第2話
朝、目が覚めた時にはもう京都の都市部にいて、ちょうど隣人がコーヒーと抹茶ラテを持って地味な色合いのコンビニから戻ってくるところだった。曰く、数時間ここで仮眠をとっていたらしい。
彼は運転席に戻ってエンジンを入れてから、「寄りたいところがあるんだ」と私に微笑みを向けた。窓を閉め切っていたから車内は無風だったが、彼が緩慢な動きで首を傾けたから、その横髪がはらりと彼の目元に被さる。その合間から見える眼はよく見知ったものだった。久しぶりに目があった気がして、ようやく、とそれ以外に言い表しようのない安堵を覚える。
大丈夫だ、彼は変わらないままだった。まだ見捨てられてはいない。とはいえ、繋ぎ止めようとまでは思わない。むしろ彼は私から離れるべきなのだ。だが、安堵している自分がいる。なんて下卑た性格なのだろう。今更であろうが、もはや手遅れであるのだが、決定的に選択を間違えている。
何年ぶりだったかまでは覚えていないが、今こうして助手席から眺めている京都の景色は、かつて後部座席の窓から見たことがあるはずのもので、しかし道中の記憶なんてものはどれも曖昧であったから、こんな感じだったような気がするというこれまた曖昧な感想と懐古を抱く。
そうして連れてこられたのが、——何がどうしてここを選ぶことになったのかさっぱりだが、清水寺である。
降車した私と隣人は、降り注ぐ朝日に目を細めながら、階段の辺りの隅に並んで座って黙り込んでいる。
こちらに向けられた液晶画面では、三筋の
「たまには寄り道もいいものでしょ? ほら、モネはいつも予定を詰めに詰めて、計画的にこなそうとするから」
「……まぁ、たまには悪くないわね、予定不和も。……たまにはね」
素直じゃないなぁと、彼はもう慣れたと言わんばかりにくつくつと笑う。
午前六時過ぎの空気はまだ冷えていて、そのせいもあってか、この時間帯には辺りを歩く人の姿もまばらで、観光地にしては静かだった。うるさいわねと彼を咎める私も、つい声を潜めてしまう。
朝っぱらからこんな些細なことで喧嘩だなんて、神も仏も呆れるだろう。
わざわざこの古都まで来て、巡るのは清水寺だけらしい。
ここまで来てたったの一か所だけだなんてと思ってしまったが、彼に「君の心にそんな余裕なんてないだろうに」と言われてしまって、確かにその通りで何も言い返せなかった。
図星で閉口した私に、帰りにまた京都へ寄ろうねと声を掛けながら、余程面白かったのか彼は満面の笑みを浮かべていた。
「……本当、静かね。近くに誰もいないなんて」
平日の朝だからだろう。ここから見渡せる限りでは二人きりだ。こんな時間帯に来るのは初めてだった。
「これは音羽の滝だね。向かって左から『延命長寿』、『恋愛成就』、『学業成就』で、この水を飲むと願いが叶うって言われている。要するに、パワースポットだ。清水っていうのは、ここの水に由来したものらしい」
「知ってるわよ。昔、父さんがくどくどと説明していたもの」
「ああ、それは失礼。今のは、僕自身に言い聞かせていたということにしてくれないかな。何せ、神社や寺っていうもの自体初めてでね、ちょっと緊張してる」
日本人とどこかの混血児なのだと、彼がかつて自己紹介の際にそう口にしていたのを、今になって思い出す。
確かに、筋のはっきりした鼻と化粧要らずの色白さ、それから青い眼は、元来日本人が持つ特徴とは異なっていた。日本語を喋るのがとても上手いが、漢字が苦手で読むのに時間が掛かるし、つい最近まで海外で暮らしていたため、日本の宗教絡みのことは慣れていないのだ。
改めて、とんでもないことに巻き込んでしまったと、罪悪感を抱く。
「ごめんなさい」
「君の口の悪さならもう慣れたよ」
「それじゃないのよ」
彼は、「ふぅん」と静かに相槌を打って、それから私の上着のボタンを数段閉めた。別に寒いわけじゃないけどと言うと、分かっているともと返ってくる。
「モネの好きなようにしてくれたらいいんだ。僕は勝手にお供しているだけ」
誰かにとっての都合の良い存在に、自分からなろうだなんて呆れて笑えもしない。
……などと憎まれ口を叩いて彼の善意も有耶無耶にしてやろうと思ったのに、彼の双眸は何故か今にも泣きそうなほど切な様子で、結局、声にできずにそのまま飲み込んでしまった。
それが不完全燃焼のまま、腹の底でとぐろを巻いているような感覚がする。
隣人が「予習してきたからエスコートさせてほしい」などと言い出したので、大人しくそれに付き合ってみることにした。寺をエスコートだなんて、滅多に聞かない単語の並びだが、あえて指摘はしない。
「エスコートも何も、一方通行で経路も決まってるのだけど」
「まあ、いいってことにしてくれないか。こういうのはノリが大切だよ」
清水の舞台から遠景を眺める。
風が吹いて木々が揺れる音に、そのまま身を委ねた。
ここから見える地平の際の際は雲で黒ずんでいたが、頭上の空は青かった。
冷えた空気が頬に触れてそのまま流れ去ってゆく。その風がどこか遠くで木の葉を揺らしていた。鳥か虫か、何かの鳴き声が、木々のざわめきの中に身を潜めている。
まるで夢を見ているようだと思った。ぼんやりとして輪郭が掴めないような、意識が遠のくような、私が景色と同化して無くなっていくような。
「モネ」
隣人の掌が私の手首を掴んだ。その感覚ははっきりとしていて、紛れもなく現実であった。
私の腕をきつく握る掌の伸びかけの爪が肌に刺さって、思わず一瞬だけ顔を歪めた。その機微に気づいた彼は条件反射のように咄嗟に手を離して、息を呑むような小声で謝罪した。いつもに増して、過保護に拍車がかかっている。そのさまが、痛みとして私に肉薄する。わざとじゃないことなんて考えるまでもないことで、何なら謝るほどでもないわけで、私は若干のやりづらさと気まずさを覚えながらそっと右腕を後ろに回して、曖昧に誤魔化した。彼は察しの良い人であったから、私のそういうちょっとした動きを見て苦笑を返した。
「……モネ、飛び降りないでね」
「あなた、本当に私のこと何だと思ってるわけ? ことわざを丸呑みにする奴でもなければ、そんな死にたがりな奴でもないから」
そんな心配性じゃ杞憂で胃やられるわよ、と小突くと、「君の心配でなら本望だな」と気障ったらしいことを言うから胸焼けがした。
思ってもいないことをまるで本心からの言葉のようにさらりと言えてしまうのが、この男の嫌な点だった。彼にそういうのは求めていない。何の慰めにもならない。
「……ほら、エスコート、続けるんでしょう?」
微妙な空気に根負けしたのは私の方だった。乱雑に手を差し出すと、彼は一瞬で普段の調子に戻って、微笑んで己の手を下に添える。わざとらしさのない恭しさは、先の海外生活で身につけたものなのだろうか。
彼の先導に従って、足を動かす。けれど、心はまだどこか遠くにあった。
「……あの子は多分、ここには来られないわね」
また一つ呟くと、隣から諫めるような声音で名前を呼ばれた。彼が言いたいことは分かっている。……つもり。
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