捜査編(Cパート)

 あかねのお気に入りであるキャンプ地は、錦之助が買ってくれた埼玉県秩父市の山中にある。もちろん、女一人危険がないように、SUVがきちんと入っていけるような場所だ。

 なにより、他のキャンパーは一人もいない。

 あかねにとってのキャンプは、逃避であり、精神統一に近いものだ。普段なら絶対食べないカップ麺を啜り、缶ビールを飲む。焚き火を前にして小説を読み、木を削る。

 極道の妻として生きた彼女には、どれも相応しくない行為だった。錦之助はそれを哀れに思ってくれたのかもしれなかった。しかし、本当はどうだったのか知るすべは最早ない。

 そこに行けば、このどろどろとした気持ちもさっぱり精算できるはずだ。

 エンジンをかけようとした直後に、携帯が震える。ユウトからだ。

「ゆうちゃん、どうしたの?」

『あの……姐さん。このまま黙ってるのも器量かとは思ったんですが、自分……バカだからよくわかんなくて……』

「何の話? わたし、そろそろ出発するんだけど」

『着物が、その……妙に汚れてました。それに、血の跡が……。なんていうか……若頭カシラが亡くなったのと、何か……関係があるんじゃねえですか?』

 さあ、と血の気が引いたような気がした。捨てろと言って中身を見るような人間ではないことはわかっていた。だからユウトが偶然に捨てるべき着物を検めてしまったのだろうということは、すぐに予想がついた。

 最悪だ。

「ゆうちゃん、それは……」

『……自分、懲役かけますよ』

 ユウトは静かにそう述べた。懲役をかける──つまるところ、身代わりとなって裁きを受けるというのだ。

「馬鹿なこと言わないで! あなた奥さんだっているでしょう。それに兄貴分を殺して懲役かけたって、極道やってけるわけないでしょう!」

『死んだ組長オヤジは姐さんに何かあったら頼むって……』

「その着物は今すぐ捨てて。……もう忘れなさい。あの人に義理立てするなら、何もしないで!」

 すぐに携帯を切って、アクセルを踏んだ。ユウトは口が堅い。だが、着物を見られたのはいただけなかった。どんなところからどんなボロが出るのかわからないほど、あかねのカンは悪くなかった。




「姐さん!」

「着物は捨てたの?」

「は、はい。大丈夫です」

 ユウトはそれだけ言って、リビングへあかねを招き入れた。それ以上何か言うことも尋ねることもしなかった。

 彼は大体の察しがついているだろう。申し訳無さと同時に──面倒事が増えたとも感じていた。

「姐さん。コーヒーでもどうぞ」

「……ありがとう」

 キャンプ場で飲もうと思っていたコーヒーを口に運ぶ。なんだか普段の倍は苦く感じた。

「若頭と何があったんです?」

 あかねはなんと言ったものか迷った。犯されそうになって返り討ちにしたのだ、と正直に言うことも考えたが、仮にそう言ってどうなるものでもない──あかねはユウトの視線を逸らす。彼は目を細め──そして伏せる。何か口を開こうとしたのを、突然鳴ったチャイムが阻んだ。

「誰? 追い返して」

「へい」

 ユウトの肩越しに見えるインターフォンの画面には、先程黒崎会の事務所で会った男の姿──つばめの顔が映っていた。派手なドレスシャツに特徴的な髪型は忘れようもない。

『あの〜。ごめんください』

「……悪いが手を離せねえんだ。用があるならまた今度」

『わたし、警視庁捜査一課の三条つばめと言いまして。こうみえて警察で……黒崎あかねさんはいらっしゃるかしら?』

「うるせえな。姐さんはいねえよ。留守だ」

『いや実は、先程歌舞伎町の事務所でお会いしたのだけど、どうしても何点か聞きたいことがあって……ガレージ見たら、あかねさんが乗ってた軽自動車が停まってたものだから。いらっしゃらないのかしら?』

 つばめの目ざとさに辟易しながら、ユウトに目配せする。事務所の前で見られたのか。

 入れて。それしかない。

 ユウトも察したのか、玄関へ向かっていく。

「組長の奥さんともなると、良いおうちにお住まいなのですね!」

 開口一番、さくらと呼ばれていた女刑事のよく通る声が響いてくる。あかねは森林の中でそうするように深呼吸して、冷静を装った。

「あらあかねさん、ごめんなさいね。お邪魔しちゃって……」

 一ミリもそう思っているようには思えないが、顔だけは申し訳無さそうにしているつばめを見て、あかねはソファから立ち上がり、座るように促した。

「別に……聞きたいことがあるって、何? わたし、忘れ物とりに帰っただけだから、さっさと出てきたいんだけど」

「あら、そうなの? そうよね、キャンプこれからだって言ってらしたわよね。すぐ済むから。それにしても良いおうちね……亡くなられた旦那さんのもの?」

「そうよ。錦之助が私に遺してくれたの」

「失礼だけど、あちらの彼は?」

 つばめは手でユウトを差す。別に不愉快な目的で聞いているわけではなさそうだった。

「黒崎会の若衆のユウトくん。部屋住みで働いてくれてるの。……言っとくけど、へんな関係じゃないわよ」

「ごめんなさいねえ、そんなつもりで聞いたんじゃないのだけど……。あっ、ところで、わたしいつもとっても気になっちゃうんだけど……わたしってキャンプ行ったことないの。テレビを見てると、皆さんとっても楽しそうじゃない? あかねさんもみんなでワイワイ楽しむタイプなのかしら?」

「……別にそんなんじゃないわよ。わたし、そういうの苦手だし。一人でビール飲んだり、小説読んだり……」

「凶器で使われたモーラナイフも、キャンプでは定番のアイテムだそうだけど、あれは何に使われるものなのかしら?」

「人を刺してる。……なんて言ったら喜ぶ?」

 あかねはいたずらっぽく笑みを見せた。余裕の無さは弱みを晒すことと同じだ。それだけで完全に隠し通せるとは思わなかったが、あかねにはそんな方法しか思いつかなかった。

「やだあ、そんなつもりじゃないのよ? 純粋に何に使うのか気になっちゃって……あかねさんはキャンプ、慣れてらっしゃるって聞いたし、それで聞いただけよ」

「木を削るのよ。火種作ったり、ほかになんか作ったり……で、話って何?」

「ああ、そうそう。私ってすぐ話しすぎちゃって……昨日の事件、佐藤さんは首裏を何度も刺されて亡くなったの。でもおかしな点があって。地面と平行の刺し傷と、地面と垂直の刺し傷があった。でも佐藤さんは百八十を超える長身。縦の傷は上から振り下ろしてついたとしても、横に寝かせた刺傷がついている理由がわからなくて……」

「……それをなんで私に?」

「少なくとも、あなたは佐藤さんに会った最後の人間。もしかしたら、犯人に会っているかもしれないと思ったのよ。刺傷から考えれば、少なくとも佐藤さんと同じかそれ以上に背が高い人物か……」

「人物か?」

「それ以上に背が低い人物かもしれないと言うわけですね!?」

 何か言いたくてたまらなかったのか、さくらは乗り出すように立ち上がりながらびしっと指摘した。

「……まあ、そういうことになるわね。いいわよさくらちゃん。お手柄」

 彼女が嬉しそうに自身の名前と同じ色の手帳へなにやら書き付けるのへ、つばめはこちらに向き直って言った。

「で、どうでしょう。怪しい人物はいなかったかしら」

「アイツより背が高い人間なんて早々いないと思うけど……」

「あ、そうですか……じゃ、立ってた人を刺したっていう前提が違うのかも」

 雲行きが怪しくなってきた。あかねは持ち上げたマグカップを揺らさぬようにゆっくりと下ろしてテーブルに置いた。動揺している。それは認める。ただ、それを気取られては終わりだ。

「三条さん。だいたい、刺傷が横に寝てるからって何? 持ち方がこう……刃を寝かせてただけじゃないの? さっきも言ったけど、キャンプとかでも火種を作ったり……あと私、キャンプ中に木工の真似事するけど、そういうときはよくそう持つし。映画でもそうやって持つ殺し屋を見たことあるわ」

「殺し屋ね……確かに軍隊式ならそういうやり方もあるかもしれないわ。でも、それならもっと即確実なダメージが見込める胴体──内臓を狙うはずよ。わざわざ首だけを狙う意味がないの。……つまり、犯人は首を攻撃しなくてはならない理由があった」

 話の向きが良くない。

 直感でしかなかったが、なんとなくそう感じ取ったあかねは、タバコへ右手を伸ばした。左手で持ったライターが震えていないか見るのが恐ろしい。

 紫煙を吐き出し、ユウトの差し出したクリスタル製の灰皿へタバコを押し付ける。

「……三条さん、わからないわね。佐藤は死んだわ。ナイフで何度も刺されて死んだ。それ以上でも以下でもない。身内が言うのもなんだけど、刺された順番なんてそんな大事だとも思えないのだけど」

「ん〜〜……実はそうでもないのよね。佐藤さんが首に一撃を食らって倒れた、そこからまた首を刺したと仮定した場合、今度はどうして横に寝かせた刃を突き刺したのかを考えると、一番理解しやすいのはこう……佐藤さんの体の横から、縦に持ったナイフを突き刺したというパターンが考えられるわ」

 再び、タバコを口につける。良からぬ考えも浮かぶ。この刑事、もう『気づいている』のではないか。その上で、こちらがボロを出すのを待っているのかもしれない。

 すべて仮定の話だ。

 ヤクザの世界では、白いものも親が黒だと言えば通ってしまう。転じて、灰色──やったのかどうか分からぬことは、やったとみなされる。

 つまるところ、その灰色があかねであると言う点まで、気づいているのではないか──。

「……三条さん。つまり、何? 死ぬ寸前まで近くにいた私が怪しいってこと?」

「まさかあ。それは飛躍しすぎよ。今のところあなたが犯人だと示す証拠、なにもないもの」

「今のところね……でもそれなら尚の事よ。私は佐藤を殺してない」

「あのう……一点質問よろしいでしょうか!!」

 針金でも入ったかのように、ビッと右腕を上げるさくらがそういうのへ、つばめは少しばかりうんざりした表情を浮かべた。

 何も黙っていろというわけではないが、トンチンカンな質問をされても困るのだ。

「あの……うちのさくらちゃん、悪気がなくおかしなことを言い出すの。もうすでにご不快な想いをさせているとは思うけど、少しお付き合いいただけないかしら」

 申し訳無さそうにそういうつばめを見て、あかねはあかねでどうしたものか迷った。本当に不快なことを言うなら、叩き出すまでだ。

「……私、忙しいの。それ聞いたら帰ってくれる?」

「ええ、ええ。大体終わったからそうさせてもらうわ。じゃ、さくらちゃん。質問どうぞ」

 さくらは自身の名前と同じ色の手帳を取り出すと、少し鼻息荒くペラペラページをめくり、ペン先で書付けを確認しながら言った。

「孫の手の方にお伺いしましたが、昨日は着物を着ていらっしゃったとか! 私、プライベートで着物を着るのにハマっていまして、良ければ参考に見せていただけませんか!」

「昨日の……?」

 そう言いよどみ、思わずユウトを見てしまう。見てもどうにもならない。他ならぬ彼がもう捨ててしまったのだ。

「……それは、もう自分が捨てちまって」

「捨てた?」

 思わずつばめが身を乗り出した。

「昨日の今日に捨てるっていうのは、随分早すぎない?」

「姐さんから汚しちまったって電話があって……もったいねえとは思ったんですが、確かに雨やら泥で汚れてたもんですから」

 声のトーンが低くなっていくユウトに、寒々とした危機感を覚えたあかねは、助け舟を出すことにした。

「仕方ないでしょう。そっちのお嬢さんは知ってるかもしれないけど、正絹の着物って水濡れ厳禁なのよ。クリーニングでもどうにもならないことも多いし……。帯だって新品だったのに降られちゃって、オシャカよ」

「それは勿体ないですね! 聞いたところによると、綴織と言われる技法の、それはそれは見事な西陣織だったとか!」

「さくらちゃん。それは貴重なものなの?」

「ものすごく貴重とまでは言いませんが、二桁万円はするのではないでしょうか!? 残念です、捨ててしまったのならもう見られませんね!」

 さくらは責めるでもなく、それ以上追求するでもなく、心底見られなかったことを残念そうに手帳を閉じた。

 ひやりと背中を汗が伝う。なんとか誤魔化せたか──いや、まだそれはわからない。目の前のこの男は、まだ得心がいっていないような目をしている。

 つばめは指で唇をなぞって、何事か頷き、立ち上がった。

「さくらちゃん、お手柄ね。それじゃあ、あかねさん。私達もう行くわ。キャンプ前にお邪魔しちゃって、ほんとごめんなさいね」

「……別に」

 なんとかそれらしい態度を装うのに必死で、あかねにはそれ以上の言葉は何も出てこなかった。ユウトの視線──刺々しさなど何もないのに、それが痛かった。全ては自分のせいだ。

「あ、そうだ。最後にひとつ」

「何よ……」

「昨日、雨に降られちゃったって仰ったけど……車で行かれたのよね? どうして濡れちゃったのかしら?」

「そりゃ、駐車場に行くまでの間に濡れちゃったのよ。ついでに家に着いたときもね。昨日、バケツをひっくり返したような雨だったし……」

 玄関先へ続くドアノブに触れながら、つばめはどこか納得の行かない表情のまま、ううんと唸る。それがまた何かを隠しているように思えて、あかねにはもどかしかった。

「傘、お使いにならなかったの?」

「忘れちゃったのよ」

「お忘れに? あ、そう……私もよくやっちゃうのよね。昨日みたいなにわか雨で、使おうと思った傘を積んだままにしちゃって使わずじまいになっちゃったりして……」

 また話が長くなりそうな流れに、あかねはイライラし始めた。なぜこんなどうでもいい話を、気を揉んで聞かなくてはならないのだ。

「だから! 何が言いたいわけ?」

「あ、ごめんなさいねえ。さっき車のトランクルーム見たら、キャンプ道具と一緒に傘が積んであったものだから。この家、駐車場から玄関まで屋根ないし……お使いにならなかったの?」

 声に詰まる、というのはこういう時を言うのだろう。あかねはそれ以上何も言えなくなり、押し黙った。つばめは小さく笑うと、話を続けた。まるで何もかもわかっている、とそっと教えてくるように。

「あっ、そうだキャンプ場。もしかしたら、佐藤さんを殺した犯人があなたのもとに来る、なんてこともあるかもしれない。どうしても行きたいっていうことなら、どこなのか教えてくださる?」

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