第1話
何か段差でも無理矢理乗り越えたのか、車体が大きく揺れて、脱力していた私はあえなくフレームに側頭部を打ち付けることとなった。呻くこともできずに痛みを噛み締める。だからこんな道嫌だったのに。
だが、これでようやく淡い微睡みから離れることができた。
「空が青いねぇ」
軽自動車を走らせながら、隣の青年は当然のことをさも珍しいことのように何度も繰り返し呟いていた。
十中八九、話題が尽きて困っているのだろう。このひどく狭い車内では、きっとこうでもしないと息が詰まってしまうから。その感覚は何となく分かる。私も、知らず知らずのうちに窒息しかけているのだろう。
表情ひとつ変えず僅かにへらりと笑んだままの隣人を一瞥して、とはいえ何か返す気力も起きず、横の窓から見える景色をぼんやりと眺める。
うねる崖道を進む。両脇を山壁と海に挟まれ、舗装もされていない荒れた道であるから、乗り心地は言うまでもなく最悪だ。
タイヤの圧で石が跳ねて車のボディを傷つける音を時折この耳が拾うから、山から脱する頃には凹みが幾つか増えていそうだとは想像に難くない。安い中古車とのことだからまあいいだろう、……などと言う権利は持ち主でない私には持ち得ないものなのだけれども。
窓を開け、やや身を乗り出して覗き込むと、海原はかなり下にあった。日ごとに鋭利さを増していく日差しを受け、澄んだ青をしている凪いだ
楽に死ねそう、なんて考えていたら、隣人が若干焦った様子で私の右腕を引いた。
「早まらないでよ?」
「……何言ってるの、するわけないでしょ」
考えていたことがそのまま口に出ていたのか、あるいは彼が察したのか。分からないまま、私は大人しく窓を閉めた。楽そうだとは思ったが、とはいえここで早々に退場する気などは毛ほども無い。
車の冷房が首筋を撫でていく。知らない芳香剤の匂いが微風に乗って私へと吹きつけてくるから、このままでは車酔いしてしまうかもしれない。
春にしては少し暑かった。きっとまた昨年よりも早く夏が来るのだろうと、否が応でもそう考えさせられた。
「本当、乗り心地最悪ね。アスファルトも敷かれていないなんて」
「そうだね、あとで美味しいもの食べようか」
だから今は我慢してくれと、隣人は苦笑した。食事で機嫌が取れるような奴だと思われているのはあまり良い気がしないが、道の荒れようは彼が悪いわけではないので仕方ない。確かに、今は他の娯楽を選べるような状況でもないのだし。
本当に最悪なのは、この隣人でも荒れた道でもなく、どうしようもない私なのだ。
本来無関係のはずだったこの青年を巻き込んで、今に至るまで逃避行に付き合わせている。だというのに私は、罪悪感から未だに目を逸らし続けている。
「……抹茶系がいい」
「はいはい、お任せあれ」
彼は行き先も告げずに、どこかへ車を走らせていた。睡眠と覚醒を細切れに繰り返しているため、この崖を越えた先が何県のどこであるのかということさえも、私は知らない。それでよかった。
今は、目的地がない方がずっと楽だ。
助手席のサンバイザーに付属している鏡を開く。年季のせいか、なかなかスムーズにはスライドできず、手こずっている様子を横目で一瞥した彼が苦笑していた。
ようやく鏡面が現れ、像が映る。いつのまにか、目の下に隈ができていた。これのせいで要らぬ心配をかけていたのかもしれない。
ずっと、彼の厚意に甘えてばかりだった。
いつの間にかまた眠っていたようで、目を開くと車内は真っ暗だった。
すっかり夜だ。車のヘッドライトが道を照らしているが、この辺りは比較的整備されているようで、座席のシートからあの不快感を受け取ることは無かった。人里からはまだ離れているようだが、昼のあの地点から何キロ離れたのだろう。
車の時計は二十三時過ぎだと示している。
「天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです」
カーナビの青白い光にうっすらと照らされた青年は、まっすぐ前を見たまま静かに呟いた。真顔だと絵になるなぁとその横顔を眺めながら、私はふと口を開く。
「つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです」
こんな感じの台詞があったはずだ。確か、序盤の先生の言葉。あまり記憶力が良くないものだからどこか端折ってしまっているに違いないが、彼ははたとこちらにほんの一瞬だけ視線を向けて、それから逃げるように前に向けた。よそ見を止めたというだけであるのに、それがばつの悪そうな表情に見えた。
「……銀河鉄道の夜」
でしょ、という私の語尾にはもはや疑問符が外れていて、というか最初から確信していた。彼が何も見ずに音読できる作品なんて、たぶん、これくらいしか無い。
「……起きてるなら言ってよ」
「私、あなたほど空気読み上手くないの。無理難題ね」
ついさっきまで寝てたのにと、隣人は気まずそうに左手で頭を掻く。この仕草もかなり見慣れてきたなと、半分寝ぼけた目でその様子を見つめた。その左手は、じきに後頭部から離れて横髪をいじくるのだろう。流石の彼とて、七癖くらいはあるのだろう、たぶん。いちいち数えたりとかしたことは無いけれど。
「よく分かったね。お気に入りの物語だからさ、読みすぎて、序盤はだいたい暗記してて。ふとした時に、急に声に出したくなるんだよね」
幼い頃に読んだことがあった。
父の書斎には経営学だとか難しい内容のものばかりが保管されていたが、ただ一冊だけ小説がしまわれていたのだ。それが、『銀河鉄道の夜』。こっそり書斎に通ってそれを読み進めるのが、当時の楽しみの一つだった。
「ねぇ、私も好きよ、その物語」
そうかい、それはいいな、と彼は嬉しそうに笑む。だが、視線はこちらに寄越さない。夜の崖道ほど危険な道路は無いだろうから、むしろこちらに視線を向けられたら困る。
私は隣人を見つめるのをやめて、また窓の向こうを眺めた。
今度は窓を開けたりはしなかった。深い藍の空に、これでもかというほどの数の星光が浮かんでいる。それが、海の水面にも反射して、ひたすらに眩しい。
一言で「明るい」と表現しても、街とはまったく真逆のさまだ。
山もいいもんだねぇと、隣人はまた空についての独り言を零していた。
今の季節、この時間帯の空では、どれほど背伸びをしても天の川を見ることは叶わない。もっと夜更かしをせねば春の天の川は見えないと、兄が昔そんなことを言っていたと覚えている。私たちは色んなものに影響されやすい子どもで、あの物語にもひどく影響を受けて育った。ジョバンニとカムパネルラが共に天の川の写真を眺めたように、私たちは共に望遠鏡を覗いた。
なんて懐かしい記憶、とその懐古の念を締めくくり、私は隣人に視線を送った。
「……本当、こんな危なっかしい道を、真夜中に通るなんて」
「はは、心配かけて悪いね。あと少しで崖から逸れるから、それまでの辛抱だ」
星灯りがあるだけマシとはいえど、それは視野の確保が充分であるという意味ではない。舗装もガードレールも街灯も無いような道を、ほぼ車のヘッドライトだけで乗り越えようとしているようなものだ。
ラジオの電波は入ってこず、代わりに吹き荒ぶノイズが静寂を緩和していた。ずっとそれを耳にしていたら、気でも狂ってしまったのか、決して言うまいと喉元で押し込んでいたものがついに溢れる感覚がした。自分のことなのに、私にはどうにもその一瞬が止められなかった。不可抗力とはこういうものをも指すのだろうか。
「あの子の故郷の空も、こんな感じなのかしら」
緯度が違ったら天の川もここより少し早く見られたりして、と思い至ったが、そもそもその故郷がどこであるかも知らない私は、それ以上の想像ができなかった。
溜息とともに吐き出した小さな独り言を耳にした隣人はブレーキを踏んで、車は緩やかに減速し、しまいには動きを止めてしまった。彼が少し俯いて、数房の髪の束が前方へと垂れる。
「……寝なよ、モネ。夜は、悪い方にばかり考えてしまうから」
頑なにこちらを見ない。彼の少し長い横髪は、暗闇の中で僅かな揺れすらもせず、その奥にある表情を見せてはくれなかった。
彼も疲れた顔をしているのかもしれない。声が、いつもより少し幼かった。
「それもそうね」
返事をしたのが自分自身だということに遅れて気づくほど、掠れて疲れ切った声色をしていた。私も大概だ。
無抵抗で素直な肯定の返事に、それでいいと言わんばかりに再び車が前進する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます