恍惚

和藤内琥珀

邂逅

この村のはずれには、小さな湖がある。

人はほとんど訪れない。私が生まれるより少し前に水道ができて、湖まで水を汲みに来る必要がなくなったからだ。それに加え、この湖には魚がいないから、釣り人も訪れない。村から1キロメートルもないところにもっと大きな湖があるのも、誰も訪れない理由の1つだ。時々物音がして、誰かが来たかと思えば、迷ったうさぎだったなんてこともある。

ただそれは私にとって好都合だった。

私は一人が好きだった。毎日ここに来て絵を描いた。時間帯で変えたり、見る方向を変えたりして。描き溜めた絵は百枚をゆうに超えている。

今日も絵を描きに湖に来た。

ちよちよと小鳥が鳴いている声が耳に入る。木々は青々としていて、いかにも春、といった感じだ。地面一面には黄色い小さな花が咲き誇っている。これを描くのもいいかも。

正面に、座るのに丁度よさそうな倒木があった。端は腐って崩れてきているが、真ん中は叩いてもなんともなかった。

腰を下ろして、道具を鞄から取り出す。スケッチブックと、鉛筆と、水彩絵の具。湖だし、水がたくさんあるから、油絵の具より水彩絵の具。

膝の上にスケッチブックを置いて、いつもの体勢になったとき。

「また、来たんですか」

突然、どこからともなく、青年の声が聞こえた。

笑うでもなく、怒るでもなく、抑揚がなく、感情の読めない声だった。唐突だった割に気持ち悪い感じはしない。寧ろ、鈴の音のようで心地よい。

声の主を見ようと、首を動かし腰をひねり見回すもどうも見つからない。どこから話しているんだろう?

「飽きないんですね」

とぽん、と水面に波紋が広がって、以降声は聞こえなくなった。

もしかして水から?だが今は神代の時代でもない。そんなことはないだろう、ただの幻聴だ、と自分を納得させて描くことにした。

さっきまで聞こえていた鳥の声が消えた。さっ、さっ、という鉛筆の音と、ザザザ…という木の葉の揺れる音だけがする。

「今日も静かでいいね」

誰宛とも定まらない言葉が口をついた。


切りが良いところまで描いていたら、丁度描けなくなってくる時間になった。

荷物を鞄に無造作に詰め込んでから、くるりと湖に背を向ける。

空は茜色と藍色の2色が混じっている。私はこの時間の空が好きだ。明るすぎなく、暗すぎない。確かマジックアワーと言ったか。

「この時間の空は、何度見ても綺麗ですね」

また声が聞こえた。今度はちゃんとどこから聞こえたか分かった。私の後ろ、つまり湖の方からだ。

振り向くと、そこには眉目秀麗な青年が、足先を湖に浸けたままこちらを見ていた。真昼に見れば眩しいであろう黄金色の長髪で、目はアメジストのような輝かしい紫色。肌は雪のように白い。服は深い海を思わせるネイビー。上の服が東洋を思わせる作りで、下の服にはスリットが入っている。どちらかというと女性が着ていそうな服だ。

ザパッ、と音を立てて彼は湖から上がってきた。奇妙なことに、彼の服や体が濡れている様子はなかった。肩から前に流されている長い髪を優雅かつ無駄のない動きで後ろへ流す。艶やかな動作で思わず見惚れてしまう。

あまりに眺めすぎてしまったらしい。彼が眉間にしわを寄せて、こちらを見ている。

「なんなんですか」

「あ、えっと…髪とか、綺麗だなって」

「…そうですか」

彼はやや赤面して顔をさっと背けてしまった。その仕草は、落ち着いた青年の顔つきとは反して少年のように初であどけない。

少し、彼の方に歩みを寄せる。彼はそれに合わせて下がっていく。全く距離が縮まらない。足が湖に浸かったところで彼はようやく後退を止めた。

「そっちから出てきたのにどうして下がるの?」

私が問うと、彼は目を泳がせた。

「その…褒められたのが400年ぐらい振りなもので…」

「400年!?あなた何歳なの!?」

「えっと…」

指を十何回か折ったあと、さらりと彼は答えた。

「7613歳…ですかね」

「え!?7613歳!?あなた一体何者なの!!?」

「私は…精霊です」

「…は?」

唐突過ぎて全ての言葉が喉の奥に引っ込んでしまって間抜けな声しか出せなかった。

精霊?いつの時代の話をしているんだろうか。今は産業革命も過ぎ、海には蒸気船が浮かび、空には飛行機が飛ぶ、人間の時代だ。

「精霊なんて、私見たことないんだけど」

「私だって他の方にはあまり会いませんし、貴方が見たことがないのも仕方ないかと。それに…信仰心の薄れてしまった現代で姿を見せるなんて愚かなことはしないでしょう」

そんな愚かなことをあなたはしてるじゃないか…と思ったが、言って腹を立てられてはどうしようもないから言わないでおこう。

「ところで…あなたは何の精霊なの?」

「察しの悪い人ですね、分かるでしょう」

分かってたら訊いてないでしょ、これも口には出さない。

彼は『見てごらんなさい』と言わんばかりに腕を大きく広げた。心なしかドヤ顔をしているように見える。いや、そんな顔されましても。

けれど、こんなに面白い人(?)にはそうそう会わないだろうから機嫌は損ねたくない。真面目に答えよう。

「…ここの湖の精霊、とか?」

「あー、惜しいです。正解は水です」

水の精霊…ウンディーネだったか。

ウンディーネ。ギリシャ神話の水の精霊だ。湖や泉に住んでいるとされる。だが私が以前見た絵画ではどれもこれも美しい乙女として描かれていた。

「ウンディーネなのに男なんだね」

疑問が口から漏れてしまった。それを聞いた彼は頬を膨らませた。

「別に、ウンディーネは性別はないんですっ」

もう、絶対あの人達のせいですね、と不満を漏らした。この人、なんか可愛いな。

けれど、もうすっかり拗ねてしまったみたいで、

「あの…大丈夫?」

と声を掛けても、

「せめて名前だけでも教えてくれない?」

と訊いても何も答えてくれない。ぷいっと顔を背けている。

「ところで貴方、帰らなくていいんですか?」

話が面白くてすっかり忘れていたが、そういえば私は帰ろうとしていたんだった。

空は完全に藍色に染まっていた。一番星が煌々と輝いている。

「あっ、か、帰るか…。明日も来るからね!」

明日は絶対質問攻めしてやろう。私は固く決意した。



星のまばゆい光がよく見える時間だ。空を眺めていると、色んなことを考えてしまう。

全く、変な人だ。私が姿を現しても驚きもしない。それどころか、恥ずかしげも無く僕のことを『綺麗』などと言う。満面の笑みで。何がそんなに嬉しいんだろうか。からかっているんだろうか。


翌朝。

「おはよー!!!」

ドダダダという足音と彼女の馬鹿でかい声があたりに響き渡る。いつもの彼女はこんなノリだったろうか。両手を広げ、喜びで顔を染めてこちらへ走ってきた。

「今日は沢山話聞かせてもらうからね。昨日はぐらかした質問とか、…あ、そうそう、質問リスト作ってきたの!覚悟してよね!」

彼女は下げた三つ編みの髪を揺らして、鞄から手帳を取り出しニコニコしている。そんなガラスみたいな目を輝かせて何を考えているんだろうか。

「じゃあまずはお名前から!」

「そういうのは、君…、……貴方から言うべきなのでは?」

「ああ、そうね、言い出しっぺが先に言うべきだね。私はエテレイン。誕生日は3月3日でうお座!歳は17で身長は155cmで体重が…」

「わ、分かりましたもういいです」

「え、ああそう?」

「女性が気軽に体重を言うもんじゃありません!」

「私は気にしないけどな…」

「私が聞くに耐えないのでやめてください」

「そっかぁ」

眉を下げた…ように見えた。そんな風に見えただけであってほしい。と、思ったのもつかの間。エテレインは嬉々として、

「…よし、私が名前言ったんだから、今度はあなたの番ね!」

と言った。

「名前ですね、私の名前は…、…名前特に無いんですよね、私」

「えっ、嘘!?」

無い、というよりは、皆に好き勝手に呼ばれてはじめの名前を忘れた、の方が正しいが、無いと言ったほうが楽だと思った。気に入っている名前はあるが、新しい名前が欲しいと思った。

「ということで、貴方が好きにつけてくれて構いません」

「えっ、急に言われても…」

これは…違うな…などと呟きながら唸っている。ちょっと面白い。

「あっ、ヒュドールなんてどう?確か中性名詞だったと思うし…丁度良さそうじゃない?」

「えっ?」

思わず、声が出てしまった。なぜなら、その名前は割と最近につけられた名前だったからだ。最近、といっても、400年前だが。

「嫌だった…?」

「いえ、そうではないです。ただ少し、驚いただけで」

「へぇ、じゃあ決まりね!」

エテレインは顔中に喜びを浮かべた。何がそんなに嬉しいんだか。

「次の質問ね!あなたの趣味は?」

「趣味は…特にはないですね」

「誕生日は?」

「7000歳超えの爺が覚えているとでも?」

「そっかあ…じゃあ…」


「じゃあ、次の質問ね、どうして私の前に現れたの?」

「…来はじめたの貴方でしょう?」

「そういう意味じゃなくて、…今までここの湖に精霊がいるって聞いたことないし、姿を滅多に現さないんだよね?どうして私の前には現れたの?」

「それはですね…」

はっきりとした理由はなかった。もしかすると、たまたまこのタイミングで寂しがり屋を発揮しただけかもしれない。

「寂しかったのかなと。…会ったあとも、いつかは寂しくなってしまいますがね」

「………そう」

エテレインは相槌の後すっかり黙ってしまった。先程まで狂喜乱舞といった様子だったのが嘘みたいだ。

黙られるのも仕方がない。かといって僕から話すこともない。じっと、待つだけだ。

空が段々と暗くなる。ぽつ、ぽつと葉に水の当たる音がした。次第に音は大きくなり、雨は目に見えるようになった。

「雨、降ってますけど、大丈夫ですか?」

「大丈夫」

エテレインは傘を持っていなかった。上着で防ぐこともせず、ただ、空を見つめていた。

「…エテレインさん?」

「ねぇ、ヒュドール」

「何でしょうか」

エテレインは、その少し小さな手を僕の手の上に重ねた。とてもあたたかい。

「私、死ぬまで毎日ここに来るから」

「…そうですか」

手を握って、そんなことを言って…気を遣ってくれているんだろうか。僕になんて気を遣わなくていいのに。

「あの…エテレインさん」

「大丈夫!私多分長生きするし、あと、できたら…だけど、子供とかにもあなたの話伝えるから!絶対、一人になんてさせないから!」

黒曜石のような漆黒の瞳が、僕をしっかり捉えて離さない。黒、はっきり黒であるのに、揺らめく炎を連想させる強さを持っていた。

「…僕は、君に自由であってほしいと思っているんですよ」

「自由ねぇ…私の勝手でここに毎日来ると決めたんだからいいでしょう?…うーん…違うな…あ!『せいぜい私の我儘に付き合いなさい!』かな?」

ふふん、とエテレインはドヤ顔をしている。いや、ドヤ顔されても…。

「どちらにせよ、私は知らない間にいなくなるなんてことはないから!絶対!」

「…それ、僕ばかりが得をしませんか?」

「それじゃあ、頼み事、していいかな」

「僕の出来ることなら」

エテレインはクスッ、といたずらする時の子どものように笑った。

「私と、親友になってほしいな」


こうして僕たちは出会って2日で親友になった。

2日で親友なんて、7000年生きてて初めての記録だ。フォスでも、一週間だった。



それから私達は、毎日毎日飽きもせずに他愛もない話をたくさんした。ある日はこの辺りに咲いている花について。ある日はここへ飛来する鳥について。

今日もいつも通り、ここに来た。いつもは私から話を切り出すのだが、今日は珍しく彼から口を開いた。

「今日は、夜まで居てくれませんか。見せたいものがあるんです」

とのことだった。見せたいもの?なんだろうか。

「少し準備がありますので、今日は…少し、帰っていたただいてよろしいでしょうか」

「分かったよ、親友の頼みだもんねっ」

ヒュドールはほっと胸を撫で下ろした。私が『ははは、そんな頼みなぞ聞かんわ!』とでも言うと思っていたのだろうか。

とはいえ、夜まで何しよう。何もすることがないからここに来ているから思いつかない。

「さて、本当にどうしようかな」

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恍惚 和藤内琥珀 @watounai-kohaku123

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