2
迎えた金曜日。
ここ最近ではめずらしく、きもちいい快晴。
自分でもわかるくらい、朝からそわそわしていた。
いつもの時間、いつもの車両に乗るとせんぱいがいる。
「おはようございます」
「おはよ。きょうの夜、いけそう?」
「いけます!」
「よかった。食べたいもんある?」
「せんぱいへのお礼だから、せんぱいのすきなもの食べに行きたいです」
「そうなの?んー⋯⋯、焼き鳥すき?」
「すきです!」
「じゃ、おれがよく行くところ行こ」
「はい!楽しみです」
「ん。上がれる時間連絡するわ。なるべく定時目指す」
「無理しないでくださいね」
「青葉も。無理せず頑張ろ」
「はい!」
やばい。いよいよだ。
緊張、楽しみ、わくわく、そわそわ。
電車を降りて会社へと向かう道中もずっとふわふわしていて、何を話したかあまり覚えてない。
わたしの様子がいつもとちがうのは一目瞭然らしく、河野さんが思わずといったように声をかけてくる。
「おはよう青葉さん。なんかすっごい挙動不審だけど大丈夫!?」
「あ、お、おはようございます!だ、大丈夫です⋯⋯!」
「前ちゃんとなんかあったの?」
「へっ!い、いえ⋯⋯!」
そうだ、河野さんは、わたしとせんぱいが付き合っていると思ってるんだった。
ここで「きょう飲みに行くんです」と言っても、逆に「付き合ってるのに、飲みに行くだけでそんなそわそわする?」って不信感を抱かれるかも。
何とかして誤魔化さないと⋯⋯!
「喧嘩したとか嫌なことされたとか、ネガティブな“何か”ではない?」
「あ、いえもうぜんぜん⋯⋯!むしろ“いいこと”です」
「そうなの?じゃあよかった。わたしはいつでも青葉さんの味方だし、青葉さんのこと傷つけたら前ちゃんシメるから」
「こ、こわいです河野さん〜!」
「ふふ、冗談よ」
⋯⋯河野さんなら本気でやりかねない。
「それにしても、“いいこと”があってそわそわしてる青葉さん、超かわいいね。前ちゃんに見せたげたい」
「へっ⋯⋯」
思わぬ言葉に身体がますます熱くなる。
「ほっぺた赤いよ〜?そんなにいいことがあったんだね、よかったね」
「う、は、はい⋯⋯」
「うふふ。若いっていいね〜!」
「こ、河野さんもじゅうぶん若いじゃないですか!」
これから仕事だというのに身が入らないじゃないか!
火照った身体を冷ますように手で仰ぎ、お茶を一口飲んだ。
パソコンの電源を入れると、いつものようにメールをチェックする。
きょうのやることリストを立てながら、やっぱり田中さんからのメールはないなあ、とぼんやり思う。
ここ最近たくさんメールが入っていたけれど、あの水曜日をきっかけにぱたりと止まった。
代わりに誰かに依頼していればいいけれど、無理されてないかなあ、なんて、無用な心配をしてしまう。
「(⋯⋯定時で上がれるように頑張ろ)」
幸い、きょうやらなければならない業務もそう多くはない。
夜の楽しみに向け、気合いを入れて仕事に取り掛かった。
───“ごめん、定時ちょっと過ぎそう”
“わかりました!無理せず頑張ってください”
───“青葉も。上がれそうになったら連絡する”
“了解です!”
昼休み。食堂でオムライスを食べていると、せんぱいからそんな連絡が来た。
きょうは幸い、急な業務が入らない限り余裕があるので、休憩もゆったりと取れそうだ。
「(⋯⋯メイク直しでもしよう)」
せんぱいの隣に並んだときに、少しでも見劣りしないように。
まあ、大した変化はないだろうけど。
「(⋯⋯わたしって、せんぱいのこと、すきなのかな⋯⋯)」
ふと考える。
やさしくてきらきらしていて、ずっと憧れていたひと。
ずっと気にかけてくれていてすごくうれしい。
きゅんと胸が鳴ることもある。
落ちてはいけない、と心にブレーキをかけている。
大学時代は、せんぱいに彼女がいても何も思わなかった。むしろそれが当然だった。
だけど今は、彼女ができたとか、実は彼女がいたとか、そういったことを告げられると、確実に落ち込むだろう。
後輩としか見られていないとわかっているから、心に何度もブレーキをかけている。
「(⋯⋯かけなかったら⋯⋯?)」
そのまま底なしの沼に落ちていくのだろう。
そもそも、ブレーキをかけている時点でもう手遅れだ。
恋愛経験の乏しいわたしにとって、せんぱいのやさしさは毒だ。
あっという間に侵されて、解毒剤もない。
「(ちょろいなあ、わたし⋯⋯)」
もっと経験があれば毒に侵されずに済んだかもしれない。
せんぱいのやさしさを、純粋に受け取れたかもしれない。
不毛な恋だ。
ロマンスなんて素敵なものにはなり得ない。
それならいっそ、いつか自然に解毒するまで、楽しんでやろうじゃないか。
この頼りない縁が切れたら、いつか、沼から出られると信じて。
───“そろそろ上がれそう。どう?”
“わたしも上がれます!エントランスで待ってますね”
───“了解”
⋯⋯いよいよだ。
何事もなく定時で業務は終わり、メイク直しも入念にできた。
「お先です。おつかれさまでした」
「おつかれさま〜」
パソコンの電源を切り、エレベーターに向かう。
心臓の音がうるさい。
エントランスでも落ち着かずそわそわしていると、せんぱいが降りてきた。
「お待たせ。おつかれ」
「おつかれさまです⋯⋯!」
「行こ」
この光景ももう日常になったのか、視線を感じることもほぼなくなった。
そのことが少しうれしい。
「(せんぱいに、見合う人に、なりたいなあ⋯⋯)」
“気にかけている後輩”から脱出する方法は、何かあるのだろうか。
せんぱいに連れられ、わたしの最寄り駅まで向かった。
田中さんも美味しいお店があると言っていたし、飲食店が豊富なのだろう。
わたしの家とは逆方向に進むと、大衆向けの、でも小汚くはない焼き鳥屋が現れた。
「わあ!おいしそう!いい匂いしますね」
「開発部の行きつけ。こんなとこでよかった?」
「当たり前です!高級レストランとかのほうが困っちゃいます」
「ふ、そうなんだ」
せんぱいが入口のドアを開けると、炭火の香ばしい匂いと華金独特の雰囲気が漂ってきた。
そこそこ盛況しており、ちょうど空いていたカウンターに並んで座る。
「(香水つけ直しててよかった⋯⋯)」
思ったよりも近い距離に、少しどぎまぎしてしまう。
「そういえば、一緒に酒飲むの初めてだな」
「たしかに!わたしまだ未成年でしたもんね」
「うわー、なんか、感慨深い。大人になったな」
「なりましたねえ」
「何飲む?」
「生がいいです!」
「おっけ。すみません、生ふたつ」
「はいよ〜」
ぐるりと周りを見渡して、せんぱいと居酒屋にいるというこの状況を再確認する。
少し前までは、こんなこと想像もできなかった。
まさに“現実は小説より奇なり”だ。
「結構飲む?」
「普段は飲まないけど、飲み会ではそこそこ飲みます」
「強いんだ」
「んー、すぐ赤くはなるけど、あんまり酔わないかもしれないです」
「へー、いいね、真っ赤な青葉、楽しみだ」
「ええっ、何も面白くないですよ⋯⋯?」
───「すみません、生ふたつお待たせです〜」
「ありがとうございます」
距離が近いからかいつもより砕けたしゃべり方になっている気がする。
黄金色のきらきらがやってきたので、乾杯して喉を潤した。
「あー、うま」
「染みますねえ〜」
「焼き鳥も頼も。すきなのある?」
「何でもすきですけど、安定のねぎまと、このハツがすっごいおいしそうです!」
「ハツうまいよな」
「頼みましょ〜!」
わたしも砕けているけど、せんぱいもいつもよりふにゃりとしたしゃべり方になっている気がする。
一緒に通勤するようになってから、イメージしていたよりフランクでやわらかいひとだなあというのは感じていた。
遠目で見ていた頃は、近づけない雰囲気というか、世界がちがうひとだなあと思っていたから。
料理が上手だったり、アンノンのライブに行きたがってたり、今みたいな大衆居酒屋によく行っていたり。
仕事に関しては超エリートだけど、人柄は親しみやすく、後輩からも慕われてるのがよくわかる。
それもあってか、見合うひとになりたい、なんて思ってしまう。
手が届きそうだからこそ、手を伸ばしてしまう。
焼き鳥とビールが最高の組み合わせすぎて、どんどん手が進む。
必然的にお酒も回り、おしゃべりが加速する。
「ふは、青葉、まじで真っ赤じゃん」
「ですよねえ〜、じぶんでもわかります」
頬に手を当てる。程よくつめたくてきもちいい。
「飲むとき、いつもそんなんなの?」
「そうですねえ、飲んだらこうなります」
「目とろんとしてる。ねむい?」
「んーん、だいじょうぶです。せんぱいは、酔ってますか?」
「んー、まあ、ちょっと?」
「ふふ、いつもより、ふわふわしてます」
「えー、まじ?青葉だからじゃね」
「ほんとですかあ」
お酒のせいでいろんなリミッターが外れている気がする。
かっこいいなあ、すてきだなあ、すきだなあ。
そんな気持ちが心の奥底から溢れてくる。
「いったん水飲も」
「ありがとうございまあす」
いつの間にか頼んでくれていた水を一口飲むと、身体の火照りが少し治まる。
「青葉、今は付き合ってるひといないって言ってたよな」
「はあい、社会人になってから、ぜろですー」
「え、そうなんだ」
「せんぱいは、いつからいないんですか?」
「んー、もう2年くらい?振られてから仕事ばっかしてたから」
「ええ!せんぱいでも、ふられるんだ⋯⋯」
「ふ、どういうことそれ」
「だってせんぱい、かっこいいしやさしいし、かんぺきなのに⋯⋯」
「えーてれるなー、ありがとう酔っ払い」
「な!酔ってないです!赤いだけです」
「どーだか」
お酒のおかげで、よりプライベートな話題にも踏み込める。
調子に乗っていろいろなことを聞きたくなる。
「どうして、ふられちゃったんですか?」
「んー、思ってたのとちがうって言われた。よく言われるんだよねー」
「そ、それは、悲しいですね⋯⋯」
「なんか、家で料理つくったりとか、こういう居酒屋とか、おれには似合わんらしい」
「なるほど⋯⋯」
「もう言われ飽きて嫌んなって、そっから仕事ばっか」
エリートだからこそ、そういった面ばかり期待されていて、本来のせんぱいとは少しギャップがあるのかな。
「だから、青葉がうまそうに食べてくれたの、結構うれしかった」
「ほんとにおいしかったですよ!また食べたいなあって、よく思ってます」
「じゃ、また食べに来てよ」
「いいんですか!やったあ!」
砕けた会話に、思わぬ約束。
どこまで本気かはわからないから、実現することを祈るばかりだ。
「大学の友達とは会ってる?」
「サークルの子たちはたまーに。でもやっぱりなかなか時間が合わなくて、年一回会えるかなあ、くらいです」
「そっか。きみら仲良かったよね」
「せんぱいたちも仲良しでしたよねー」
「おれらもいまだにちょくちょく会ってる」
「そうなんだ!?いいなあ、昔のつながりって大切ですよね」
「うん。青葉が入社してきたときもうれしかったわ」
「ほんとですか!えへへ。わたしもせんぱいがいてうれしかったです」
「会社だってのもあるけど、すごい大人になってて“さなちん”なんて呼べんかったわ」
「あ!それ気になってました!職場だからかなあって思ってました」
サークル仲間には、いまも“さなちん”と呼ばれているけれど。
せんぱいは上司でもあるから、もう呼ばれることはないだろうなあと思うと、少しさびしくなったり。
「いやあ、だってもう“青葉さん”だもん」
「あはは、なんですかそれ」
「でもいまは“さなちん”だな」
「わ〜!なつかしいです、うれしい!」
「ふ。そんな喜ぶ?」
「うれしいですよう!」
「じゃ、プライベートは“さなちん”って呼ぶわ」
「やったあ!えへへ」
せんぱいの声で呼ばれる“さなちん”から得られる栄養がある。
それは、同時に毒にもなるのだろうが、いまは、見ないふり。
たくさん食べてたくさん飲んで、そろそろ帰ろうか、という空気になる。
お手洗いでリップを塗り直してから席に戻ると、もうすでにお会計が終わっていた。
「えええ!お礼なのに!わたしが払います!」
「いや、いい。楽しかったし、いろんな話できたのでじゅうぶん」
「⋯⋯じゃあ、アイスとか、食べませんか!」
「よし、コンビニ行こ」
「ありがとうございます、ごちそうさまです」
「ありがとうございました〜、またお願いしま〜す!」
相変わらず元気のいい店員さんの声に見送られながら、焼き鳥屋を出た。
駅方向に向かって歩きながら、見つけたコンビニに入る。
「すきなアイスとかあるんですか?」
「んー、これとかすき」
「わたしもすきです!おいしいですよねえ」
「2個しか入ってないし、ご褒美感あるよな」
ふたりであれこれ言いながら、アイスコーナーを物色する。
「うわー、なつかしい」
「本当だ!サークルでよく半分こしてましたよね」
「久しぶりに食べたいなー、半分こしよ」
「わー!いいですねえ!」
大学時代によく食べたパピコを手に取り、レジに向かう。
コンビニを出て、パッケージを開けて半分に割り、せんぱいに渡した。
「ありがとう。うわー、久しぶりだ」
せんぱいの目がきらきらしている。
こういうところが、せんぱいのずるいところだ。
「んー、うめえ」
「おいしいですねえ」
のんびり歩きながらパピコを頬張る。
華金に、せんぱいと、パピコ。
大人の青春といった感じだ。
「家まで送る」
「いいんですか?ありがとうございます」
駅が見えてきたが、そのまま素通りし、わたしの家の方へ向かう。
駅から遠ざかると、だんだんと華金の喧騒が小さくなっていき、住宅街特有の静けさが訪れる。
夜空を見上げ、綺麗な月を眺めながら、楽しかったなあ、と物思いにふける。
「ストーカーはもう大丈夫そうだな」
「はい。せんぱいのおかげです」
「役に立ててよかった」
「ありがとうございました」
もうこの道を一緒に歩くことはないのだろう。
こういうときこそ、家までの道が短く感じるのはなぜなのか。
最後なんだなあ、とさびしくなりながら歩いていると、あっという間に着いてしまった。
「きょうはありがとうございました」
「ん、こちらこそ」
「きょうだけじゃなくって、貧血のときからずっと、ありがとうございました」
「なにそんな、一生の別れみたいな」
だってもう、こんな気軽には会えなくなるじゃないか。
「仕事の依頼も変わらずメールするし、社内でも会えるだろうし、ごはんもよければまた行こうよ」
思わずじーんと来てしまう。
入社してから、部署もちがうし、深く関わるきっかけもなかった。
大学時代もただの先輩後輩で、気にかけてもらってはいたけれど、ここまでたくさんお話はできなかった。
ひとつのきっかけで、ずっと遠くの世界にいたひとと、こんなに近づけるなんて。
そして、これまで知ることもできなかった部分まで知れて、まんまと憧れがすきに変わって。
「⋯⋯いいんですか?ぜひ、おねがいします」
声が少し震えてしまう。
こんなの、ストーカーに感謝してもいいくらいだ。
「ん、じゃあ、また来週」
「はい、気をつけて帰ってください」
せんぱいがその場に留まって手を振ってくれるので、軽く振り返してから、アパートのオートロックを解除した。
───“言い忘れてた。おやすみ”
家に帰ってお風呂の準備をしているとき、スマホが鳴ったので見てみると、せんぱいからこんなメッセージが入っていた。
胸がきゅんと鳴る。
“おやすみなさい︎︎︎︎︎☺︎”
夜風やアイスのおかげで少し醒めた熱が、また蘇ってくる。
すきになっても届かないとブレーキをかけていたのに、まんまと落ちてしまった。
あんなに魅力たっぷりな姿を見せられて、落ちないひとはいるのだろうか。
叶う確率は極めて低い。かと言って、すぐに諦められるほど軽い気持ちでもなくなってしまった。
容姿、仕事、料理⋯⋯。いろんなことを頑張って、努力して、少しでも、せんぱいの隣にふさわしくなれるように。
せんぱいに、すきになってもらえるように。
せんぱいを頑張る理由にすると、どこまでも頑張ることができそうだ。
さっそく、沸いたお湯にちょっといい入浴剤を入れる。
あしたは休みだし、むくみを取るように、たっぷり時間をかけてお風呂に入った。
「(アンノン、当たりますように⋯⋯!)」
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「(なんだあれ、かわいすぎるだろ⋯⋯)」
駅に向かいながら、たまらず髪を掻きむしる。
もともとあまり酔っていないし、夜風とパピコのおかげで醒めているはずなのに、青葉の真っ赤な顔が脳裏をよぎるたびに身体が熱をもつ。
大学時代から、純粋にかわいい子だとは思っていた。
貧血に遭遇したときは、当たり前のように庇護欲を掻き立てられた。
でも、それだけだ。
彼女がいたこともあったし、あの子だけが特別だという感情はなかったと言い切れる。
そのまま卒業して就職し、恋人という存在に失望していた頃。
新入社員に見覚えのある顔を見つけた。
総務部に配属されたことを知って、同期に様子を伺っていたのも、あくまで身体が弱いあの子を心配していただけだ。
たまに業務を依頼すると、すごく丁寧な資料が作成されていて、勝手に誇らしくなったりもした。
そうやって、特別な関わりもなく過ごしていたが、たまたま河野に用があって総務部に向かっていたところで、また彼女の貧血に立ち会った。
ストーカーのことを聞いて、心配になった。
どうにかしてあげたいと思った。
小さい身体で毎日頑張っている彼女を、労わってやりたいと思った。
何より、おれがつくったごはんを本当においしそうに食べる姿が、愛おしかった。
アンノンのライブに行きたいのは本当だけれど、青葉とのつながりを保っていたいことの方が大きい。
“気にかけていた後輩のひとり”だったあの子が、いつからか、おれの“特別”になった。
青葉は、おれの中身までをきちんと見てくれている。
青葉となら、失望せずに、恋愛ができるかもしれない。
まんまと絆されている。
それでも、もう一度、信じてみようと思えた。
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