心酔
1
「(あれ、そういえば、彼氏(仮)は、もう終わったんだよね⋯⋯?)」
せんぱいから何も言及がないことを、ふと思い出した。
せんぱい飲みに行った次の週から、わたしはひとりでの通勤に戻り、せんぱいも車で出社していた。
さびしいなあ、と感じるが、せんぱいのことをよく考える日にはせんぱいから依頼のメールが入っているので、それで何とか相殺している。
ここ最近ずっとふたりで通勤していたからか、別々での出社はやはり違和感があるらしい。
木曜日の昼休み、ついに河野さんから尋ねられた。
「ねえ、青葉さん。前ちゃんのことって、まだあまり訊かない方がいいのかな⋯⋯?」
⋯⋯すごい気を遣われている。
「あ!いえ、あの、ぜんぜん、仲違いしたとかではない、です⋯⋯」
「ほんとに!?よかったあ〜!一安心だ」
「すみません、いらぬご心配をかけてしまいました⋯⋯」
「ううん。でも、何かあったの?」
もう時効だろうし、河野さんだし、話しても何も支障はないだろう。
「あの、実は⋯⋯。せんぱいとわたしがお付き合いしている、というのは、嘘、だったんです」
「へっ!?」
「実はわたし、あの頃、ストーカー被害に遭っていて⋯⋯」
わたしとせんぱいにまつわるすべてを、洗いざらい話す。
「あの、なので、嘘ついてました⋯⋯すみません」
「いや、それはぜんぜんいいんだけど、青葉さんがそんな危険な目に遭ってたなんて⋯⋯」
田中のドン、許せねえ、なんて怖い言葉を吐き出すものだから、河野さんは敵に回してはいけない。
「いやでも私、青葉さんと前ちゃんが付き合ったって聞いて、最初は意外だなって思ったんだけど、そういえば同期飲みのときに、前ちゃんが青葉さんのことよく訊いてきたなあって思い出したんだよね」
「え?」
「それこそ青葉さんが入社した頃に、“総務に入ってきた子、どう?”って。その後も、“新人にあんま仕事押し付けんなよ”とか、“かわいがってやってんの?”とか、前ちゃんにしてはえらい興味もってるなあって」
口に入れた親子丼の咀嚼が完全に止まった。
そんな風に、影でも気にかけてくれていたのか。
「それを思い出して、ああ、前ちゃんって青葉さんのことすきだったんだ、ぜんぜん意外じゃないなって思ったんだよね」
「えっ、それは、ないです⋯⋯!」
「そうなの?でも、だから前ちゃんの浮いた話ひとつもなかったんだってすごい納得したんだよ」
河野さんのお話は、信じられないことばかりだ。
だって、ずっとすきでいてくれてたのだとしたら、これまでの関わりがあまりにも少なすぎる。
し、せんぱいのようなひとが、わたしなんかを一途にすきでいる理由がない。
反射的に、頬が真っ赤に染まっているのがわかる。
それを見た河野さんがにっこりと微笑んで、言葉を足した。
「その感じだと、青葉さんは前ちゃんのことすきなんだよね?」
「う⋯⋯は、はい」
「うん、自信もっていいと思うよ。私たち同期はまったく相手にされてないし、嘘なのに付き合ってることを会社で言ったのも、牽制含んでるんじゃないかなって私は思うな」
「⋯⋯っ」
「まあ、真実は前ちゃんにしかわからないから、何とも言えないけど。頑張れ」
「あ、ありがとう、ございます⋯⋯」
河野さんのやさしさと予想外のときめきで、もうお腹いっぱいだ。
残っている親子丼を無理やりかき込んだ。
───“きょう何時頃上がれる?”
“きょうは遅くなるかもです⋯⋯!💦”
───“了解。あしたは?”
“あしたは、いまのところ、定時いけそうです!”
───“じゃ、あした一緒に帰ろ”
“ぜひ!”
その日の午後、定時間際。せんぱいから依頼された業務を終え、確認のメールを送ったあと。
お礼の返信とともにプライベートのスマホが鳴った。
きょうはまだ業務が残っているからあともうひと頑張りだ、というところにせんぱいからの連絡が来て、俄然やる気が出てきた。
あしたぜったい定時で上がるために、できるだけ終わらせるぞ!と気合を入れる。
───“無理するなよ”
そんなわたしを見透かしたかのようなメッセージ。
じっと目に焼き付けて、仕事を再開した。
迎えた次の日。
きのうの頑張りの甲斐あって、きょうは定時で上がれそうだ。
“おつかれさまです。こちら、定時で上がれそうです。せんぱいはいかがでしょう?”
───“おつかれ。こちらも大丈夫です。エントランスで”
“承知いたしました!”
ふう、と一息ついてパソコンの電源を落とす。
フロアに挨拶をしてからトイレで少しメイク直しをして、エレベーターでエントランスに向かった。
「お待たせしました⋯⋯!」
「おつかれ。なんか久しぶりだな」
「お久しぶりです?」
「ふ。行こ」
かっこいい。どきどきする。
昼間、河野さんのお話を聞いたから尚更。
エントランスを出て駐車場に向かう。
「どーぞ」
「ありがとうございます、失礼します」
助手席のドアを開けてくださったので、緊張しながら乗り込んだ。
「華金だしどっか行くでもいいかなって思ったけど、おれのごはん食べたいって言ってくれてたし、どっちがいいとかある?」
「えっ!せ、せんぱいのごはん、食べたいです⋯⋯!」
「ふ。じゃあおれんちで」
「あ、あの、ご負担じゃないですか⋯⋯?」
「ぜんぜん。つくるのすきだし、何ならつくるつもりだったからうれしい」
そう言って微笑むせんぱいは、どこまでもかっこいい。
いっぱいいっぱいで、思わず両手をぎゅっと握りしめた。
走り出した車内に自動でアンノンの曲が流れ出して、そういえば前設定したなあ、と思い出す。
「(なんか、本物の、彼女みたい⋯⋯)」
なんて、調子に乗っている。
アンノンのおかげで少し心が落ち着いた。
「最近忙しいの?」
「そうですね、メールで依頼はたくさんいただきます。なので、せんぱいや皆さんがお忙しいのかなと」
「たしかに。ボーナス前だしな」
「毎年この時期は忙しい気がします」
「何なんだろうなー」
ボーナス前は会議の資料作成やデータ収集の依頼が多く届く。
そのメールで、皆さんいろいろなところで打ち合わせを行っているのだなあと知る。
せんぱいも例に漏れず、なかなかお忙しいようだ。
「お忙しい中誘っていただいて、ありがとうございます」
「いや、忙しいときほど誘いたくなる。無理してないか監視」
「う⋯⋯」
たしかに。すぐ無理をして、すぐ体調を崩すわたしのことをせんぱいは見てきている。
良くも悪くも生活がすべて体調に出るので、誤魔化しが効かない。
「元気そうでよかったわ」
「おかげさまで⋯⋯」
のんびりとお話していると、せんぱいのお家に到着した。
相変わらずでっかいマンションだけれど、不思議と前回より気後れすることはなかった。
せんぱいの人柄を知ったからだろうか。
「おじゃましまーす⋯⋯」
「てきとーに座っといて」
だだっ広い玄関、永遠に続きそうな廊下、たくさんの部屋。
せんぱいは、廊下をずっと進んだ突き当たりにあるリビングへと向かったので、後ろをついて行き、ふわっふわのソファに腰を下ろした。
「なんか観る?サブスク何個かあるよ」
「あ、あの、何かお手伝いは⋯⋯」
「きょうはおれがつくりたい。また今度一緒につくろ」
「は、はい⋯⋯」
すごい。次の約束がすごくスムーズだ。
これがもてる男の技かあ、なんて、感嘆と同時に少しの嫉妬。
お言葉に甘えて、サブスクで気になっていたドラマを鑑賞した。
「わあ!おいしそう〜!」
「お待たせ」
しばらくして出てきたのは、ほかほかの白米にハンバーグ、サラダ、お味噌汁。
途中、ぺちぺちという音が聞こえてきたので、ハンバーグかなあと予想していたら大当たり。
「こんな短時間でハンバーグつくれるなんて、すごい⋯⋯」
「意外とはやくできた。退屈させるわけにはいかないし」
「いやいや!がっつりドラマ楽しんでました」
「ならよかった。食べよ」
「はい!ありがとうございます、いただきます」
「いただきます」
ハンバーグを半分に切ると、中からチーズがとろーり出てきて思わず声をあげる。
そんなわたしを見てせんぱいは楽しそうに笑う。
奇跡みたいな光景だ。
猫舌なので入念にふーふーしてから口に入れると、幸せの味がした。
「ん〜!めっちゃおいしいです〜!」
「ふ、目きらきら。よかった、喜んでくれてうれしい」
「お店出せますよせんぱい!」
「さなちん限定レストランだな」
「毎日通っちゃいます!」
本当においしい。
食べ切るのがもったいないけれど、おいしすぎてどんどん食べる手が進む。
「このサラダ、ドレッシングお手製ですか?」
「ああ、そう。簡単なやつだけど」
「すごい!おいしいです、程よく酸っぱくて」
「おれもこれすき」
幸せだ。
1週間の疲れが瞬く間に癒されていく。
「やっぱりせんぱいのごはんは最高ですね!」
「うれしいわ、ありがとう」
何度も何度もおいしいと繰り返すわたしのことを、せんぱいはやさしい顔で見つめていた。
「あ、あの、そういえば⋯⋯」
「ん、なに?」
「ストーカー撃退のための、か、仮の、恋人関係は、もう、解消で、すよね⋯⋯?」
「あー⋯⋯」
意を決して尋ねると、せんぱいは忘れていたのか、少し気まずそうな顔をした。
「ま、そうだな、そうしようか」
「は、はい。あの、会社には⋯⋯」
「ああ、そのうち別れたことにしとくよ」
「あ、りがとう、ございます」
わかってる。残念な気持ちを抱くのは間違っている。
いつか本物になれるように、頑張ればいいだけだ。
気まずい空気が流れている気がする。
振り切るように咳払いをして、お味噌汁を一口飲んだ。
「ほんっとにおいしかったです!ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
あっという間に食べ終わってしまい、食器をキッチンへと運ぶ。
洗い物は食洗機にお任せということで、さっと汚れを流して食洗機に入れた。
「よし、送るよ」
「すみません、ありがとうございます」
ソファのそばに置いていた荷物を取り、忘れ物がないか確認する。
「繁盛期乗り越えたらまた食べに来てな」
「いいんですか!?ぜひ⋯⋯!」
新たなご褒美だ。
いまのところ、いろいろな約束をすべて叶えてくれているから、ますます期待してしまう。
「ん。きついだろうけど、無理せず頑張ろうな」
「はい!無理せず!」
「じゃ、行こ」
「おじゃましました」
またお訪ねできる日を夢見て、せんぱいの家を出た。
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
それからは、繁盛期らしく、本当に忙しかった。
総務部も例外ではなく、ボーナス支給のための財務関係の仕事がどっと増えた。
せんぱいと交わした“無理せず”という約束は到底守れるはずもなく、ご飯も手抜き、睡眠時間も短く、サプリで誤魔化す日々。
メールでの業務依頼も、返信が期限ぎりぎりになってしまうことが多く、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
毎年恒例のこの忙しさは、いまだに慣れることができない。
貧血だけは起きないように、鉄分のサプリを例年以上にたくさん飲んでいる。
おかげで、寝不足や肌荒れなどはあれど、ぶっ倒れることはなくここまで来れている。
「青葉さん、大丈夫?今年はいつも以上に忙しい気がするね」
「やっぱりそうですか?ぎりぎりなんとかなってます⋯⋯」
「あともうちょっとだからみんなで乗り越えよう。本当にきつかったら言ってね」
「ありがとうございます」
先日の貧血を知っている河野さんは、自分も相当忙しいのに気にかけてくださっている。
ありがたい限りだ。頑張りたい。
7月に入っても、なかなか落ち着かなかった。
例年はそろそろ平常運転に戻るのだけれど、今年はなぜかそうも行かなそうだ。
そんか忙しさの中、ある日ふと久しぶりに洗面所の鏡で自分の顔を見ると、とんでもなくやつれていた。
「(こりゃあ、だめだ⋯⋯しばらくせんぱいに会えそうにない)」
あしたも朝から仕事が盛りだくさんなので、素早くお風呂に入り、いつも通りカロリーバーとサプリを飲んで就寝。
死んだように眠って、朝のアラームで目を覚ましたとき、嫌な予感がした。
「(さむい⋯⋯)」
クーラーがついている。
いつも寝る前に消しているのに。
布団も被ってなかったもんだから、完全にやらかしている。
すぐ身体を壊す自分が本当に恨めしい。
業務量的に休むわけにはいかないから、何とか身体を誤魔化して起き上がる。
沸かしたお湯を少しずつ飲み、身体を温める。
少しましになった気がする。
眉毛だけちゃっと描いて、着替えて髪をひとつに縛り、気合を入れて家を出た。
「青葉さん、体調悪いでしょ」
河野さんには気づかれるだろうなと思っていたけれど、朝イチでばれた。
「う⋯⋯ばれますよね⋯⋯」
「あと何が残ってんの?」
どうやら帰らせてくれようとしているらしい。
「あ、あの、いいです、申し訳ないし⋯⋯」
「だめ。いまの時代、体調崩してんのに仕事してたら怒られるよ?いいから、残り全部渡して」
「うー⋯⋯」
「わかったわかった、また元気になったときに私の仕事任せるから」
いやいやと首を振るわたしに、河野さんがあやすように語りかける。
「ね、頑張れるときに頑張ってくれたらそれでいいから。いまは身体が休ませてくれって言ってるんだから、無理しなくていいの」
「⋯⋯っ、すみませえん⋯⋯」
「いいから、泣かないの!大丈夫だから」
しんどい身体、無力な自分への絶望、そこに河野さんのやさしさが染み渡り、思わず涙があふれる。
「あの、いま途中のやつは、さいごまでやりきりたい、です」
「⋯⋯わかった。それ以外はもらってく。最後のひと踏ん張り、よろしく」
「はい、ありがとう、ございます」
結局迷惑をかけてしまった。
せんぱいとの“無理せず”という約束を守らなかったから。
落ち込みながら、いま進めている資料作成に取り組む。
11時過ぎ。何とか終えられそう、と終わりが見えると、一気に身体が重く感じる。
最後の力を振り絞って作り切り、共有フォルダに保存して、ぐっと伸びをした。
「(あー⋯⋯やばいなあ)」
終わったという安堵からか、頭が朦朧としてくる。
有給の手続きをし、パソコンの電源を落とす。
「青葉さん、おつかれさま。前ちゃんに連絡したから、昼休憩はやめに取って車で送ってもらえると思う」
「あ、ええ⋯⋯すみません、ありがとうございます⋯⋯あの、しごとも、ご迷惑をおかけして⋯⋯」
「ぜんぜん。はやく元気になって、ばりばり働いてね」
「ありがとう、ございます」
「うん、気をつけて」
河野さんに見送られ、他の同僚の方々からも暖かい言葉を頂きながら、ゆっくりとエレベーターに向かった。
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