みたいだったよ。ギョーカイ! カワザンヨー!」
「えっ、そうかなあ。へへっ、えへへへへ」
なんだか気持ちよくなってきちゃった。
柚子はウキウキしだした私の腕を引っ張り、椅子に座るよう促す。
「ほら、唐揚げ冷めちゃう。頑張って作ったんだから、早く食べよっ」
「う、うん」
カラリと揚がった金色の衣。その中に閉じ込められているのは、もちろん肉汁たっぷりの鶏もも肉だろう。大好物の誘惑に、思わず喉が鳴る。
「好きでしょ、唐揚げ」
「……うん。好き」
「聞こえない!」
「す、好き!」
「私のことは?」
「大好き!」
「柚子もー!」
きゃっきゃうふふと席につき、私たちはオレンジジュースで乾杯した。
その際、
「カワザンヨー!」
「かっ? か、かわざんよー」
前代未聞の乾杯音頭。たぶん意味もわからず使ってるよね。柚子の国語力に若干の不安を抱きながらも、水は差さないことにした。せっかく最愛の妹が、私のために用意してくれた場なのだし。
さっそくお箸で唐揚げをひとつ取り、齧りついた。
サクッ、じゅわあ。もごもごもご。
「んんっ」
「どう?」
「……おいっしい」
ベタな感想しか出てこなかった。これから小説家になろうって人間の割に、私ってば語彙が死んでる。だって仕方ない。どうしても先に「美味しい」が来ちゃう。
歯を立てた瞬間、サックリ小気味よい音を立てる衣。適度に薄くまぶした粉と、絶妙な揚げ時間が両立して初めて成るそれは、積み重ねた経験の賜物だ。そして衣の奥で身を潜めていた鶏肉は、噛むたび旨みが口中に広がっていく。もちろん固すぎず、柔すぎずの理想的食感。それと同時にガツンとくる香味野菜の風味は、自家製のタレにしっかり漬け込まれていた証だ。
柚子の腕前と行き届いた心遣いに感謝した上で、私はその味を、そして幸せを噛みしめた。ニンニクのにおいが不安だから後でブレスケアは必須だけれども、いまはこの至福に浸りたい。
「美味しい、美味しい」
「よかったー。お姉ちゃん細いんだから、もっとガツガツ食べてねっ」
「……そう、ね」
私は柚子の胸元に一瞬だけ視線を送り、すぐに戻した。他意はないはず。妹を信じろ。
その後、ふたりして競うように箸を進め、唐揚げの山が平らになってきた頃。柚子が改めて私を称賛しだす。
「スゴいよねー。スッゴい賞なんだよねえ。そんなのを初めて書いた小説で獲るとか、やっぱお姉ちゃん天才じゃんね」
私は口の中に残った濃ゆい油をジュースで流し込んでから、
「い、いやー。まだ受賞できるかはわかんないし、天才でもないけど。……でも、たしかに。この歳で、あの賞に最終まで残ったことがあるのは、私だけなんじゃないかなあ」
つい調子よく語ってしまった。実際、それほどの狭き門ではあるのだが。
「快挙だね、偉人だね」
「うふっ、ふふ。えー。そうかなー、そうかもなあ」
褒められ。乗せられ。やがて歯止めが外れて、すっかり私は舞い上がっていた。
「あっ、いいこと思いついた!」
私以上にテンション高めな柚子が、顔を綻ばせる。
「これからお姉ちゃんは女子高生作家になるんだし、高校デビューもバシッとキメないとね」
女子高生作家。つくづく、なんと甘美な響き。って、ちょっと待って。
「こ、高校デビュー?」
小説家デビューする前に、高校デビュー? 進学を機にイメチェンして、過去の自分にバイバイするっていう、アレ?
「そうだよ、高校デビューだよ。お姉ちゃんのよさを、スゴさを、パンピーどもにわからせてやらなくっちゃ」
「い、いやー。そういうのは。……どうだろう」
中学はもちろん、思い返せば小学校でも保育園でも、私は友達なんていなかった。まごまごしてたら、すぐ「暗い」とか「もっと喋れよ」とか小言を言われて。なんて返せばいいのか、余計にわからなくなって。それで、そのたび逃げてきた。
そんな私が高校デビューなんて冒険、おっかないよ。おんなじ中学の子だって、何人もいるだろうに。
尻込みする私に対し、柚子は険しい顔つきをしていた。一歩も退く気はなさそうだ。
「だってお姉ちゃん、天才小説家なんだよ。バカどもと仲良くする必要なんてないけど。お姉ちゃんには私さえいればいいけど。でも、お姉ちゃんのスゴさは知らしめなきゃ」
「……柚子」
小さい頃から人付き合いが下手で。そういうの、どうやったらいいか全然わかんなくて。そんな私は孤立して、小学校でも中学校でも、何度か不登校を経験していた。誰のせいでもない、私自身の至らなさが原因。でも、柚子にはそれが我慢ならないらしい。
柚子が私のためを思い、私の同級生に噛みついたことも何度かある。大体は誤爆だったのだけど。
いつも、この子の気持ちに応えられない自分が嫌いだった。いまなら。女子高生作家になろうとしている、いまの私なら。もう柚子に心配をかけない、新しい、強い私でいられるのかな。
「で、できると思う? 私に」
「大丈夫だよ! やろうよ! 私が作戦考えるから!」
「う、うん。……それじゃあ」
「やったー!」
自信満々な柚子の勢いに気圧され、自分でも意外なくらい、あっさり私は同意してしまった。でも、いい機会だったのかもしれない。変わりたいとは、ずっと前から思っていたし。
不器用で臆病で情けない、心配かけてばかりの私が立派になれば。きっと、柚子も安心してくれる。
「って言っても、お姉ちゃんはビジュアル完璧だから、すでに手を加えるトコがないんだよね。お姉ちゃん以上にかわいい生き物なんて、三次元には存在しないし」
「ええぇ」
大ハシャギから一転、すっかり参謀モードの柚子。その身内びいきの色眼鏡に私は
「しいて言えば、ちょっと前髪は長いかなあ」
「……絶対に切らないよ」
前髪は外界と私を隔てる、文字通りのブラインドだ。これがないと世界は私には眩しすぎる。ここだけは、けっして譲らない。乙女のポリシー。
「だよねえ、知ってる。諦めた。……だからイジるなら、見た目より中身。っていうか会話……挨拶? あっ。お姉ちゃんだと入学式で新入生代表の挨拶とか、やらされるのかなぁ?」
「あ、ううん。それは辞退しちゃった」
入試の成績が反映され、学校側にお声はかけていただいたのだけど。何百人もの前で壇上に立つなんて、正気の沙汰じゃない。
「じゃあ、代わりに……クラスで自己紹介とかあるよね。そこで一発キメちゃおうよ」
「う、うん」
それも十分こわいけど。式典中に勝負をかけることと比べれば、教室内ではっちゃけるくらい、できそうな気がした。
「私が強烈なの考えてあげるねっ」
「……ほ、ほどほどに」
「あーっ、思い出した。好きなラノベに丁度いいセリフがあったんだ。それを参考にしてみよーか」
「ら、ラノベ?」
それって、ライトノベルのこと? あの、言っちゃ悪いけど。ろくに読んだことないから、偏見だとは思うけど。キャラと設定がぶっ飛んでればオッケー、みたいなイメージの。ともすれば、冴えない男子が美少女とわちゃわちゃする的な内容のものが大半の。妄想を濾過せず書いたような作品が蔓延る、一般文芸とは一線を画する魔窟? 魔界? そんなところから参考に?
必然、危険な香りしかしない。
「ただの人間には興味ありません。ハイ、言ってみて」
「い、イヤだ」
さすがに拒否。それは自己紹介じゃない。独裁者の意思表示もしくは宣戦布告だ。あるいは神さまの所信表明。言ったの誰だよ。神か。神なのか。
「えー。そしたら、もう少しマイルドに――」
どうしよう。
柚子がプランを練っていくほどに、自分の中でネガティブな感情が増していく。芽吹きだしていた期待と希望を、不安と恐怖が凌駕する。かと言って私には、本気になった柚子を止める術がない。
どどど、どうしよう。
そうだ。いざとなったら、実行した振りだけすればいい。だって中学生の柚子は現場にいないのだから、たしかめようがない。嘘は心苦しいけれど、一応そんな抜け道はある。
そう思ったら、少し心が軽くなった。
けれど柚子は笑みを浮かべ、
「しっかり録音しといてね」
「え」
「お父さんにスマホ買ってもらったもんね、できるよね。後で一緒に聴こうね」
「えっ、うん。……え?」
アウト。逃げ道を塞がれた。この子は妙なところで抜かりがない。いや、純粋な柚子のことだ。こちらを疑っているわけではなく、ただ姉の勇姿を見届けられない分、せめて音声だけでも、と考えたのだろう。
姉妹愛に燃える妹は、ますますヒートアップしていく。
「東京から来たって言っちゃおっか。田舎の人間は東京のこと好きでしょ」
「え。嘘じゃないの。嘘はダメだよ、悪いことだよ。やめようよ」
数十秒前の自分を棚上げし、そんなことを言ってみる。そもそも私たちだって、田舎の人間だし。島民だし。
「大丈夫だよ。春休み入ってすぐ、東京の遊園地に行ったじゃん」
「ああ。……正確には名前に東京って付いた、千葉の遊園地だけどね」
「細かいことはいーの。で、東京から私たち、もう帰ってきてるんだよ。東京から、来てる。ほら、嘘じゃないでしょ?」
「……ほ、ホントだ」
まさか妹に、とんちの才があったとは。
実演すれば、きっと同じ中学の人とかにツッコまれる。そしたら私がカラクリを明かして。ちょいウケなんかをしたりして。
へへっ、悪くないかも。
「お姉ちゃん、頑張ってね」
柚子は目を輝かせていた。
「う……うんっ」
もう覚悟を決めろ、鳥川魚美。
例えスベっても、これまで通り、ぼっちになるだけだ。それに、いまの私には小説がある。私は小説家になるんだ。女子高生作家に。だから人前でスベるくらい、全然平気。ごめん嘘。ホントはこわい。逃げ出したい。
でも女子高生作家という夢が。ロマンが。変わりたいという願望が。私を信じてくれている柚子の存在が。かろうじて私に勇気を与え、この背を押した。
やってやる。
かわいい妹の期待に応え、高校デビューくらいビシッと決めてみせよう。案外あっさり、クラスの人気者とかになれちゃうかも。いやいや、それは高望みかな。
なんでもいい。とにかく変わるんだ。一歩踏み出して、新しい自分になるんだ。だって私は、この春から小説家。
ふふふっ。
希望で胸が熱くなる。
柚子のプランに頷きながら食べたケーキは、舌がとろけそうになるくらい甘かった。
そして、入学式から四日が経った土曜日。
花の女子高生、初めての週末。などと気取ったところで、なにか特別な予定があるわけでもなく。私は未来の作家らしく張り切り、自宅で新作のネタ出しや構想に時間を費やすつもりでいた。
ところが。
「イヤだー!」
昼下がり、鳥川家に悲痛な叫び声が上がった。
「やだやだやだやだ、やめてやめてやめて」
悲鳴のヌシは誰あろう、私である。さんざん逃げつづけた挙句、追い詰められた自分の部屋。ベッドの上で、うつ伏せに押さえつけられていた。
「すぐ済むから大人しくしてよ!」
私を組み伏せ、暴漢まがいのことを言ってくるのは愛しの妹、柚子。
相思相愛だったはずの私たち姉妹は、今朝から鬼ごっこと、くんずほぐれつのキャットファイトを繰り返していた。当然のように、ほとんど私が劣勢。午前中は追い込まれても、大声を出しさえすれば、お母さんが駆けつけてブレイクしてくれたのだけど。もうレフェリーはパートに出てしまったため、助けてくれる人はいない。レフェリーの夫に至っては、日が出る前から魚釣りに行っているので論外だった。
柚子の目当ては私が握りしめるスマホ。正確には、その中のデータだ。
入学式のあの日。私は約束通り、スマホでホームルームの様子を録音していた。もちろんバレたら叱られるので、学校側には内緒だが。
あのときの自分の心境だけは、いまも鮮明に覚えている。というか緊張のあまり、まわりをろくに見ず、話を聞いてもいなかったため、ほぼ自分のことしか記憶にない。
ホームルームの始まりを告げる、担任の先生の明るい声。なにかしらの朗らかな挨拶。なんらかのガイダンス。それらを陽気に受け入れるクラスメートたち。
一方、私は彼らを
場の空気にそぐわない、ひとりだけ過度に緊張した異物。ホットコーヒーの中に放り込まれた氷のような心許なさ。うしろの席なのは運がよかったと言えるだろう。かろうじてカップの
喉はカラカラ。心臓バクバク。膝は笑い、手の震えも止まらない。
そんな状態の中、いつのまにか始まっていたクラスメートの自己紹介。窓際の列から順番にサクサク進み、すぐ自分の番が回ってきた。
なんとか全身のバネを駆使して立ち上がりはしたものの、私は何人もの視線に怖気づき、ますます身を強張らせていた。恐怖と緊張が高まり、現実感がなかった。頭がふわふわしていた。握りしめたスカートの生地の、厚い質感だけがリアルだった。
前日まで柚子と練習してきたことをやるしかない。そう意を決し、息を吸い込む。喉の奥から、ひゅうっ、という風を切るような乾いた鋭い音が鳴った。
勇気を振り絞って、精一杯の声量で発した名前。ちょっと間を置き、小粋なジョーク。そして放った、必殺の自己アピール。
まあ殺されたのは私なんだけど。
周囲のリアクションを窺うゆとりはなかった。と言うより、そんな必要もなかった。クラスメートのどよめきは、私に高校デビュー失敗を痛感させるのに十分だったから。
前髪が長くて助かった。このブラインドがなければ、私はよりダイレクトにまわりの視線や動揺を感じ取っていただろう。逆も然り。火のように熱く燃える私の顔も、人目に晒されていたにちがいない。
ふと、そんな私をチラチラ見ている、隣の男子の視線に気づいた。やらかしてしまった私を見て、にやついているのだろうか。気持ち悪い。でも負けない。取り戻せ平常心。私は無理やり口角を上げ、「こんなの余裕ですけど?」アピール。これ以上、誰にも弱みを見せなくなかったから。
少し経って、ほかの生徒の自己紹介が行われていくうち、隣の男子の不快な視線は途絶えた。密かに安堵。そんな中で私は、こっそりスマホを操作し、震える指で録音を停止したのだった。
その日、帰りの時間まで、私に話しかけてきてくれたクラスメートは皆無。
ひとりぼっちの帰り道で私は涙ぐみ、鼻をすすり上げた。
けど、過ぎたことは仕方ない。ぼっちなんて慣れっこだ。心を強く持て。全然平気。だって私は女子高生作家になる女。そう何度も何度も自分に言い聞かせ、歯を食い縛った。
それでも、私のために尽くしてくれた妹にだけは惨状を知られたくない。だから家へ着くまでに録音データを削除。柚子には「ごめーん、録れてなかったー」と呑気に振る舞い誤魔化した。
その夜はひとり静かに枕を濡らしたけれど、ひとまず高校デビュー立志編、完。次回作の予定はございません。
と、そのはずだったのに。
今日になって、リビングで朝食を食べ終えた後。猫なで声の柚子に「お姉ちゃあーん、ちょっとソレ貸してぇー」とねだられた私は、まったくの無警戒で「いいよぉー」とスマホを渡してしまった。
すると、どうでしょう。
『一年四組の皆さん、改めてご入学おめでとうございます』
あら不思議。担任である小八木先生の、溌剌とした声が流れてきたではありませんか。
スマホ内のデータってパソコンと一緒で、削除しても一旦は別の場所に保存されるんだねわーい知らなかったー!
そうして始まった骨肉の戦い。
結果、より力の強い方が己のわがままを通した。
「お姉ちゃん。恥ずかしいのはわかるけど、私たちの間に嘘と隠しごとはナシだよ」
「ううう」
無念。さすが県内屈指の剣道小町。私とはフィジカルがちがった。
「最初っから怪しいと思ってたんだー。あの日、自覚なかったかもだけど、『ととと、録れてなかったー』って超絶どもってたし。だからお姉ちゃんの気が緩むまで、我慢して待ってたの」
「そんなあ」
抵抗むなしく、とうとう奪われてしまったスマホ。柚子はベッドに寝転び、その録音内容をチェックしだした。
私も諦めてベッドのヘリに腰かけ、渋々耳を傾ける。即日削除したので実は私自身、音声を検めるのは初めてだった。心を占めるのは恐怖。でも、ちょっとだけ期待。なぜなら、あの凍てついた紅蓮地獄は、あくまで私の主観なのだ。客観的に聴けば案外マシだったりするかもしれない。日を置いたことにより、そんな希望的観測が私の中に生まれていた。
再生された音声は、問題の自己紹介タイムに突入。次々にクラスメートが名乗っていくけれど、四日間、教室で俯いてばかりだった私には、誰が誰だかさっぱりだ。
しかし、それでも思わず声が漏れることはあった。
『クロキダイスズ。帰宅部希望』
「わっ」
冷たいハスキーボイス。素っ気ないのに引き込まれる、不思議な魅力の声だった。
「ん? お姉ちゃんの友達?」
「いや、綺麗な声だなーって」
そして私に友達などいない。自分で言ってて悲しくなるけど。
ホームルーム開始とともに録音し始め、それきりスマホはポケットに入れたままだった。だけど、さすが最新機種。音声は割とクリアに残っている。特に、いまの女子の声はしっかり聴こえた。私の席と近いのかもしれない。
「お姉ちゃんの声の方がかわいいよ?」
「……あ、ありがとう?」
お姉ちゃん大好きっ子の柚子は、折に触れて私の容姿なり喋り方なり所作なりを持ち上げる。呈する賛辞は語彙力不足か、大体いつも「かわいい」の一点張りだ。
そんなわけないのに。
私みたいに陰気なブス、かわいいわけがない。そういうのは柚子のように活発で愛嬌のある、人気者のことを言うのだ。
人望は人の魅力のバロメーター。友達ゼロの私は魅力もゼロ。本人が一番わかっている。
悪気がないことは知っているので、私は柚子に褒められても、適当に流すことにしていた。かえって惨めな気持ちに陥ることもあるけれど、はっきり否定できない自分が悪い。
そんな風に私が思い煩っている間にも、音声は流れっぱなし。顔も知らないクラスメートたちによる、当たり障りのない内容の自己アピールがつづいていた。
『サトウウシオです。趣味は読書です。文芸部に興味が――』
そっか、文芸部。そんなのもあるのか。でもプロ作家(予定)の私が入部しちゃったら、ほかの人が萎縮しちゃうよね、なんて。
「なーんかコイツら、つまんなーい」
柚子は早くも飽きだしたらしく、不満の声を漏らした。
「いや自己紹介って、こんなものじゃない? 普通はさ」
その普通こそ、こういう場面では一番大事。いまは心からそう思う。とっくに後の祭りだけれど。
そんな中、一風変わった人もいた。やや離れた席なのか途切れがちな音声だったけど、
「――カエデです。いい大学の推薦を――このクソ田舎から出るため、内申点目当てで生徒会に――。とりあえず、このクラスでも学級委員を――」
なんとも、あけすけなことを言う女子だった。ちなみに、ややウケ。クラスの皆さんはパンチの効いたジョークと受け取ったみたい。でも私には冗談に聞こえなかった。
柚子も「うわヤバいよコイツ」と引いている。例の自己紹介を考案した柚子がこうまで言うってことは、ひょっとすると私の方がよさげなのかも。
希望の芽が伸びだした。
当日はいっぱいいっぱいで、ほかの人の話なんて聴いてなかったけど。もしかして私、案外イケてたんじゃない?
今日に至るまでクラス内で話しかけてくれる人は、ほぼゼロだったけど。そんなの、たまたまだったんじゃない?
週明けからは、憧れの明るい高校生活が待ってるんじゃない?
そんなことはなかった。そんなわけがなかった。
問題の、私の自己紹介。始まった途端、柚子は「うおーっ」なんて言ってハシャいでいたけれど、すぐに押し黙った。
私自身、なにも言えない。なにも出てこない。
気づけば息が乱れていた。頭と胸は熱いのに、背中や手足の先は冷たい。己の中で、羞恥心と恐怖心が渦巻いている。
まさか今朝までの主観的な感想の方が、ずっとマシだったとはね。いっそ、そうニヒルに決めたくなるほど、私のそれは惨憺たる自己アピールだった。
やがて私の出番が終わると、柚子は再生を止めた。
そして、
「お姉ちゃん」
振り向く勇気のない私の背中を、柚子の声がそっと叩いた。
私は妹の、これほど悲しげな声を初めて聴いた。一生聴きたくなかった。
「な……なに?」
「ご、ぎ」
石を呑み込んだような、硬い、引っかかる呻き声。つづく言葉は、
「ご、ごべんだざい」
ごべんだざい? あ、ごめんなさいか。
なんで柚子が謝るのっと思って顔を向けると、愛しの妹はボロボロ涙を流していた。
「柚子!?」
この勝ち気な子が泣くのを見るのなんて、一体いつ以来だろう。
「ど、どうしたの柚子。お腹痛いの」
「……ちがう。でも、うん。いだい」
柚子はしゃくり上げながら声を絞り出した。
「わ、わだじのっ。せい、でぇ。……お姉ちゃんが、いっ、いだいっ人に」
「やめてっ」
私は思わず悲鳴を上げてしまった。
そんなにか。そんなに酷かったのか。企画発案者の耳にさえ、それほどの大惨事に聴こえたのか。
「わだじ……お姉ちゃんのだめっで、思っでぇ。でも、あ、あ、あんないだいごどに……なるっでぇ、思わなぐっでぇ」
「やめて柚子、ホントやめて。お姉ちゃんのことを痛いって言うのは本気でやめよう」
こちらの心の傷に沁み入る懺悔だった。
「で、でもぉ」
「アレはね」
私は短く言葉を切り、最愛の妹を見つめた。柚子も顔を上げたので、お互い目が合う。
「アレは、私が私の意思でやった自己紹介だよ。柚子のせいなんてことはない」
「……だけど」
「大丈夫」
私は喘ぐ妹を前にして、自分の不甲斐なさとか恥ずかしさとか後悔とか、そういう負の感情を押し込めた。
「待ってて柚子。お姉ちゃん、小説家に。女子高生作家になるんだから」
だから、これくらいの失敗なんて平気だよ。
そう、つづけて言うつもりだったが、声が掠れて出てこなかった。
それでも。
「お、おねえ」
「この先、もし学校でぼっちでも、私には柚子がいる。そして小説がある」
「待っててね。お姉ちゃんの晴れ姿、もうじき見せてあげるから」
「……お姉ちゃん」
「柚子、大好きだよ」
「わ、わ、わ、わだじもぉ」
柚子は縋りつき、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を私のシャツにうずめる。
その湿っぽく生暖かい感触を受け止め、私は柚子の頭をそっと撫でた。
こんな自分を想ってくれる妹がいる。そして私自身、夢がある。自信がある。
だから私は、前に進めるんだ。
新たに事態が動きだしたのは、四月半ば。編集者さまから、有り難いお電話を頂戴したときだ。
たしか内容は、
「ほかの応募作が力作揃いということもあり今回は受賞を見送らせていただきましたが我々は鳥川さんに期待していますのでうんぬんかんぬん」
みたいな。
あまりのショックで後半は耳に残らなかったのだけど、最終的には今後のご健闘をお祈りしています的なことを言われていたように思う。間を置かず届いたメールの結びも同様。就活生か私は。ああ、いや。似たようなもんか。小説家だって職業だし。お仕事だし。
どうあれ、落選。
その事実は私の心をかつてないほど深く抉った。
あの自己紹介を思い返し、ひとり震える夜も。クラスでの村八分も。かわいい妹の涙さえも。すべて耐えてきた。
なぜなら私には、女子高生作家になるという希望があったから。
その望みが。心の支えが崩れたとき。私は絶望の淵にいた。
それでも、屈するわけにはいかない。
「お姉ちゃん?」
結果を知った柚子は、いたたまれない表情。私をどうフォローするか考えあぐねている様子だった。
お父さんやお母さんも、私のやっていることを受け入れ、認めてくれていた。応援してくれてはいた。けれど、どうせ無理だと思ってもいただろう。そういうのって、わかる。伝わる。近しい関係な分、余計に。
大人は子どもの本気を知らない。
でも、妹だけは。柚子だけは、私を本気で信じてくれていた。期待してくれていた。
にもかかわらず。その信頼を、期待を。私は裏切った。
それでも。ううん、だからこそ。
「大丈夫だよ」
虚勢を張るしかない。柚子の前でだけは、この子が信じる私でいたい。
「受賞はできなかったけど、編集さんにアドバイスはもらえたし。新人賞なんて、いくらでもあるし。すぐ次の賞に挑戦するよ」
「……じゃあ、これからも書くんだよね。小説……イヤになったり、してないよね」
おっかなびっくり訊ねる柚子。例の件で私を焚きつけてしまったと、いまだに罪悪感を抱えているのだろう。
ごめんね、柚子。情けないお姉ちゃんで、ごめん。
「当たり前でしょっ」
私は暗い感情を抑え、なるべく明るく応えた。
そして、
「私は、ただの人間じゃないからね」
冗談めかして言ったつもりが、気づけば目から雫が溢れていた。
「おねえええええ」
柚子の取り乱し方は私以上。結局、情けない姉は妹と涙ながらに抱き合い、慰め合った。
このままじゃ終われない。待ってろ文学界。私の。私たちの戦いは、これからだ。
当然、まだ問題はある。女子高生作家をめざす上で外せない、欠かせない、通わざるをえない魔境。その名も高校。
入学早々ぶち上げ、ぼっち化し、しかも選考結果は惨敗。この状況下で登校するのは、非常にこわい。
だって知ってる。私のいないところで、クラスの人たちが私を笑ってるって、知ってる。これから、きっと、もっと、バカにされる。
でも失態は取り消せないし、私がクヨクヨしていることを柚子が知ったら、余計に傷つけちゃう。だから平気な振りをして、踏ん張りつづけるしかなかった。
それが、どんなに惨めでも。みっともなくても。
そんなこんなで四月末、ゴールデンウィーク前夜。
「コレ、お姉ちゃんにプレゼント」
四月二十八日。私の誕生日に柚子が贈ってくれたのは、新品のパーカーだった。
「わっ。……ありがとう」
雪白の布地に、凝った
「凄くカッコいい。……またお父さんのヘソクリ?」
ちょっと意地悪な訊ね方をすると、柚子は首を横に振った。
「ううん、私のお小遣い」
私は胸がじんわり熱くなり、改めてお礼を言いたくなった。
「ありがとう。……私、毎日これ着て学校に行くね」
「……ま、毎日?」
実際に袖を通してみると、やや大きめ。だからこそ、フードで頭や視界をすっぽり覆うことができて落ち着く。素敵。その気になれば萌え袖もイケるし。
ちょっと目立つかな。それでも不思議と、このパーカーを着ていれば、周囲の刺すような視線を耐え忍ぶことができそうだと思った。
まあ視線なんて大半が自意識過剰の産物で、もはや私を気にかける人など、ほとんどいないのだけど。
身構えていた割に、私の作品の落選が発表された後、直接的に私をいじるような性根の悪い人はクラスにいなかった。みんな、きっと自称小説家の痛い陰気女子になんて興味なくて、それぞれのスクールライフに夢中なのだろう。ホッとする反面、悔しい気持ちもある。一世一代のつもりで臨んだ、あの自己紹介はなんだったのか。
とどのつまり、私は中学までと一緒。息を潜めるように過ごし、誰の邪魔もせず、誰とも関わらず。そんな高校生活を送っていた。
唯一、教室で私の列の一番前に座るカエデちゃんって子だけは、日に一回は必ず話しかけにきてくれる。やや長身で、ノンフレーム眼鏡の似合う、毅然とした雰囲気の女の子。初日のホームルームで私より早くヘンテコな自己アピールをしていた、あの内申点目当ての子だ。本人の目論見通り学級委員に就任した彼女は、つんけんしつつも面倒見がいい。ひょっとしたら、あの挨拶は本当に彼女なりのジョークだったのかも。なんにしろ気を遣ってもらえるのは嬉しく、有り難かった。それ以上に、ろくな返事もできない自分が申し訳なくもあったのだけど。
そういえばカエデちゃんが来てくれるのは大抵、なぜか私の隣の男子が席を外しているとき。これは偶然なのかな。
隣の男子といえば、あの人は一体なんなのだろう。
少し背が高めの、言っちゃ失礼だけど、目立った特徴のない地味な男子。
彼は授業中とか休み時間内とか、ふと気づけば、こちらを横目で見てくるのだ。それなのに私が顔を向けると、パッと目を逸らす。
これまで会話はおろか、挨拶すら交わしたことはない。そのくせ、じとーっとした視線だけは送ってくる。
なんて失礼な。そして気持ち悪い。先生に相談するべきだろうか。でも逆恨みとかされたらイヤだな。今更だけど、小八木先生からの席替えの提案を蹴ってしまったことが悔やまれる。
「きっもちわるぅ」
つい家で男子のことを愚痴ってしまった際、返ってきた柚子の意見がこれである。だよね、やっぱりそう思うよね。
「ほとんどストーカーじゃん、そのモブ男。絶対お姉ちゃんに気があるよ。キッモォ。キモォ」
柚子は新種の牛さんみたいな鳴き声で、何度も「キモォ、キモォ」と繰り返した。さすがに気の毒。
「いや、でも。私の勘違いかもしれないし。その人、ほかの女子とばっかり話してるし」
そう。その男、自分の左隣に座る、やたら語気が荒い黒髪ロングの超絶美女とは、しょっちゅう親しげに話している。
「あえてだよ、あえて」
「……どういうこと?」
「あえて別の女と楽しそうにして、お姉ちゃんの気を引こうとしてるんだよ」
「そんなバカな」
不覚にも吹き出してしまった。私みたいな痛い根暗ブス相手に、恋の駆け引き的なことをするメリットなんてないでしょうよ。
しかし柚子は、すこぶる真剣な顔。
「ヤバいよソイツ。女を性の対象としか見てないタイプ。私にはわかる。絶対に近づいちゃダメだよ、お姉ちゃん」
「う、うん」
世の中に、こんな身近に、そこまで悪い人がいるとは思いたくない。けれど男女問わずモテモテの柚子は、私より遥かに異性の生態について詳しいはずだ。直に見もせず、こうまで言うのだから、隣の男子は相当なのかも。私の気を引こうと……なんて妄言は聞き流すとして、警戒するに越したことはない。私だって、一応は乙女なのだから。
また、その男子と仲のよさそうな、ワンレングスの黒髪美女。たしか名前は……クロキ? クロキダ? いや、クロキダイさん。字面で見れば一発なのだけど、どうも私は他人の名前を音で覚えるのが苦手だ。人付き合いの経験が乏しすぎるせいだろうか。
この、クロキダイさん。窓際最後尾に座る彼女は、どうやら録音を再生したときに私が惹かれた、あのハスキーボイスの持ち主で間違いなかった。常に上擦っている私のそれとは全然ちがう、思わず聞き惚れそうな冷めた声。正直、羨ましい。
しかも背は私と変わらないのに、手足はスラッとしていらっしゃる。その上、女性らしいメリハリあるスタイル。切れ長の目と尖った紅唇の際立つ、大人びた細面。そして授業中、背もたれに身を預け、腕を組んで堂々と居眠りする胆力。ああ、これはダメなところか。
とにかく、なにもかも私とちがう。同級生とは思えない。まるで大人と子どもみたい。
もし神さまに彼女と自分のなにを取り替えたいって訊かれたら、とりあえず外見は全部って答える。もちろん声帯含めて。それくらい、私にとって理想的な
私はクロキダイさんとも口を利いたことはない。けれど私が窓際に目を向けるたび、やたらと目は合う。
ていうか睨まれてる。隣の男子越しに、私は彼女から睨まれている。せっかくのアーモンドアイを挽いてすり潰したような、鋭い目つきで。そのたび私は、「ひっ」と悲鳴を上げそうになりながら、顔を背けていた。
私、気に障るようなことしたかな。したんだろうな。とにかく彼女には、絶対に近寄るまいと決めていた。もし「ヤキソバパン買ってこい」とか言われたら、売店に行く振りをして家へ帰ろう。
大小さまざまな悩みを抱える中、肝心要の新人賞再挑戦。
私は自分なりに考えた結果、新作よりも、落選作品の手直しに注力すべきと判断した。だって、いまプロットや構想段階のものも含めた自分の手持ちの中で、一番世に認められる可能性が高いのは、最終選考まで残ったこの作品だから。
『オーバーナイト・ハイキング』
これがタイトル。とりあえずカタカナにしとけばカッコいいかなっと思って、そうしたのだけど。いまとなっては、改題の余地があるかもしれない。
離島に住む友達のいない女子中学生が、ギャルっぽい同い年の子と出会い、不思議と意気投合。紆余曲折を経て、ふたりで深夜、ある人物の死体を山へ埋めにいく。全体的に陰鬱としたストーリーの中、主人公はギャルとの交流に悦びを見出して――っていう、ダークな青春サスペンス。
自己投影、反映。妄想。想像。地元をモデルにした舞台。その上での陰気な事件。私の中にあるものをありったけ注ぎ込み、しっちゃかめっちゃかながら、どうにか完成させた処女作だ。
私はこの作品に懸けている。
しかしながら、進捗はよくない。
一応、編集者さまの助言を受けて自分なりに直してはみたが、しっくりしないのだ。たぶん私なりのテーマや伝えたいことと、その道のプロが言及してきたもの、求めているものが異なっている。この認識のズレを修正できないと、きっと私は次の段階に進めない。ズブの素人にとって、プロの壁は思った以上に高かった。
もっとアドバイスがほしいところだけど、きっと編集者さまに訊ねてもウザがられるか無視されて終わりだろう。だって商品価値がないと判断されたからこそ、落選したわけだし。
机に向かいながら、今度は自分自身に言い聞かせる。
「大丈夫」
柚子を励ましたときと同じセリフ。
大丈夫。私は大丈夫。
踏ん張って改善点を見出し、より優れた作品に仕上げる。そうすれば、きっと上に行ける。明るい未来が待っている。
そうだ。待っててよ柚子。お姉ちゃん、女子高生作家になるからね。
そのためなら、健全な高校生活なんていらない。私の青春全部を原稿に捧げるつもりで取り組んでやる。
ある朝、ふと洗面台の鏡を見ると、目の下にクマができていた。連日の夜更かし作業と心労の影響か。いかに陰気ブスとて、これは女子として由々しき事態。どうしよう、お化粧で隠せるのかな。でも、そんなのしたことない。とりあえず当分は、お父さんの黒ぶち眼鏡を借りて誤魔化そう。
だけど度が合わないな。そう気づいて、「お父さーん、眼鏡のレンズぶち抜いていーい?」とおねだりしてみたら、「ついに魚美に反抗期が来たかーっ」となぜだか喜ばれてしまった。ちがう、ちがうの。そうじゃないの。
とにかくクマ隠しのアイテム、ゲットだぜ。
まあ、どうせ私の顔なんて、ほとんど誰にも見られちゃいないんだけどね。
油断するとネガティブ思考がループし、気落ちしてしまう自分がいる。一度は希望を持ってしまった分、まだ未練が残っているのかも。
友達に囲まれた高校生活。誰かとお昼を一緒に食べたり。放課後、遊びに出かけてみたり。
なんて。
女子高生作家とは別の、ささやかな夢。振り払いきれない、目の眩むような幻影。
そんなものが手に入る可能性、私にはゼロだって、わかっているのに。
五月半ば、転機が訪れた。
「文芸部に興味ない?」
放課後、原稿作業に想い馳せつつ帰り支度をしていたら、例の隣の男子が唐突に話しかけてきた。
いや、唐突ではない。予兆はあった。私は少し前、小八木先生からも勧誘されていたのだ。その時点で文芸部に興味はあったけど、同じクラスに部員がいると聞かされて尻込み。
だってクラスメートってことは、私が痛い挨拶をかました場にいた人ってことでしょ? そんな相手と同じ部活? 無理だよ。
だけど小説好きな人なら、あの惨事に目を瞑って、私なんかとも仲良くしてくれるかも。性懲りもなく、そんな甘い期待を抱いてしまう自分もいた。だから先生の誘いを拒みきれず、なあなあで返事を引き延ばしていた。
その結果、まさか例の男子からも誘われるとは、予想だにしていなかったのだけど。
そうして流され、文芸部の部室へと向かう道中。私は隣の男子――佐藤潮くんに対する考えを改めた。
佐藤くんは、意外にいい人だった。
いい人というか、普通?
普通に会話してくれるし、普通に気遣ってくれる。その上、私のイヤなことには踏み込んでこない。
普通。平凡。ノーマル。プレーン。ああ、素敵な字面。地味は地味だが、不快ではない分、ずっといい。よく知りもせず、勝手に気味悪がってごめんなさい。
おもに柚子から植えつけられたマイナスイメージに身構えていた分、彼の凡庸さにはホッとさせられた。
私ほどではないにしても、佐藤くんも会話下手らしく、ちょいちょい無言になる。でも、だからこそ彼の言葉には偽りがなく、誠実さが感じられた。
柚子が言うほど変じゃない。少なくとも、悪い人だとは思えない。
部室について早々、女子の先輩の着替えをガン見したのはマイナス一億点だけど。私自身も凝視してしまったことを鑑みれば、情状酌量の余地はある。実際、そうなっても仕方ないくらい、おっぱい凄かったし。
そして入室直後に圧倒された文芸部の蔵書は、見たことのない本がたくさんだった。その充実さ、はっきり言って期待以上。これは作家志望者として見過ごせない。
先輩もパッと見は派手で、こわそうなギャルだけど。押しも強いけど。実はやさしそうな人だし。隣に座ると、甘くて澄んだ、いい匂いがするし。
だから文芸部、やってみようかなあって。学校での私の居場所、ようやく見つかったのかなあって。
そう思っていた矢先、こちらの心臓を貫くような一言。
「シオちゃん、現役のラノベ作家なんだよ」
控えめな読書量ながら文芸部の部長を務めるオタクにやさしいギャルこと来海緋衣子先輩はよりによって私を部に誘ってくれた隣の席の男子こと佐藤潮くんがプロ作家であることを明かしどこか誇らしげに笑うなどしている。
ショッキングな情報を受け、私の頭の中では思考の奔流が溢れていた。
このままだと脳のおミソがとろとろに溶けちゃう気がしたので、私は「今日はいい天気でよかったなー」とか、「また柚子の作った唐揚げが食べたいなー」とか、無理やり関係ないことを思い浮かべ、激流を堰き止めようと試みる。
「う、あ」
小さく喘いだ私は、軽く
さあ状況を整理しよう。
来海先輩から手渡されたのはライトノベル。通称ラノベ。おもに十代読者を想定した、挿絵が多めの気軽に読める小説。文学的というより、漫画に近い内容のものが多い娯楽媒体だ。
私はあまり読んだことがない。せいぜい例の自己紹介に先立ち、柚子に薦められるまま元ネタの作品を拝読したくらい。たしかにアレは名作と呼ぶに相応しかったが、どれもこれもが良書ではないだろう。もちろん、それは一般文芸でも言えることだけど。
私の手元の文庫では、エキゾチックな雰囲気を醸す金髪褐色女子が表紙イラストを飾っていた。薄着な上に、思わず「これなんで下着が見えないの?」と訊ねたくなるくらい際どいアングル。そういえばラノベって媒体は、読者の購買意欲を煽るため、ちょっとエッチな表紙や挿絵が多い傾向にあるんだっけ。柚子は「逆に買いづらいよ」なんて、よく愚痴っているけれど。きっと、この程度の露出は珍しくないのだろう。
タイトルは『ルウちゃん大奇行』とあった。どうやらシリーズものらしく、ナンバリングはローマ数字で〈Ⅲ〉と記されている。作者名は佐藤
ふうん。ふうぅん。
「なるほど」
私がこぼした一言は、しんと静まった部室内で思いのほか響いた。
なるほど。うん。
あの気色の悪い視線の理由が、ようやくわかった。
――ただの人間ではありません
――実質プロです、作家です
――小説家と同じ教室にいることを感謝しなさい
入学式の、あの日。痛さマックス、必殺自滅の自己紹介。私のアレを、彼は真横で聞いていた。そして、陰でせせら笑っていたってわけね。本物のプロ作家の立場で。この一ヶ月、ずっと。
そっかあ。へえぇ。
「ミーちゃん? どした、なんで笑ってる? ダイジョブ?」
こちらの異変を察したのだろう。ソファに隣り合って座っている来海先輩が、心配そうに声をかけてくれた。
しかし、もはや私の心は凪いでいる。嵐の前の静けさ。破裂前の爆竹だ。
「いえ、いいえぇ。なんでも……ありません、ヨ。……ねえ、佐藤くん」
私は顔を上げ、できるだけ柔らかい声で呼びかけた。
しかし、そこに佐藤潮の姿はなかった。かの凡庸を装った陰湿陰険な覗き魔男子は、すぐ近くのパイプ椅子に座っていたはずなのに。
「えっ。佐藤くんは?」
「ついさっき、お腹が痛いって帰ってったよ。聞いてなかった?」
しまった、逃がした。そういえば、たしかに何事かを言って出ていった気がする。
私はひとつのことに集中しだすと、まわりの景色や雑音が頭に入らなくなるタイプだった。それも、人並み外れたレベルで。
入学初日のホームルームでの待機中もそうだし、せっかくカエデちゃんが話しかけてきてくれたときも、何度かやらかしている。
けっして見えていないわけでも、聞こえていないわけでもない。しかし五感が、ふいに鈍くなる。脳が勝手に周囲の情報の読み取りを拒否し、思考の整理や処理にリソースを割いてしまう。
そのさまは傍から見ると顕著にして深刻らしく、私大好きっ子の柚子さえ病的と評すほどだ。私自身は中学に上がる少し前まで、自覚すらしていなかった。まわりの反応や家族からの指摘がなければ、もっと気づくのは遅かっただろう。
過集中症。あるいは没入症とでも呼ぶべきか。この性質がなかったなら、私はもっと他人と上手くやれていたのかな、なんて。自己分析するに、たぶんキッカケは幼少時の――
ああ、マズい。いま正に、余計な思考に気を取られてしまっていた。
最優先でやるべきことがある。捕まえなければいけない相手がいる。
私はソファの弾力を利用して立ち上がり、
「私もっ、今日は失礼しまっす」
そう言って、ドアに向かって駆け出す。
うしろから「えっ、ちょっとまってかばんはどうするの」などと先輩の声が響いたが、私の脳はその言葉の意味を把握するより先に、標的を追うため働いていた。
佐藤くんが出ていったのは、せいぜい数十秒から数分前だろう。ここは第二校舎の端っこ。下駄箱の並ぶ玄関口まで距離がある。だったら十分に追いつけるはず。いや、もし向こうが走っていたら?
それも問題ない。私は足の早さには、ちょっと自信がある。そのスプリント力と陰気な言動から、中学時代は同クラの女子に「フナムシみたい」と噂されていたほどだ。
イヤな過去を思い出し、じんわり涙が浮かぶ。おいおい待て待て、なんのための集中力だ。こんなときくらい役立てろ。
いまは佐藤潮。アイツを追え。
私はトラウマを振り払い、ドアを開けて廊下へ出た。
そして次の瞬間、
「うおっ」
女子にあるまじき声を出してしまった。
なぜなら、すぐ目の前に佐藤潮が立っていて。その背中に、顔をぶつけそうになったから。
「あっ」
私に気づいた佐藤くんは、小さく声を上げて振り返った。顔に「しまった、しくじった」と書いてある。それはそうだね、そうだよね。もう逃がさない、捕まえた。
気まずげな彼の背後には、なぜかウチのクラスの学級委員、カエデちゃんが立っている。どうやら佐藤くんは廊下に出て早々、彼女と立ち話をしていたらしい。会話の中身も理由も、ふたりの関係も知らんけどグッジョブ。日々の気遣いも含め、つくづくカエデちゃんには感謝しかない。
「やあ、鳥川さん」
どうしてくれようかと身構えていた私に対し、佐藤潮は和やかに挨拶してきた。さては、さっきの話をなかったことにしようとでも?
バカにしてるのか。
この超絶根暗野郎。教室でしおしおになってる私を、隣でずっと笑ってたんだ。そのくせ、手を差し伸べるような振りして、文芸部に誘ったりなんかして。
私も私だ。そんな悪魔にお礼まで言っちゃった。いや、私悪い? 悪くないよ。悪いのはコイツだ、佐藤潮だ。
彼への悪口雑言が。罵り、貶し、蔑み、こき下ろすための言葉が。頭の中に次々浮かぶ。それほどの怒りだ。いや、憎悪と言っても過言ではない。私には彼を非難する資格がある。裁く権利がある。
だから開口一番、私はガツンと言ってやった。
「佐藤潮くん。……私を弟子にしてください!」
あれっ?
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