鳥川魚美は小説家になれるのか?
渡馬桜丸
プロローグ
僕が
――なんて。例えば魅力的な表紙イラストに惹かれて立ち読みしだした漫画やラノベの冒頭に、そんな一文が記されていたら。早計もとい賢明な読者であれば、その時点で本を閉じ、サヨナラしてしまうかもしれない。いや、もし手に取った人の目が甚だ肥えていたならば、かえって新鮮な印象を受け、試しに残りのページを捲ってみたくもなるのだろうか。
どうあれ先の一文は、その後のありきたりな展開を想起させる、愚かで安易な書き出しだった。
春。高校。入学式。そこでのボーイミーツガール。
現代において、いっそ手抜きとさえ言える、ありふれたイントロダクション。多種多様な媒体及び偉大な先達により、さんざん使い回されてきたゴング。真新しさも創意工夫も感じられない、錆びた撃鉄。
今時こんな導入部から始まるプロットを編集者に提出すれば、どんな作家でも高確率でリテイクを食らうだろう。もし新人賞の応募作だったなら、大きく減点されるにちがいない。むしろウケるかも、などと初っ端から逆張りの可能性に縋ろうとする書き手の将来性なんて、たかが知れている。
失礼、話が逸れた。つまり僕が言いたかったのは。僕と彼女の出会ったキッカケ自体は、それほどまでに平凡なものだったということである。
何度もしつこく予防線を重ねたところで、どうせ焼け石に水。闇夜の
春。高校。入学式。その日、僕は彼女と出会った。
舞台は北九州、玄界灘に点在する離島のひとつ。総人口二万ちょっとの島内には普通課程のみの高校と商業高校の二校があって、僕は前者に進学した。
年季の入った体育館での長々とした式典後、僕たち新一年生は六つのクラスに分かれ、ホームルームを受けていた。
我らが一年四組の担任となる若い女性教師が、眼鏡とパンツスーツの似合う、こざっぱりした美人であること。
自分の席が比較的お気楽に過ごせそうな最後尾であったこと。
僕の左隣、窓際一番うしろのいわゆる主人公席には、中学からの顔見知りが座っていて、どうやら入学早々孤立せずには済みそうなこと。
あと、右隣の席で俯いている、髪をふたつに結った女子が、よく見れば超絶にかわいかったこと。
そのときの僕は、これらのプチラッキーを内心で噛み締め、今後の高校生活に淡い希望を見出していた。
あけっぴろげで、だからこそ十分にやる気の伝わってくる自己紹介だ。キリッとした立ち姿の一方、やさしい声音なのも好印象。なにより僕らは、校長やお偉いさんの長ったらしい祝辞に心底うんざりさせられた直後だったから、彼女の起伏に富んだ簡潔な挨拶はありがたかった。誰ともなく沸いた拍手は歓迎の証。教室の空気が緩み、あたたまり。そしてお定まりのコースへと突入した。
「それじゃあ、次は貴方たちのことも教えてくれるかな」
これから一年、勉学をともにするクラス一同の自己紹介タイム。座席は都合よく男女混合の出席番号順となっていたので、窓際最前列の生徒から順繰りに行われることとなった。たどたどしく。あるいはさらっと。氏名。出身中学。趣味。入りたい部活。みんな、そんなことを口々に述べていく。
僕の左隣――主人公席の
「なに見てんだよ」
「……いや、なんでも」
僕は慌ててチンピラもどきから顔を逸らした。
自己紹介はつつがなく進行していき、やがて僕の番がやってきた。気取らず立ち上がる。そして前もって心の中で繰り返しておいた、ケレン味皆無の凡庸な自己紹介をお披露目だ。
「
最後に、よろしくお願いしますで締め括るド定番。予想通り、黒木田のときと大差ないくらいの拍手をもらった。
「つまんねーやつ」
僕が着席した途端、背もたれに右肘をかけていた黒木田は、白い歯を見せ野次を飛ばした。
「うるさいよ。そっちみたいに、ふてくされてるよりはマシだろ」
自分を棚上げしてくれるな、似非ヤンキーめ。
僕は悪目立ちさえ避けられればよかったのだ。もし中学時代のように調子に乗ってやらかすと、後々つるむ相手もいなくなってしまう。ひとりであること自体は楽で好きだけど、まわりにひとりぼっちと思われるのは少々キツい。ろくに友達も作ることのできない社会不適合者。そういう不名誉な烙印を押されるのは勘弁だ。
だから初顔合わせは無難が一番。クラスメートの多くは僕と同じ考えだったらしい。一部例外を除き、何人もが似たり寄ったりの挨拶を遂げていく。よかった。この程よい空気なら、なあなあの人間関係を築けそうだ。と、そんな風に安堵しかけていたとき。
彼女にお鉢が回ってきた。
僕の右隣。机の上でこぶしを握り、ずっと俯いていた細身の女子。彼女は前の席の男子が挨拶を終えて座るや否や、椅子をガタッと弾き、勢いよく立ち上がった。その拍子に、襟首辺りから括っている髪の房が、ぴょこんと跳ねる。そして額を覆う長い前髪が揺れて流れて、奥に潜む大きな瞳が瞬いた。彼女を初めて認識したらしき男女数名が、ほうっと息を吐く。実際、それくらいの美少女だった。
ふたつ結びの髪はカラスの濡れ羽色。筋の通った鼻に、色の薄い唇。さらに、その小さな顔には不釣り合いと思えるほど大きく、つぶらな瞳。ほっそりした首元やブレザーの袖から覗く
背中を丸めた姿は、怯える猫そっくり。彼女は絶えず握りしめていた両手で、いまスカートをぎゅっと掴んでいる。プリーツが崩れてしまわないか、見ているこっちが不安になるくらいの力の入れようだ。しかし、そのはにかむ様子が当人の愛らしさをより引き立ててもいた。
僕は改めて、この少女の隣になれた喜びを噛み締めた。いや、気づけば頬が緩んでいた。
「ちっ」
ふと、舌を鳴らす小さな音が左横から聴こえた。うすら寒いものを感じて顔を向けると、なぜだか黒木田が僕をじとりと睨んでいる。意味不明だし迫力がこわいしで、無理やり見なかったことにしようと決めた。からだごと右隣の美少女に向き直る。
クラス一同が注目する中、やがて彼女は俯き気味に、桜の花びらのように淡く慎ましやかな唇を開いた。
「あ、と。と、トリカワ……ウオミぃ、です」
上擦った控えめな声。初心な小鳥のさえずりを連想させる、ぎこちない名乗りだった。
僕はあらかじめ配られていた座席表で、彼女の名前を確認した。
『鳥川魚美』
漢字では、こう書くのか。この子の繊細そうなイメージに合った、優美な名前だな。
などと呑気なことを、このときは思っていた。
視線を戻すと、彼女は目を伏せ、黙り込んでいる。
終わり?
いや、だったら着席しているはずだ。きっと緊張しすぎて言葉がつづかないのだろう。
このとき男女問わず、僕同様クラスの大半の連中が、心の中でこの美少女へエールを送っていたにちがいない。ちらりと見返してみれば黒木田でさえ上目遣いに様子を窺っていたし、小八木先生に至っては両こぶしを小さく揺すって、「頑張れー、頑張れー」などと直に応援していた。
そんな後押しの甲斐あってか、このまま順当に行けばクラスの愛されキャラに定着していたかもしれない鳥川魚美は、身を震わせながら息を吐き、一気に吸い込んだ。そうして、ついに顔を上げ、かぼそい声を再び発す。
「と、東京から来ました」
へえ、と意外に思う。こんな離島の高校に、わざわざ都会から進学してくるケースは珍しい。たぶん、ほとんどの新入生は島内に十校ある中学出身のはずだ。鳥川魚美、なにか特別な事情でも抱えている子なのだろうか。いやいや、下手な勘繰りはよくないな。けれど僕でも力になれることがあるなら、ぜひ協力したい。あわよくば、お近づきになりたい。なにしろ彼女は顔がいい。
などとルッキズム全開の思考を巡らせているうち、僕は鳥川嬢に注目している周囲の中で、なぜか数名が怪訝な顔をしていることに気づいた。しかし、その理由を僕が推し量るより早く、彼女は次の言葉を紡ぐ。そして始まった。聞く者すべてを唖然とさせる、恐怖の自己紹介が。
「ただの人間ではありません」
ほわほわした空気は一瞬で雲散霧消。教室中が凍りついた。
ただの人間ではありません?
混乱しつつも、僕にはすぐピンと来た。かつてゼロ年代のオタクたちを熱狂させ、今現在も名を轟かす伝説かつ最強のラノベヒロイン。参考にしたのは、その名ゼリフか。ただし、あまりに有名すぎるその一言は、正確には「ただの人間には興味ありません」だし、もっとずっと凛々しく、ふてぶてしいかんじの自己紹介だったはずだけど。
どちらにしろ。そして是非はともかく、インパクトだけは絶大だった。誰もが固唾を呑み、鳥川魚美の次の言葉を待つ。しかし彼女はうごかない。緊張のためか、はたまた余韻にでも浸っているのか。
間が空いたことで、少しずつ教室内はざわめきだした。特に幾人かの男子は、オタク特有の粘ついた視線を巡らせている。さすがレジェンドヒロイン、やはり僕以外にも元ネタを知っている者がいたらしい。彼らはすぐに同志を探し当て、そして共犯めいた笑みを浮かべ合っていた。
そんな中、ようやく彼女は自己紹介を再開する。ただし、ここからは有名ゼリフのパロディではなかった。
「――」
例のセリフを吐き出したことで興が乗ったのか、それまでと一変した淀みないご様子。その反面、クラスメートたちは首を傾げる。彼女は、とある文芸新人賞のタイトルを挙げたのだった。
おそらく聴衆の中で、事前にその名称を知っていたのは僕だけだろう。それは一般文芸界隈で名の通った、多くの小説家志望者たちの憧れ。少なくとも新人向けのものの中では、最高峰に位置する賞であった。
周囲が呆然としている状況下、空気の読めない美少女は、本日一番の声を張る。
「現在、そこの最終選考に応募作がノミネートされている私です。結果発表は今月末です。……デビュー目前。実質プロです、作家です。小説家と同じ教室にいることを感謝しなさい。……してください。い、以上」
そうして満ち足りたような表情を浮かべ、鳥川魚美は着席した。
拍手は起こらなかった。見渡せば、ほとんどの人間がぽかんとしていた。先生も、黒木田も。
えーと、いま彼女はなんて言ったっけ。なに、小説家なの? いや素人なの? なんなの?
そんな風にどいつもこいつも、奇異な自己紹介を頭の中で反芻しているにちがいない。
だって、そうだろう。
直前まで顔を赤くして、ぼそぼそと喋っていた女の子。そんなのが、いきなり唯我独尊を気取った挙句、SNS上に棲むイキリオタクみたいなことまで言い出したんだから。
残念美人。いや、残念美少女っているんだな。僕は内心でぼやいた。
横目で確認。鳥川魚美は再び俯きながらも、上気した顔をにまーっと緩ませている。ひょっとして、会心の挨拶を決めてやったぞ、などと思っているのだろうか。その表情こそ魅力的だったが、こちらの悪印象を拭い去るまでには至らなかった。
「はーい、静かにしてー」
ざわつく教室を担任がなんとか制す。混沌とした空気ではあるものの、やがてホームルームは再開された。
ふいに、
「お仲間か?」
黒木田が僕にだけ聴こえるよう、ぼそっと囁いた。不機嫌極まりない声だった。
「やめてくれよ」
僕は短く答えた。それから頬杖をつき、ホームルームが終わるまでのあいだ、なるべく左右に目を向けないよう努めた。そうすることで、湧き上がる気持ちを隠したのだ。
黒木田への気まずさ。そして鳥川魚美に対する、怒りと言って差し支えない、不快な感情を。
これが僕らの出会いだった。
いや。思い返してみれば、出会いという表現は適切ではなかったかもしれない。このとき彼女は、僕なんて眼中になかったはずだから。
この時点では、まだ僕が一方的に知っただけだ。
そう。かつて小説家をめざしていた僕が、ただ知っただけ。
大人しげな外見からは予想もつかない爆弾女、鳥川魚美の存在を。
【出典】
谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川スニーカー文庫)
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