第26話 殺したい人、殺したい時期

呑心蚕は蠱の一種であるが、通常の蠱よりもはるかに有毒で、強く、恐ろしいものである。それゆえに邪悪なものであると信じられている。


呑心蚕は名前の通り、人の心と身体を蝕む。

ひとたびそれが人の体内に入ると、宿主の血を使って糸と繭を紡ぎ始める。糸と繭の原料は次第に、血だけでなく肉、皮、骨までも栄養分として使うようになっていく。


こうして紡がれた呑心蚕糸は世界でも貴重な産物となる。なぜならば、この糸は非常に細く強靭なため、それで織られた布は蝉の羽のように薄く軽いからだ。しかも、刃物を通さず、水や火にも耐え、毒を弾き、邪気さえも祓うとされ、世に出ることの少ない伝説的なものだからだ。


だが、呑心蚕にまつわる話はすべておとぎ話のようなもので、実際に呑心蚕を見たことがある人はほぼ皆無だった。


隠影と隠雪も然り、それはただのおとぎ話に過ぎないと思っており、その存在さえ信じていなかった。


しかし、今しがた王爺は、それが呑心蚕だと言った。


隠影はすぐさま剣を抜き、夜君陵の前に立つ。


「王爺、お下がりください。」


隠雪もそれに続き、二人で夜君陵の前をふさぐ。


夜君陵はズタズタになった布切れを見て、静かに言う。


「呑心蚕は幼虫期でも強力だが、一つ嫌がるものがある。」

「何かいい方法があるのですか?」

「客院の荷物をまとめよ。馬車は庭に押し込め。」


隠影と隠雪は、命に従って行動を始める。



隠雪が残念そうに言う。


「馬がもったいないですね。」

「呑心蚕は隠れることを得意としている。馬の毛の中だけでなく、耳の中まで隠れる可能性がある。今すぐそれを見つけるの至難の業だ。残してはおけぬ。」


夜君陵は腰の後ろで手を組み、静かに月を見上げていた。月の光は冷たかった。彼だけでなくこの世の人間のように。


彼の死を心待ちにするもの、彼の命を奪おうとするもの、彼の恐ろしさに耐えなければいけないもの、数えればキリがないだろう。


大夜皇帝は、自身の延命のために、夜君陵を呪龍の贄としようとしている。したがって、彼が貢物となる21歳までは彼の命を守らねばならない。だが、それを知って彼の命を狙うものも多い。大夜国、皇帝、皇室に恨みを持つものなど数え切れぬほどいるからだ。


夜君陵を殺し、彼が呪龍の貢物としての務めを果たせなければ、皇帝はそのうち死ぬ。皇帝が死ねば皇位争いで、国はしばらくの間混乱の渦に飲まれる。

さらに言えば、次の皇帝がたったとしても、夜君陵と同じ命格を持った人間を再び見つけられる保証はない。次代の皇帝も、女性をさらってきては子供を産ませ鎮陵できる者を探し続ける。それによってまた皇室に恨みを持つものが増える。

まさに負の連鎖である。


それゆえ、夜君陵に好意を向けるものなど皆無に等しいし、平和に暮らせる日など一日たりとてない。

そして、今回は金と労力を惜しまず、呑心蚕のようなものまで持ち込んできている。それだけ相手が本気だということだ。



呑心蚕、夜君陵もとある古墳の石壁の記載を発見できていなかったら、その存在を信じていなかっただろう。それは目標の宿主が現れなければ、そこからは一切動かないが、宿主が現れると、それは突然動き出し体の中へと入りこむ。その隠密性は高く、侵入されたことに気づくことは難しく、仮に気づけたとしても対処さえも困難だろう。


石壁の記載によれば、呑心蚕を目覚めさせるには、まず純粋な処女の血を一滴与える必要がある。そのあと目標となるものの臭いをかがせることにより、目標を宿主とするようするのだ。

だから、誰かが夜君陵の所持品を盗み出し持ち去ったはずである。


このような非道な秘宝を手に入れるには、その人物もよほどの財力と地位を持っているに違いない。尻尾をつかもうにも、手をまわして偽装工作しているだろう。


だが、あの女を見つければ話は変わる。隠影が厩にたどり着く前に、何を見たのか聞き出せるからだ。しかし、問題もある。あの女は、自分のことを冷血漢と呼び、自分の生死は彼女には関係ないと言っているため、質問に答えるかわからないのだ。


夜君陵は先行きの暗さに、わずかに落ち込む。



隠影は探し出してきた油の入った瓶を、馬車へと投げ込む。それを見た隠雪が火打石を打ち合わせて油に火花を飛ばすと、ボワッという音とともに火が巻き上がる。山間にあるこの客院では風も強く吹いており、火勢は一気に強くなり、馬車全体をいとも簡単に飲み込んだ。


体に火が燃え移った馬は、恐怖のあまりかけまわり、庭のあちこちに炎が飛び火していったため、火勢は庭全体にまで広がっていく。


それを見た夜君陵は、隠影に木嘉を回収するよう指示を出し、自身は華池に向かって飛び出していった。


この火勢によってできた明るさと煙により、仙気門にいた者たちに徐々に混乱が訪れる。


「火事だ!火を消せ!」

「火の方向は偏院(夜君陵の宿泊地)の方で、今は誰も住んでいないはずです。」

「何を言っている!あそこには今日は鎮陵王が泊るよう手配されているんだぞ!」

「そんな馬鹿な!急げ!急いで火を消すんだ!」


火事の知らせを聞いた南立松は驚いた表情で立ち上がる。横で聞いてた皇太子も、今の今まで会話を楽しんでいたが、様子が急変する。


「もう一度言え!鎮陵王が泊っているところで火事だと?早く助け出せ!まだ彼には死んでもらっては困るんだ!鎮陵王には重い責任がある。絶対に生きて助け出せ!」


”くそ!くそっ!あいつが死んだら、かわりなんて簡単には見つからないんだぞ?大夜皇朝の呪いが解けないじゃないか。皇帝になって死ぬなんてごめんだ!

あいつには死んでほしいが、今ここでじゃない。しかるべき時に、皇陵で、呪龍の餌になって死んでくれ。”


「急げ!早く火を消すんだ!」

「鎮陵王を助け出せ!」


仙気門門主である南立松は焦りを顔に出しながらも、大急ぎで配下を集め偏院に走っていった。彼の頭の中には、鎮陵王との婚約破棄するつもりはあったが、彼を殺す予定はなかった。当然ではあるが、鎮陵王の命は皇帝の命、さらに言えばこれからの大夜皇朝の先々の皇帝の命運までかかわっているのだ。ある意味皇帝の命の価値よりも高いと言っても過言ではないだろう。


立松の視点で言えば、門弟と侍女すべての命をあわせても、鎮陵王一人の命には全く見合わない。仙気門で彼の身に何かが起きれば、門の未来は完全に消え去ることになる。それを思うと、立松の胸の内には不安しか残らなかった。


消火作業の最中、門主夫人が侍女を引き連れて駆け回っているところに出くわす。自分の夫の凍り付いた表情を見て、あわてて側に駆け寄り小声で尋ねる。


「旦那様、何かをお命じになりましたか?」

「黙れ!」


自分の妻の機転の利かなさに、立松は声を荒げる。周囲には門下の者だけでなく、貴賓の配下の者も多数いる。聞かれては困るような質問をここでしてくる妻が、立松には全く理解できなかった。


ここで皇太子に、仙気門が鎮陵王を殺そうとしていると思われたら、門がどれほど権力と財力を持っていようとも、皇軍の圧力には耐えられない。

先ほどの妻の言葉から、浅慮の上何か馬鹿なことをしでかしたのでは?という疑問さえ浮かび上がる。


ふと、あたりの混乱の中から、錦の衣装を着た数人の若者が急ぎ足でこちらに向かってくるのが見える。

立松は、彼らを迎えるべく足を向ける。


「来賓の皆様にはご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません。火事が発生した場所は偏院ですので、こちらまで被害は及びません。宴は予定通りに開催いたしますので、安全な場所でお待ちください。」


先頭に立っているのは、顔が白翡翠のようにきれいな顔をした男子で、立松の言葉を聞いた彼はかすかな笑みを浮かべながら、春風のような柔らかい口調で尋ねる。


「南門主、火事が発生した偏院は、大夜鎮陵王爺が泊っている場所だと聞きましたが、鎮陵王にお怪我はありませんか?」


南立松は、自分の心臓の鼓動がさらに早くなるのを感じていた。

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