第一話 その少女、鳥川魚美

 僕が小学校に上がる、少し前の話。

 その日、ウチへ訪れたのは、初めて見る若いお客だった。僕の両親に招かれた、遠縁の親戚。化粧っけのない、ショートボブの小柄な女性で、当時は二十歳くらい。

 いつもは島外に住んでいるという彼女のことを、まわりの大人が持て囃す。そんな中、僕は知った。その人が小説家であることを。

 最初、小説家という言葉の意味が、幼い僕にはピンと来なかった。しかし耳を傾けているうち、どうやら文字を書くだけで褒められたり儲かったりする、美味しい仕事があるらしいことを理解した。次いで、その人が、なにか栄誉ある賞を獲ったということも。

「小説家って、僕にもなれる?」

 僕が無邪気にそう訊ねると、彼女はわずかに目を細め、この上なく簡潔に答えてくれた。

「バカ言ってんじゃないよ。キミなんかが、なれるわけないじゃん」

 クソババア。しかし実際、その通りだった。


 入学式から――つまりは鳥川魚美の衝撃の自己紹介から、一ヶ月と少し。校庭脇の桜の花はとうに散り、瑞々しい若葉が茂っている。二階の窓より流れ込む薫風は、あたたかな日差しとともに、僕らを心地よい眠りへと誘う。

「黒木田ー、起きろー」

 左隣の黒木田は誘惑に抗わず、授業中でもお構いなしに眠ろうとする。放っておくと僕まで教師陣に睨まれるので、仕方なく声をかける毎日だ。肩を揺するたび、逆ギレされやしないかとヒヤヒヤしているが、いまのところは平穏無事に過ごせている。

 クラスメートの多くは新生活にすっかり慣れ、各々の青春を謳歌しているようだった。僕も予定通り文芸部に入り、マイペースで活動中。部内で生じた如何ともしがたい問題に頭を悩ませてはいるのだが、これについては後述しよう。

 さて、肝心の鳥川魚美といえば。

 三限が終わってすぐ、僕は右隣に座る美少女の様子をこっそり窺った。彼女の様相は、初めて見たときと大きく変わっている。

 ゴールデンウィーク明けから着だした、ぶかぶかのパーカー。さらに、その小顔にはアンバランスな、パーティーグッズかと疑いたくなるほど大きい黒ぶち眼鏡。

 パーカーは白を基調としたもので、襟とフードの部分は青く染まっている。紺色のブレザーをすっぽり覆いつくすビジュアルは、離れて見るとセーラー服と錯覚しそう。どちらかと言えばセーラー派の自分としては、目の保養になっているのだけれど。まあ、そこはいい。

 彼女は教科書やノートを仕舞い、眼鏡を外した。それからフードを深く被って机に突っ伏す。休み時間は、いつも大体こんなかんじ。黒木田のそれとは異なる、たぶん概ね狸寝入り。どうも周囲との接触を避けたがっているらしい。おそらくイメチェン自体、人目を忍ぶべく彼女なりに思案した結果なのだろう。しかし、どう見ても逆効果だ。眼鏡はまだしも、パーカーは完全に悪目立ちしている。

「鳥川さん、ちょっといい?」

 ふと、息を潜める鳥川魚美の席に学級委員がやってきた。ノンフレーム眼鏡をかけた、いかめしい顔つきの女子だ。パーカーのフードがぴくりと揺れる。

「先週のアンケート。まだ出してないの、鳥川さんだけなんだけど」

「……あ、うー」

 残念美少女は、覇気の一切感じられない、アナグマの欠伸のような返事とともに身を起こした。眠たげ。気まずそう。それでいて、ほんのり赤い顔。いろんな気持ちの入り混じった不思議な表情。彼女は机の端に置いていた眼鏡をかけ、学級委員に向かって、にへらっと笑った。

「は、はい。……ええっと?」

「……プリント。アンケート」

 要領を得ない相槌は、学級委員に冷たく返される。まあ十中八九起きていて、声も聴こえただろうしな。

 鳥川魚美は慌てて机の中をまさぐり、目当てのものを取り出した。

「あ、ど、どぞ」

 そして媚びた笑みとともに、やや皺の寄った紙切れをおずおず差し出す。その間、フードと長い前髪に覆われた眼鏡の奥の瞳は、ずっと虚空を泳いでいた。先月の驕った挨拶とのギャップが凄まじい。

「うん。……ありがと」

 学級委員は事務的にプリントを受け取り、素早く立ち去る。その際、蔑むような目つきで僕を一瞥していった。向こうに対し、僕はなにも考えないことにしていたので、なんのリアクションも返さなかった。

 一方の挙動不審なパーカー女子は、ひとりで「ひっ、ひ」と悲鳴なんだか笑っているんだか、よくわからん小さな声を上げている。やがて、また顔を伏せた。

 これが現在の鳥川魚美である。入学初日から見る影もなく変わり果てた、無惨な姿。正直いたたまれない。

 ここまでくれば誰でも気づくだろうけど。この惨状は、彼女の応募作が文芸新人賞から落選した事実を雄弁に物語っていた。

 順を追って説明しよう。

 あの自己紹介以降。クラス一同は鳥川魚美のキャラが読めず、掴めず。陽キャも陰キャも真面目も不良くずれも、ほとんど彼女に近づこうとはしなかった。それはそう。だって得体が知れないし。しかし、そんな周囲の反応は、本人にとって意外なものだったらしい。

 彼女は最初の一週くらいは時折まわりを見渡し、そわついていた。たぶん話しかけてくれる相手を待っていたのだろう。その様子がイヤでも目に入ってしまう隣席の僕は、やっぱり本来は内気な子なんだろうなあと酌み取りながらも、いまだ思うところがあったため手を差し伸べず、気のない振りをしつづけた。

 反面、クラス内での鳥川魚美への注目度は、実は非常に高かった。あんなにも自慢げに語られたのだから、当然と言えば当然か。それまで賞の存在さえ知らない者がほとんどだったにもかかわらず、あのホームルームの後、何人かが即座にスマホで彼女の応募先を突き止めた。そして、それを皮切りにクラスメートの大半が、出版社の運営している新人賞公式サイトの様子をチェックしだした。

 入学したばかりで初対面の相手が多い中、会話のとっかかりとしても都合がよかったのだろう。

「見た?」

「見た見た、マジだった。本名で載ってたよ」

「スゴいじゃん。私、いまのうちにサインもらっとこうかな」

「やめとけよ、あっちは“ただの人間”じゃないんだから」

「やだー」

 なんて風に、彼女が席を立ったときに限って盛り上がり、茶化される始末。知らぬは本人ばかり。イヤなドーナツ化現象だ。

 僕はといえば、席が隣なこともあり、何度かほかのクラスメートに鳥川嬢の話題を振られることはあった。しかし、こっちからすれば不愉快な内容だ。適当にいなしているうち、どうやら僕はクラスの連中からノリの悪い、つまんねーやつと認識されてしまったらしい。気づいたときには、教室内の話し相手が左隣の黒木田のみという状況に陥っていた。これは自分の失態なので、甘んじて受け入れよう。しかし、僕より遥かに気難しい黒木田の方がクラスに溶け込んでいるっぽいのは、少し悔しい。

 そうした個人的にむず痒い日々を経ての、四月後半。隣の席の美少女に、ちょっとずつ変化が現れだした。

 長い前髪に覆われた瞳が、明確に曇っている。どんよりした、世界の終わりってかんじの目。その様子を盗み見て、僕は新人賞の結果を確信した。クラスのみんなもそうだろう。

 公式サイトの当落発表は、まだ少し後だったけれど。その前に編集部から連絡でもあったのか。あるいは、ないため察したのか。どちらにせよ本人があれほど落ち込んでいるのだから、非常にわかりやすかった。

 教室内では、やっぱりなーという空気と、勝手にガッカリする空気が半々くらい。あんな痛いアピールさえしなければ、もう少しみんなも同情的だっただろうけど。そこは完全に彼女の自業自得だ。

 そして月末。サイトにて、正式に結果が告知された翌日。クラスメートから虚仮にされることを恐れてか、自称・実質プロ作家は休み時間のたびにガクガクブルブル震えていた。そんな状態でも登校してきた勇気だけは讃えたい。まあ幸か不幸か、彼女は一切のおちょくりが発生しないレベルで、教室ないし校内での真っ当な人間関係を築けていなかったのだが。

 その後のゴールデンウィークを挟んで尚、無駄に周囲を警戒する鳥川魚美。彼女がパーカーやらを着込みだす一方、徐々にクラス内での自称小説家の注目度は落ちていった。これも当たり前といえば、当たり前の話。たしかに、。しかし、そこそこ有名もしくは有望なプロ作家ならまだしも、ただの作家志望者なんて、世間的には路傍の石に等しい。多忙で多感、目移りしやすい高校生たちが、石コロひとつをいつまでも珍しがるはずはなかった。むしろ蹴っ飛ばされないだけ、周囲の鳥川嬢への反応はマシな部類だ。

 そして五月半ば。彼女と学級委員の微妙なやりとりを目撃した日の昼休み。失意の鳥川嬢不在の折に、僕は新情報を入手した。

「デタラメだったらしいぜ」

 自家製弁当の付け合わせのパセリを箸でよけつつ、黒木田がつまらなそうに言った。

 隣で惣菜パンを咀嚼していた僕は、ものを飲み込んでから訊ねる。

「なにが?」

「パーカー女の挨拶。東京から来たってやつ」

 パーカー女。もちろん誰のことかは伝わるけれど、仮にもクラスメートの女子を随分と突き放した呼び方するなあ、コイツ。

 黒木田は僕同様、これまで自ら進んで鳥川魚美について語ることはなかった。しかし、それでも一応、気にはなっていたようだ。僕の方も、相手が黒木田なら。黒木田さえよければ。無理に話題を避けようとまでは思わない。

「どういうこと?」

 僕が訊き返すと、黒木田はパセリが乗った弁当の蓋をこちらの机に寄越し、話をつづけた。

「だから、東京から来たなんて真っ赤な嘘だったんだよ。このクラスにもアイツと同じ中学のやつ、何人かいるぞ」

「ええっ」

 鳥川魚美は普通に地元出身だった。そういえば彼女のその発言直後、怪訝な顔をしていたクラスメートがいたっけ。つまり彼らが同中だったわけか。

「なんで、そんな嘘ついたんだ?」

「さあ? 単に目立ちたかったんだろ」

 ふーん、と相槌を打ち、僕は押しつけられた添え物を摘んで口に放った。

「つーか。このこと知らなかったの、たぶんクラスでお前だけだぞ。大丈夫か?」

「ぐう」

 口いっぱいに広がる苦みはパセリ由来か、はたまた不意に負った深刻な精神ダメージゆえか。たぶん後者だろう。割と本気で心配していそうな黒木田の表情が、より堪える。やめろ。その切れ長の目で僕を憐れむな。

 僕の高校生活が大丈夫か否かは置いておくとして。やっぱり問題は鳥川魚美だ。

 はじめ、彼女へ対する周囲の視線は、まだあたたかいものがあった。しかし賞の落選が確定してからは、ちょっとずつ嘲笑の色が濃くなっている。

 嘘つき。ハッタリ屋。痛いやつ。目立ちたがりの根暗。それが鳥川魚美に対するクラスの総意らしい。だから、彼女に自ら進んで関わろうとする生徒はいない。せいぜい学級委員の女子が、事務的な理由で話しかけるくらい。因果応報ではあるけれど、こうまで孤立しているのは少しかわいそうだ。かと言って不用意に近づけば、僕だと地雷を踏みかねない。

 さて、どうしようか。

 静かな問題児、鳥川魚美。その隣に座る僕は、やんごとない事情により、彼女を口説く必要に迫られているのである。


 昨日の放課後。日直だった僕は職員室の担任のもとへ学級日誌を届けにきていた。

「うん、バッチリだね。お疲れさま」

 デスクで日誌の内容を確認し、小八木先生はやさしく微笑んだ。思わずドキッとしてしまう。

 小八木珠先生はその容貌と温厚な人柄により、親しい生徒からコヤギちゃんだのタマちゃん先生だのと呼ばれ、早くもクラスどころか校内のアイドル的存在となっていた。なんとも鳥川魚美とは対照的だ。

 ちなみに、ルックスだけなら彼女たちに匹敵する生徒もウチのクラスにはひとり残っているのだが、ソイツはガラが悪く、ほとんど誰も近づきたがらないのでノーカン扱いされている模様。

「そうだ佐藤くん。ちょっと相談があるんだけど、いいかな」

 用を済ませて去ろうとしていた僕は、その呼びかけに振り向いた。

「はい。……ひょっとして、文芸部の件でしょうか」

 この高校に赴任して間もない小八木先生だが、昨年度に定年退職したという前任者に代わり、いまは文芸部の顧問を担当していた。自然、受け持ちクラスの生徒であり、新入生唯一の文芸部員でもある僕とは話題も増える。ほかの男子にほんのり優越感を抱いていることは内緒だ。

「ええ、それもあるけど。……まず訊きたいのは、鳥川さんのことでね」

 唐突に要注意人物の名前を出され、僕は身構えた。

「あの人が……なにか?」

 先生は頬に手を当て、不安そうに訊ねる。

「佐藤くんは隣の席でしょう? 普段、どんなことを話しているのかと思って」

 なるほど。すでに入学から一ヶ月少々。担任としては、いまだにクラスの誰とも打ち解けていない生徒を気にかけるのは当然だ。しかもテンプレ的な流れだったとはいえ、元を辿れば、あの痛烈な自己紹介を誘発したのは小八木先生とも言えるのだ。鳥川嬢の孤立について、必要以上に責任を感じているのかもしれない。

 さりとて、だ。

「いや……口を利いたこと自体ないですね」

 不憫には思う。そして美少女にはちがいない。が、なるべく接触は避けたい。それが僕にとっての鳥川魚美だ。

 小八木先生はポカンと口を開けていた。

「先生?」

「……ずっと隣の席にいて? 一ヶ月間、少しも話したことがないの?」

 僕の返答は、この人からすると思いがけないものだったらしい。

「ええ、一度も。欠片も。天地神明に誓って」

「……そっか」

 先生は手のひらを額に滑らせ、ぐっと目をつぶった。まるで困ったちゃんを相手にしているような素振りだ。そのくらい内向的な人間なら普通ですよと言いたかったが、うまく理解してもらえるか自信がない。この人は、きっと学生時代から周囲に友人が溢れていたタイプだろうし。陽と陰の隔たりを感じ、僕は勝手に悲しくなった。

 ついでに言っておくと、一年四組の生徒数は三十三名。教室の座席は縦六列で、窓側から数えた三列は六名、残りは五名ずつ並んでいる。だから三列目の最後尾に座る鳥川嬢の右隣には、席がない。僕には黒木田もいるが、彼女の隣には僕しかいなかった。

 それゆえ、少しは気を遣って話しかけるくらいしてあげればいいのに、というのが僕に対する小八木先生の本音だろう。だが、とにかく僕は鳥川魚美と関わりたくなかったのだ。

 第一、彼女の前側にも人は座っているわけだから、もし話し相手がほしければ、そいつらに声をかければいい。なんなら休み時間に別の子の席へ寄ったり、ほかのクラスへ出向いて友達を作ったり。いや、わかってる。初っ端から失敗した内気な子が、そんなこと自ら進んではできないよな。

 どんな事情があろうと、僕が彼女を冷たく見放しているのは事実。非難されても仕方ない。それでも文芸部で迷惑をかけていることもあり、これ以上、小八木先生に失望されたくはなかった。

「いや会話はないですけど。でも、あの人が寒そうにしてるときは気遣って、窓を閉めたりしてますヨ?」

 若干ズレた、あまりに弱いデタラメな自己弁護。逆効果らしいのは先生の顔を見てわかった。

「前に鳥川さんと面談したとき、席替えでもしてみようかって訊いたの。そしたら絶対イヤですって拒否されて。てっきり佐藤くんと親しくて、離れたくないのかと」

「……へえ」

 親しいどころか目が合ったこともありません先生。

 鳥川嬢の心情は痛いほどわかる。もし席替えして、真ん中辺りにでも移動することになった場合。話し相手ができればいいけど、クラス内カースト底辺の彼女では十中八九、離れ小島と化すだろう。四方八方をわいわいキャッキャと騒ぐ連中に囲まれ、ひとり沈黙。簡潔に言って生き地獄。いわゆる、友達いないやつあるあるだ。だったら話し相手はいなくとも、最後尾の方がずっとマシな気がする。

「先生ね。ちょっと考えたんだけど、聞いてくれるかな」

 小八木先生は上目遣いでつづけた。

「鳥川さんって、小説を書いているんだよね」

「……まあ、本人曰くですけど」

 大きな賞にこそ惜しいところまで残っていたが、いまも継続して書いているかは不明だ。実際、一作や二作を書いただけで立ち止まる作家志望者は多い。身の程を知ったとか燃え尽きたとか充電中とか、人によって主張する理由は様々だけれども。

「つまり鳥川さんは小説に興味があって。それで、隣の席の佐藤くんは文芸部」

 先生の言わんとしていることを察した僕は、途端に気が重くなった。

「彼女を部に誘えってことですか?」

 先生は、ぎこちなく微笑む。

「もちろん無理にとは言わないけど。でも本人に聞いてみてもらえたら、担任としても顧問としても嬉しいなって。ほら、お互い、友達は多い方が楽しいじゃない?」

 お互いというのは僕と鳥川嬢のことを言っているのか。向こうはともかく、僕は相手を選びたいのだが。

「文芸部自体も。……人数、足りなくなっちゃったし」

「それは……はい。本当に申し訳なく」

 そこを突かれると痛い。実は、この一ヶ月で文芸部の部員数は激減しており、その原因は僕にあった。

 先生はハッとして、

「ちがうよ、責めてるわけじゃないよ。でも、いまのままだと部の存続も危ないかもって、教頭先生に言われちゃったから。……よければ、考えてみて?」

 そう締めくくり、小八木先生は話を終えたのだった。


 担任兼顧問から受けた、強制力のない、しかし断ると罪悪感に苛まれそうな提案。正直、一日経っても気乗りしない。

 鳥川魚美を口説く。

 この言い回しには語弊があるか。いや、気になる相手に声をかけて誘い込むという点は、世間一般で流通している軟派な意味での〈口説く〉と同じだし、それで合っている気もする。しかし僕には邪な考えなど一切なく云々。

 そうやって、どうでもいいことを頭の中でこねくり回し、僕は時間を浪費した。イヤなことから逃れたいとき、つい陥ってしまう悪癖である。

 やがて、ぐだぐだしているうちに帰りのホームルームが終わってしまった。小八木先生は教室から退出する際、なにか言いたげだったけれど、僕は軽く会釈するに留めた。

 まあ結局、誘うしかないのだろう。文芸部があのままでは、いつか部長に折檻を受けてしまうし。怒るとこわいからな、あの人。

「よう、ウシオ」

 黒木田が席を立ち、僕の机に手をついて言った。

「今日ヒマか?」

「あー、ええっと」

 まさかコイツに「いまから噂のパーカー女子をナンパするんだー、へへへ」などと言えるはずもなく。僕は少し悩んで、無難な受け答えを選択した。

「部活ある日だから行かないと。なんか用事?」

 黒木田は僕から視線を切り、小さく「んー」と唸った。

「いや、ほら。……お前、引っ越したって言ってたろ? どんなトコかと思ってよ」

「ああ」

 僕は高校入学を機に、親戚から借り受けたマンションで、ひとり暮らしを始めていた。別に家庭内で深刻な問題を抱えているとかではないのだが、家族会議を経て、そうした方がよいという結論に達したのだ。

「拍子抜けするくらい普通の部屋だよ。徒歩五分だから、通学時は助かってるけど」

「おぉ、そんなに近いのか。へえ」

 狭いし古いし壁も薄い1DKだが、これだけ優遇してもらっておいて文句を言ったら、バチが当たるというものだ。

 黒木田は感心したように、「そうか、そうか。ふうん」などと、ぼそぼそ呟いている。変なやつ。まあ、ひとり暮らしの高校生自体、珍しいのはわかる。この小さな島内なら尚更だ。

「興味あるなら、今度来る?」

「ひゃっ?」

 黒木田は仰け反り、らしくない声を上げた。

「おまっ、それ」

 さらには慌てた様子で机から手を離し、ぶんぶん腕を振って顔を背ける。

「イヤならいいけどさ」

「行く」

 食い気味な返事。僕が苦笑すると、我に返った黒木田は居心地悪そうに咳払いした。

「今度な。ちゃんと掃除しとけよ」

「ああ、今度」

 そうして黒木田は機嫌よく、鼻歌交じりに教室を出ていった。ヤンキーの溜まり場にでもされたらどうしようという一抹の不安はあるけれど、アイツの良心を信じたい。

 さて、いよいよだ。横目で確認すると、まだ鳥川嬢は、もそもそ毛虫の這うようなペースで帰り支度をしていた。いまは鞄の中身を確認している。

 一方、僕は手のひらに、じっとり汗をかいていた。緊張するのは当然だ。ただでさえ、よく知らない女子と話すのは勇気がいるものなのだから。しかも今回は相手が相手。ああイヤだ。しかし、これ以上は引き伸ばせない。結局こういうのは勢いだ。ついに息を吸い込み、思い切って行動に出る。

「あの、鳥川さん」

 声量自体は問題なかった。そも、隣なので声を張り上げる必要もない。間違いなく僕の呼びかけは彼女の耳に届いたはず。しかし返事はなかった。

 仕方なしに繰り返す。

「ねえ。……鳥川さんっ」

 今度は反応あり。かの美少女はびくりと身を起こした。そして僕に顔を向け、信じられないものを見るかのように目を見開く。隣の席の男子に声をかけられるという本来ありふれたイベントが、よっぽど意外だったらしい。ただでさえ鈴を張ったみたいに大きな目が、まんまるに近いくらい広がっている。というか初めて彼女の顔を正面から見たけれど、やっぱり抜群にかわいいな。野暮ったい眼鏡だけが残念だ。せめて小八木先生や学級委員のように、もっと小洒落たものを選べばいいのに。

「な、なっなっ、なんですか?」

 彼女はこちらへの好意や悪意以前に、ただ怯えているといった風情だった。

 しかし想定内。この一ヶ月、隣り合わせながら一度も言葉を交わしたことのない男子に、前触れなく話しかけられたのだ。内気な子なら、十分あり得るリアクションだと思う。敬語なのは地味にショックだけれども。

 僕は簡潔に用件を告げた。

「文芸部に興味ない?」


 二、三の言葉を交わし、あっけなく話はまとまった。

 乗り気とも不本意とも窺い知ることのできないテンションで、鳥川魚美が「じゃあ見学だけ」と了承したのだ。

 さっそく僕らは、第二校舎一階にある文芸部の部室へと向かった。

 二階の渡り廊下を抜けたとき、

「あの」

 うしろから、かぼそい声。

 僕が立ち止まって振り返ると、鳥川魚美が申し訳なさそうに佇んでいた。パーカーのフードは外れている。

「どうかした?」

 入学して一ヶ月強。僕は隣の席の美少女と、初めて真っ直ぐ向かい合う。長い前髪、黒ぶち眼鏡。その奥の、揺れる瞳。わずかに頬は染まって見えた。いじらしい表情にときめきかけるも、過日の爆弾発言の例があるため、彼女の場合は油断できない。

 知ってはいたが、鳥川嬢の目の高さは僕のみぞおち辺りにあった。百八十センチ近い僕と比べての話なので、彼女の身長は女子の平均値より少し上といったところだろう。黒木田と同じくらいか。

「すみません。……お名前、なんでしたっけ」

「……僕の?」

「はい。すみません」

「……佐藤だよ。佐藤潮」

 ざっくり傷つきながらも、改めて名乗る。すると、

「サトウ」

 僕は思わず声が出そうになるほど驚いた。いきなり呼び捨て?

 しかし、どうやら彼女はただ呟いてみただけという様子だった。

「サトウ、サトウ。サトウウシオ」

 鳥川嬢は宙をぼんやり見上げながら、こちらの名前を復唱する。

「あー、そっか。なるほど」

「なるほど?」

「あ、いえ。文芸部に興味があるって言ってた人ですよね。……ホントに入部してたんだ」

 彼女がなんのことを言っているのか、僕は数秒経って気づいた。

「それって、まさか初日の自己紹介?」

「はい。趣味は読書でしたっけ。いままで顔と名前が一致しませんでしたけど」

「……僕は一応、鳥川さんの隣の席なんだけどね」

 逆に、一ヶ月余り前の、なんの変哲もない自己紹介を覚えていたことが凄い。

「す、すみません」

 彼女は三度、謝罪を繰り返した。

「あの日、緊張して。……それからも授業中以外、ずっと下を向いてたから。誰が誰とか、よくわからないんです」

「……まあ、僕も似たようなもんだよ」

 しょげる彼女があまりに憐れで、ついフォローを入れてしまった。

「そう……ですか?」

 こちらが頷いてみせると、彼女は消え入りそうな声で、「ありがとうございます」と返した。

 礼を言われるようなことではなかった。実際、ほとんど黒木田以外と絡みのない僕も、クラスメートの大半の顔と名前が一致していない。ましてや誰がどんな挨拶をしていたかなんて、ろくに覚えているはずもなく。それこそ目の前の彼女のように、よっぽど強烈な内容でもない限り。

「それと。文芸部に誘ってくれたことも。ありがとう」

「……いや、それは」

 僕の本意ではない。その事実をどう伝えても、彼女を傷つけてしまう気がした。

「わかってます。小八木先生に言われたんですよね」

「あー……うん」

 どうやら、お見通しだったようだ。素直に認めるしかなかった。

「少し前、私も先生に勧められたんです。自分が顧問をしてるから、よかったらって。でも、どうしようか迷ってて。……だから。部員の人に声をかけてもらえて、嬉しかったです」

「……そっか」

 小八木先生から事前に話は行っていたのか。道理で、すんなり誘いを受け入れたわけだ。

「漢字で、どう書くんですか? お名前」

 そう訊かれたので教えると、わざわざ彼女は「佐藤義亮ぎりょうの佐藤に」と新◯社を創設した偉人の名を挙げた上、「新潮◯庫の潮でウシオって読むんですね」などと例えてきた。暗に新◯社びいきと指摘されたようで、なぜだか非常に居心地が悪い。僕は口から出かかった、「せっかくならKADOKAWAやスニーカーにおもねった例えを出しなよ」という言葉を呑み込み、ひとまず曖昧な相槌で誤魔化した。

 そこで話題が途絶え、会話も途切れる。やや気まずい沈黙。少し経って、再び僕らは歩きだした。

 ここまでで気づいたことがひとつ。

 鳥川魚美は話してみれば、割と普通の女の子だった。

 口数は少なく、引っ込み思案。

 警戒心は強めで、そのせいか少々挙動不審。

 だけど、それだけだ。

 滅多に人と言葉を交わさない子だから、つっかえながらオドオド話すタイプだと思っていた。実際そうだったけれど、気に障るほどではない。多少どもることはあっても、鈴を振るように澄んだ彼女の声が不規則に揺れて響いて、むしろ小気味がいい。

 しいて目立った特徴を挙げるなら、とびきりの美少女ってことくらい。それ以外は、さして珍しくもない当たり前の女の子だった。

 ゆえに生じる、奇妙な違和感。

 例の自己紹介のときに発揮された、粋がった嫌らしさというか。思想や主張の激しさ、エゴイズムが、いまの彼女からは見受けられなかった。

 齟齬がある。家庭科の実習で、初めてバニラエッセンスを舐めたときに近い感覚。匂いと味が一致しない。素直に飲み込めない。そういう、脳が受け入れを拒否するレベルのわだかまりを感じる。

 天狗の鼻が折れた、なれの果て。そう判断していいのだろうか。

 もっと踏み込んで、「あの自己紹介なんだったの?」とか、「いまも小説書いてるの?」なんて話を振れば、このモヤついた感情を晴らすことができるかな。

 いやダメだ。たしかに、それらはクラスの誰もが鳥川魚美にぶつけたい疑問だろうけど。小説に関連した質問は、僕には鬼門となりかねない。

 そう思いつつ、彼女を自ら文芸部に招こうとしている矛盾。この現状は、僕が真には鳥川魚美を嫌っていないことを意味していた。

 見た目にほだされて、というわけではない。否、だけではない。

 小説が好き。自分で物語を綴るほどに。

 もし、ただシンプルに、それだけの子だったら。

 仲良くなれるかもしれない。ウマが合うかもしれない。あわよくば、もっと親密に。

 どうやら僕はそんな都合のいい、淡く甘い期待を抱いてしまっているらしい。仕方がないのだ。思春期なのだ。だって相手は、めちゃくちゃかわいいし。

 しかし初見の印象通り、やはり彼女が自己顕示欲のかたまりだったら。

 これまで何人も見てきた、ちやほやされたいだけの“自称”作家やその卵たち。あの手の連中と同類だったら。

 そのときこそ、僕は本気で鳥川魚美を拒絶するのだろう。

 かつて本気で小説家をめざしていた者の端くれとして。自分でも御しきれないほどの、激しい嫌悪と侮蔑をもって。

 などと思い耽っていた折、

「ごめんなさい」

 ふいに、また彼女が詫びた。

 僕は一瞬ギクリとなって立ち止まり、そっと振り返った。

「なにが?」

「佐藤くんのこと、誤解してました」

「……誤解?」

「この一ヶ月、話しかけてはこないのに、しょっちゅう横目でチラチラ見てくる気持ち悪い男子だなって」

「……べべべ、別に見てないけど?」

「そう?」

「そうだよ。気のせいだよ」

「……そう、ですか」

 降って湧いた窮地をなんとか強引に乗り切った。危なかった。こわかった。気をつけよう。女子は男子の視線に敏感って話、本当なんだな。

 かわいい女子に面と向かって気持ち悪いと言われた心の傷を抱えつつ、僕は彼女と第二校舎の階段を降り、一階廊下の奥にある部室の前まで到着した。

「ここ、教室じゃないんですか?」

 小首を傾げる鳥川さん。もっと、こじんまりとした部屋を想像していたらしい。

「うん。過疎化とか少子化とかで生徒数が減って、余ってたんだって。おかげで空き教室をひとつ丸々使えてるんだ」

「へえ。いいですね」

 無難な感想に、僕は軽く相槌を打つ。

 実際ありがたい。生徒数の減少は経営的には痛手なのだろうが、ただ学校に通うだけの僕らには害のない話だ。ならば気兼ねなく、利用できるものは利用すべきだろう。

「ドアに嵌め込まれてるのが曇りガラスなのは、部活動に集中できるようにって配慮らしい。隣は茶道部なんだけど、そこも同じでしょ」

「ええ、たしかに」

 ちなみに文芸部部室の出入り口は、茶道部と隣接している側のドアだけだ。反対側のドアは施錠した上、内側を本棚で塞いでいた。

「あの、いまさらですけど。部員って、何人くらいいるんですか? 同じクラスの人とかは?」

 いよいよ僕がドアを開けようとしたところで、鳥川さんは質問を重ねた。大人数の前でやらかしを経験している彼女だから、不安がるのも無理はない。あまりに大所帯だと、下手したら怖気づいてしまうかも。

 しかし、その辺は問題なかった。

「ふたり」

「え?」

「僕と二年生の部長、ふたりきり。あとは幽霊部員が何人か。だから、しゃちほこばることないよ」

 そう告げてから、僕は部室のドアを開けた。

 そして一歩も中へ踏み入ることなく、即座に閉めた。

「えっ、どうしたんですか」

 僕のうしろに立っている鳥川さんには、中の様子が見えなかったらしい。

「あー……えっと」

 答えに窮した僕は、まず網膜に焼きついたものを追っ払うべく、目をつぶって頭を振った。

 その最中、

「し、失礼しまぁす」

 声に反応して目を開くと、素早く僕の横に進み出た鳥川さんが、ドアの取っ手に指をかけているところだった。意外な積極性。好奇心に押されたのだろうか。

「あっ、待っ」

 ギョッとなった僕が止めるより早く、引き戸はレールを走った。ドア全開。そうして繰り返される、我がまなこに刻まれた刺激的な光景。

 文芸部の部室に設けられた備品は、大きく分けて三つある。立ち並ぶ大型の本棚。作業用の長机。そして三人がけのファブリックソファとローテーブルのセット。問題なのはソファだ。いや、そこに腰かけている人物だ。

 僕にとっては、よく見知った女子生徒。蜂蜜色の長い髪に、小麦色の肌。けばけばしいメイクながら甘ったるい童顔。豊満な胸。見事なくびれ。

 入り口からではテーブルの上のバッグに邪魔されて確認しにくいが、この人は下半身の発育だって素晴らしい。細作りな鳥川さんとは別ベクトルの恵まれた容姿と、日々怠らない女磨きの賜物だ。いや、それはともかく。

 事程左様に派手なビジュアルをした女子が、ひとり部室で脱いでいた。繰り返そう。脱いでいた。

 バッグの横に、くしゃくしゃのジャージと体操着が放ってある。どうやら体育の授業後そのまま過ごし、いまになって制服に着替えようとしていたらしい。幸い、窓はカーテンに遮られているので、屋外から覗かれることはなかっただろう。しかし照明の灯った室内でのこと。当然こちらからは丸見えである。

 褐色の健康美。首から肩、二の腕にかけての蠱惑的なライン。さらには、それひとつ――否、ふたつで世のどんな思春期男子も篭絡できそうな双丘。いやいや、丘と表現するには高すぎる。岳だ。高嶺だ。高山だ。それほどの凶器が露わになっていた。真っ白なスポーツブラに覆われているせいで山頂こそ目視できないが、豊かな胸がきゅうきゅうと締めつけられている様は、下手な露出よりも扇情的だった。

 僕は眼前の光景に、うっかり見入ってしまった。しかし一体、誰がそれを責められようか。

 いまどき異性の裸なんてワンクリックで目にできる。誰だって思う。僕だって、そう思う。しかしナマの破壊力は桁違いだった。どんなにインターネットが普及しようと。VRが進化しようと。唐突なエロチシズム、いわゆるラッキースケベには敵わない。しかも対象と知己の間柄であるならば、とっさのダメージは余計に大きい。そう痛感した。

 また、反射的にドアを閉めた一度目とは状況がちがう。今現在ドアを開け、取っ手に指をかけているのは僕ではなく鳥川さんなのだ。だから僕に非はない。気づけば、そんな甘ったれた姑息な言い訳が己の中で成り立っていた。不可抗力という免罪符に縋り、身を委ねてしまった。

 そうして両の眼が間断なく取り込みつづける情報は視覚野に刺さり、脳全体へ広がり。ついには下腹部を灼こうとせんばかり。

 鳥川さんがドアを開けてから、ここまで。現実時間にして約二秒。

「アレーッ? シオちゃん、誰その子ぉ」

 半裸女子の呑気な声によって、僕は正気に戻った。もとい、我に返った。

「あー、もしかしてー」

 前を隠そうともしない痴女がなにか言っている途中で、ハッとなった鳥川さんがピシャリと勢いよくドアを閉める。その音に、僕は冷や水を浴びせられたような心持ちとなった。

 鳥川さんは体勢を変えず、こちらを見もしないまま、

「佐藤くん」

「……なに?」

「ギャルの人が、素っ裸でした」

 実に率直な感想。それにしてもギャルの人って。

「あー……うん。いや、下着は着けてたし短パンも穿いてたから、正確には素っ裸ではないかな」

 日本語は正しく使いましょう。

「いま別にそこ重要じゃないよね」

「……はい」

 冷たいトーン。鳥川さんから敬語が消えた。

「ていうか絶対ガン見してたでしょ」

「し、ししし、してないけど?」

「してたよね」

「し、してない」

 かけ合いの最中も、彼女は取っ手に指をかけたまま動かなかった。

 埒が明かないので、僕は慎重に説得を試みる。

「あの人が……ウチの部長」

「アレが!?」

 ようやく彼女は顔をこちらへ向けた。驚きのあまり、目を見開いている。とても信じられないといった風情だ。そして、ふらつく足で後退あとずさり、ドアからも僕からも距離を取った。

「まあ、ああ見えて意外と」

「あのっ」

 鳥川さんは部長をフォローしようとする僕の言葉を遮った。その身は、かすかに震えている。

「部員はふたりって。言って……ました、よね。いつも放課後、裸のギャルと。一体、なにをしてるの。……ですか」

 たどたどしくも、責めるような口調。いや、ではない。事実、彼女は責めている。なぜか部長本人ではなく、よりによって僕を。鳥川さんとは異なる理由で、僕もぶるりと震えてしまった。

「いや、待って待って。偶然だって。向こうも、いつも脱いでるわけじゃないよ」

「もしかして……罠? 私ハメられた? 危ないところに連れ込まれようとしてましたの?」

「してましたの?」

 どこのお嬢さまだ。どうやら完全に混乱しているらしい。

 鳥川さんはパーカーの襟をぎゅっと握り、戦慄わなないていた。取り乱しているせいか、こちらの主張が通じない。おそらく彼女の中で、僕にとって不名誉な妄想が拡大している。非常にマズい。

「頼むから落ち着いて。ヤリサーじゃないんだから」

「やっ!?」

 その反応を受け、僕はすぐさま後悔した。彼女はこちらの言い分の中から、わかりやすい単語だけを拾ったらしい。シチュエーション的に最悪のパワーワードを。

 美少女の目つきが、眼鏡の奥でおぞましいものを見るかのように変貌していった。それに反して、ぷるぷる震える小さな口の端は上がっていく。

 妙な表情だった。こちらを蔑んでいるのか、それとも微笑みかけているのか、一見してわかりづらい。いや、この状況で笑っているなら想定外のクレイジーだ。そして鳥川さんは案外、普通の女の子。つまり彼女は現在進行形で、脱いでいた当事者ではなく、眼前の男子を蔑視している。

 僕は少し前に気持ち悪いと言われたときの倍は傷つきつつ、慌てて次の言葉を探した。

 しかし弁明するより早く、部室のドアが開く。

「なにしてんのーっ?」

 割り込んできた無遠慮な声に、鳥川さんが「ひいっ」と小さな悲鳴を上げた。

 声をかけてきたのは、もちろん件の痴女。もとい、我が部の部長だった。

「ひ……部長」

「おやシオちゃん。どーした改まって」

 キョトンとする部長。フリーズするクラスメート。彼女たちを前にして僕は自制心を総動員させ、努めて冷静に言うべきことを言った。

「とりあえず、服を着てくれ」

 山が、まろび出ていた。

 何故なにゆえさっきまで着けていたはずのスポブラまで外しているんですか本当にありがとうございます。


 痴女をひとり部室に押し込め着替えさせ。タッチの差で顔を出した茶道部員の方々に、廊下で騒いでいたことを「またキミか」となぜか僕だけ注意され。そうこうしているうち、こちらを不審がる鳥川さんは落ち着きを取り戻し、警戒レベルを少し下げたようだった。どうにかこうにか彼女を宥めることに成功し、ようやく僕らも部室の中へ。

「わあ」

 まだ難しい顔を浮かべていた鳥川さんだったが、本棚の中身を見て感嘆の声を漏らした。それはそうだろう。室内の前側半分近いスペースを占有し、列を成す大型の本棚。そこには古今東西、さまざまな小説が敷き詰められている。

 古典文学、純文学、一般文芸、ライト文芸、そしてラノベ。歴代の部員たちによる、各々の趣味に偏った蔵書だ。部員数極少とはいえ、さすがに文芸部。総数でこそ図書室には劣るが、マニアックさでは追随を許さない。

 ウン年分の部費を注ぎ込んで入手したという伝説を持つ希書。

 現代人気作家の知られざる初期作品。

 図書室どころか、そこらの図書館にだって存在しない、富◯見ミステリー文庫専用のコーナー。

 あれやこれや。

 わかる者にだけわかる、輝かしい部の功績がここにあった。

 鳥川魚美。いまだ実態を測りかねる存在ではあるけれど、自分で筆を取るほど小説好きな人間が、このラインナップを見て心揺れぬはずはない。

 四月からこっち、僕も夢中になっている。

「どう? 結構な品揃えでしょ」

 僕は目を輝かせていた鳥川さんに、なるべく穏やかな声で話しかけた。

 しかし、

「あ、はい」

 冷めた返事。そして、すぐさま距離を取られた。僕にとって、この瞬間が今日一番のショックだった。

 よくよく考えてみれば、部室で着替えていた女子の裸をうっかり覗いてしまったというだけの話なのに。ラブコメなんかじゃ、案外ありがちな事故なのに。なぜ、こうまで大事になっているのだろう。これも現実とフィクションのちがいか。いや、だとしてもだよ。僕らは目撃者という、同じ立場の人間だ。そんなふたりの間に、深刻な軋轢が生じているのはおかしくないか?

 ひとえにその原因は、件の痴女の高校生離れしたスタイルのよさにあった。初心っぽい鳥川さんにも。そして僕にも。先程の情景は刺激が強すぎたのだ。

 来海くるみ緋衣子ひいこ。現在、二年生にして我が部の部長である。

 パッと見、年相応なのは童顔だけ。彼女の豊満な肉体はグラビアアイドル顔負けだ。普段の制服に包まれた姿でも、思春期男子の目には毒。だから不意打ちのセミヌードに僕がだけ気を引かれてしまったのは、仕方のないことだと言える。

 校内一の健康美。健全だけど不健全。それが来海緋衣子だ。

「ウオミちゃんだっけ。おいでー、こっち座んなよ」

 はち切れそうな制服姿でくつろぐ部長が、蔵書に見入っていた鳥川さんをソファへ呼びつける。鳥川さんは真顔で僕らふたりを交互に見やった後、ギクシャク歩き、指示に従った。

「し、失礼します」

「やー。かーわーいーいー」

 部長は鳥川さんが隣に腰かけるや否や、すり寄って甘い声を上げた。さらには、稀代の美少女の頬を指でつつくなどして弄びだす。

「やっ、その。なんですか」

「ふふっ。ようこそ文芸部へー」

 されるがままの鳥川さん。照れくさそうな表情は、満更でもないように見える。

 手持ち無沙汰になった僕は、ほわほわした空間に加わっていいのか悩んだ挙句、長机の前に置かれたパイプ椅子に座った。机とローテーブルを挟み、ふたりと距離を取るかたちだ。たぶん、これが最適解。だって鳥川さんは、まだ僕を避けている。別にいいけど、なんで脱いでいた本人より僕の方が引かれているんだ。別にいいけどっ。

「いやー、さっきはビックリさせちゃってゴメンねー。来てもシオちゃんだけだと思ってたから、ダイジョブかなーって」

「僕ならいいのかよ」

 一応、小声でツッコんだ。

「シオ……ちゃん?」

 鳥川さんの呟きに、部長が頷く。

「うん、ウシオだからシオちゃん。かわいいっしょ」

「……はあ。仲が、いいんですね」

 鳥川さんはそう言いながら、いぶかしむような視線を一瞬こちらに送った。僕はあらぬ誤解を解くべく、正直に答える。

「幼馴染みなんだ」

 来海緋衣子と僕は家が隣同士だったこともあり、幼い頃から親交があった。

「そそ。長い付き合いだから、なんでも知ってるわけよ。お互いのホクロの数とか、生理の周期とか」

「知らねえよ」

 ややエグい例えを出され、つい言葉を荒げてしまった。鳥川さんは困惑気味。勘弁してほしい。不信感を抱えている見学者を前に、タイミング最悪の冗談だ。

「まっ、姉弟みたいなもんかなー。ねえシオちゃん」

「……ああ」

 何年も前の苦い記憶が脳裏に蘇る中、僕は渋々頷いた。

「お姉ちゃんを追いかけて、わざわざ同じ部活にまで入ってくるんだから。とんだシスコンだよねー」

「……そんなんじゃない。ただ、この部の蔵書に興味があっただけだよ」

「あー、はいはい。そういうことにしときましょ」

 僕の真っ当な抗議は、あっさり流されてしまった。

「いやー、それにしてもホッとしたよー。ウオミちゃん、待望の新入部員だからねえ。あー、よかったー」

「……えっ、あの。私、見学だけ」

 鳥川さんは訂正しようとするけれど、部長はカモを見逃す甘い女ではない。

「ん、入部するってことでいいんだよね? ミーちゃんって呼んでいい? それともトリカワだからトリちゃん? ん? どっちだ? アレかな? ミーちゃんも小説好きなかんじ?」

「えっ。あ、あっ……はい」

 唐突にマシンガンみたく喋り立てられた鳥川さんは、とりあえずといった風に頷いた。たぶん最後の質問に対しての返事だろう。しかし、その半端な対応は悪手である。

「うん。じゃあ、コレ入部届けねー」

「ええっ? え、あ。えっ」

 部長は言質を取ったと言わんばかりに、にんまり笑った。悪質な訪問販売員か。泡を食っている鳥川さんが、さすがに不憫だ。

「なあ部長。ちゃんと本人の意思を尊重して」

「いやー、ホントさあ」

 僕の制止を無視し、彼女は深い溜息を吐いた。

「急に部員が減っちゃったから助かったよー。このままじゃ廃部になってたかもだし。……ねえ、シオちゃん」

 部長は笑みを崩さず僕を見た。その目は「わかっているのか? この窮状はお前のせいだぞ?」と訴えている。

「あー……はい」

 釘を刺された僕は、つづく言葉を呑み込んだ。

「ホントありがとー、ミーちゃんは救世主だね」

「そ、そんな。……へへ」

 頼りない助け舟が瞬時に沈められたことも知らず、あっさり鳥川さんは絡め取られていった。

 まあ鳥川さん本人が嫌がっているわけでないのなら、無理に止める必要はないか。僕としても、もう少し彼女を知りたいという想いがあるし。

「にしてもミーちゃん、よっぽどの文芸オタク? シオちゃんが連れてくるってことはさ」

「えっ。それって、どういう」

「……鳥川さんは小八木先生の推薦だよ。僕が進んで勧誘したわけじゃない」

 痛いところを突かれるより早く、僕は取り繕った。

「コヤギちゃんの? へー、そうなんだ。てっきりアタシ、シオちゃんが口説いてきたのかと」

「人聞きの悪いことを言うな」

 僕も似たようなことを考えて、くよくよ悩んではいたけども。

「あのっ」

 鳥川さんが、彼女にしては少し大きな声を出した。

「ん? どした?」

「おふたりも、小説が好きなんですか?」

 文芸部員ふたりを前に、新入部員(仮)が問う。

 俯く鳥川さんの表情は、眼鏡と前髪に隠れて見えない。しかし、どこか嬉しそう。ひょっとしたら僕と同じく、彼女も同類の存在に期待していたのかもしれない。

「んー、アタシは週に二、三冊読むくらいかな。てか漫画の方が好きかも」

「そ、そうですか」

 多忙な高校生の身で、週に三冊は十分に読んでいる方だと僕は思う。しかし鳥川さんは、あからさまに気落ちしていた。

「あっ、でもぉー」

 鳥川さんの落胆を部長も察したらしい。だが、それがよくなかった。

「シオちゃんは筋金入りだよ。なんてったって、ねえ」

 彼女は、してはいけないフォローをしだしたのだ。

「ちょっと待って」

 雲行きが怪しくなるのを感じ、僕は慌てて止める。

「え? なんですか?」

「あっ、あー……えーっとね」

 部長は口を滑らせかけたことに気づいたのか、軌道修正に入った。

「ほら、意固地なメンドくさい小説オタクってこと。ねっ?」

「……ああ、うん」

 イヤな言われようだけど、間違ってはいない。

「そうなんですか。……佐藤くんが」

 鳥川さんは意外そう。どの点に引っかかったのだろう。僕が意固地ってところか、それともオタクってところか。

「そーだよぉ。コイツほど扱いづらいのは、なかなかいないよ?」

 部長は嘆くように言う。

「もともとねえ、文芸部はもっと人がいたんだけど。シオちゃんと折り合いつかなくて、バタバタ辞めてっちゃったし」

「えっ」

 この点については、僕は言われるがままにしていた。事実だし、鳥川さんが本当に入部するなら、隠すべき話ではない。

「じゃあ部員がふたりなのって、佐藤くんのせいなんですか?」

「……いや、まあ」

 先刻のことを抜きにしても、鳥川さんは割と容赦がない。もう少し婉曲的な訊き方をしてくれてもいいんだよ?

「ちょっと、色々あったんだ」

「それにしたって、たった一ヶ月で?」

「ぐう」

 ようやく鳥川さんと会話を再開できたと思ったら、これだ。クラス一のやらかし女から厄介者として見られるのは、なかなか屈辱。

「まー仕方ないよね」

 僕を思ってか、部長が割って入った。怒るとこわいし、呑気でマイペースだけど、情は深い人なのだ。

「小説に対する、捉え方? 取り組み方? そんなんも、プロと一般人じゃ全然ちがうんだろーし」

「ヒー姉っ」

 口の軽い幼馴染みに、僕は思わず悲鳴を上げた。

「あっ、ゴメン」

 部長はミスに気づき、こちらへ向けて謝った。そして、軽く握ったこぶしで自分の頭をコツンと叩く。いや、かわいいけども。

「え。プロって、なんの話ですか?」

 ピンと来ていない様子の鳥川さんが、僕らふたりに向かって訊ねた。

「ああ、ええと」

「……うーん。もう、こうなったら仕方ないかー」

 どう誤魔化すか考えあぐねる僕を尻目に、部長は自分のバッグの中から、ひょいっと一冊の文庫を取り出した。最悪だ。

「はい、どーぞ」

「あ、ありがとうございます? ……ええっと、これは。ライトノベル?」

 間近に寄って確認せずともわかる。部長が鳥川さんに手渡したのは、やたらと肌を露出した美少女が表紙を飾っているラノベ。それも、たぶん今月出たばかりの最新刊だ。

「それさあ、シオちゃんが書いたの」

「――は?」

 鳥川さんが硬直する一方、僕は脂汗が止まらなかった。

 部長は、さも自慢げに口を開く。

「シオちゃん、現役のラノベ作家なんだよ」

 部長がそう言った瞬間。その少女、鳥川魚美の瞳が。長い前髪と黒ぶち眼鏡の奥で、鈍く光ったように見えた。


「バカ言ってんじゃないよ。キミなんかが、なれるわけないじゃん」

 子どもの他愛ない質問にも、可能な限り本心で答えてくれたクソババア。もとい、親戚のお姉さん。

 子どもながらに悔しかった。見返したかった。だから僕は自分なりに勉強し、何年もかけて実際に小説を書いてみた。全然ダメだった。だから、腕を磨いた。

 あるとき、憎いお姉さんの本を手に取った。ボロクソに貶してやるつもりで読んだ。しかし、うっかり憧れた。お姉さんのように、人の心を無慈悲に抉る、哀しくもあたたかい物語を書きたくなった。

 その頃には、僕はとっくに小説の虜になっていた。自分には小説家以外の道など、ありはしないと確信していた。

 家族も、親戚に成功した人間がいる分、理解があり、協力的だった。

 妹だけは反対してきたけれど、邪魔まではされなかった。

 だから、最高の環境だったと思う。

 やがて、自分がお姉さんのようになるのは無理だと悟ったのは、中学に上がってからだ。

 物語には、作者の人間性が出る。テーマに。キャラクターに。ストーリーに。文体に。日々なにを想い、なにを考え生きてきたかが現れる。

 ただ漫然と生活し、それをよしとしてきた僕には、お姉さんみたいにエグい小説は書けない。届かない。どれだけ歳を重ねても。どんな経験を積んだとしても。そう気づいた。わかってしまった。

 僕は小説家にはなれない。

 書きたいものを書けない。書きたいもので世に出る力がない。本気で作家をめざしている者にとって、それ以上の絶望はなかった。

 この苦悩を十代の妄言だと。よくある戯言だと。そう笑う人もいるだろう。

 本気だ。僕は、本気だったんだ。

 いまなら理解できる。お姉さんの厳しく忌まわしい言葉は、無知で幼い僕への忠告であり、戒めであり、そしてやさしさでもあった。しかし同時に、呪いでもあった。彼女の意に反し、あの大人げない憎まれ口は僕を縛りつけた。

 趣味や手慰みで書くなら、好きにやればいい。そこはきっと自由な世界。無限の荒野が広がっている。

 だけどプロの小説家は。商業小説は。興味本位で気安く登れる山じゃない。

 そう気づいたときには、もう遅かった。すでに引き返す道を見失っていた。だからこそ諦めきれず、ひたすら足掻いた。

 そうして僕は結局、めざしていた作家像を捨てた。すなわち、ラノベ作家になることを選んだのだ。

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