第25話 怪しい虫

その瞬間、南离はあの虫を見つけていた。背もたれにつけてあった布と羽毛の中ではなく、馬車の壁に張り付いていた。今ならその姿がはっきりと見える。頭が最も大きく、体は金色、体長は2㎝ほどで、尻尾は髪の毛のように細かった。だが、なぜかその細さにもかかわらず、曲げれば鎌のように硬く鋭く、そして、血のような赤い色をしていた。


前世でも現世でもこのような怪しい虫をみたことがなかった南离は、それに向かって警戒度を高めた瞬間、その虫とは反対方向、彼女の背後から恐ろしい殺気を帯びた剣気が迫ってきた。


迷うことなく手に持っていた背もたれの布を後ろに投げつけると同時に、逆方向に転がるように移動する。もう片方の手に持っていた布を丸めて、あの虫の始末にかかる。最優先すべきは、あの怪しい虫を潰してしまうことだ。


虫を押しつぶそうとしたが、南离は嫌な予感がしてすかさず手を引っ込める。その瞬間、手から離れた布がズタズタに引き裂かれる。引き裂かれた布の後ろから現れたのは、あの虫の鎌のようになった尻尾だった。


南离の目が驚きで丸く見開かれる。


”たかだか虫のくせに強くない?私で倒せる?”


背後にいる殺気の主も黙ってみているわけではない。再び剣気が南离に向かってくる。虫のことは一時諦めると、馬車の壁を蹴って窓から外へ飛び出す。窓枠の上側を掴んで体を背面宙返りさせると、馬車の屋根へと飛び乗る。


やっと殺気の主の姿を目視できた。夜君陵の側近だった。主に対する善意を踏みにじられた南离は、顔を見られぬよう袖で口と鼻を覆いながら、怒気を含んだ声で叫ぶ。


「ちょっと。あなたの主のためにやったのよ?誰かがあなたの仕える王爺の馬車に虫を入れたのよ。姑奶奶(気が強い女性が自称に使う言葉)は彼のために虫を捕まえようとしてるのよ!」


「それを信じろとでも?」

隠影は馬と馬車をつなぐ軸の上に飛び乗ると、剣を向けて感情のこもっていない声で答える。


「信じるか信じないかは勝手にしなさいよ。あの虫は体長が指半分くらい、豆粒のような目に、ぼやけた金色の体、尻尾は赤く鎌のような形にもなる。鋭さは、中に散らばってる布を見ればわかるから、自分で確認なさい。もう付き合いきれないから、さっさと消えるわ。あの冷酷漢の生死なんて知ったことじゃない。」


そういい捨てた南离は馬車の屋根を飛び降りると、厩から出て闇に消えていった。


隠影は追いかけようとしたが、馬車の中に散らばる布を見て追走を断念する。彼女の言った通り、ズタズタに引き裂かれた布があったからだ。


簡素な客院の入り口で、木嘉は震えながら脇に立っていた。その顔はここに来る前と違って、頬が腫れあがり目も半分以上ふさがっている。あるべき美しさは残されていなかった。


本来であれば、立派な客院の周辺には別の客院も林立しており、仙気門が用意する小ぶりの馬車で移動する。しかし、夜君陵の泊っている辺鄙な場所にある客院は孤立しているため、彼の大きな馬車がはいってきても、その音に文句を言うものはいなかった。


予想以上に馬車の戻ってくる時間がかかっていたため、苛立ちを隠せない隠雪が、馬車が止まるのも待たず怒声を向ける。


「何やってたのよ?王爺をこんなに待たせるなんて。ただ馬車を取りに行くだけじゃない。」


夜君陵は、厳粛な表情をしている隠影を見て、目が一瞬光る。

「何があった?」


隠影が木嘉を一瞥すると、夜君陵は追い払うような手ぶりをする。流れるような動作で木嘉に近寄った隠雪は、彼女の睡穴をつくと、あっという間に彼女は気絶し、その体を隠雪に受け止められる。


「話せ。」


隠影は御者席から飛び降りると、剣の鞘で帳を上げ、主に中を見せる。


「王爺、ご覧ください。」


中は散らかっており、背もたれの布がことごとく引きはがされていた。

夜君陵は目を細めて中に入ろうとしたが、隠影が腕を伸ばして主を制する。


「王爺、属下が厩に着いたとき、馬車の中に一人の女がおり中を破壊していたので、属下は殺そうとしました。しかし、彼女は、誰かが馬車に虫を置いていったため、王爺のために虫を捕まえようとしていた、と言っていました。」

「彼女の言葉を一言一句そのままに復唱できるか?」

「はい。」


夜君陵は馬車の中の様子を見ながら、吊り上がった眉毛をひそめる。

隠影は、主の命の意図がわからなかったが、自分の記憶を振り返り始めた。当時の状況を踏まえながら言葉を思い出していると、ふと彼女が自身のことを姑奶奶と言っていたことが気になった。


夜君陵は隠影の様子を見て、静かに言う。


「遠慮はいらぬ。そのまま話せ。」


隠影が彼女の言葉を綴る。


「ちょっと。あなたの主のためにやったのよ?誰かがあなたの仕える王爺の馬車に虫を入れたのよ。姑奶奶は彼のために虫を捕まえようとしてるのよ!」

「属下は信用できないと言いましたが、彼女は」

「信じるか信じないかは勝手にしなさいよ。あの虫は体長が指半分くらい、豆粒のような目に、ぼやけた金色の体、尻尾は赤く鎌のような形にもなる。鋭さは、中に散らばってる布を見ればわかるから、自分で確認なさい。もう付き合いきれないから、さっさと消えるわ。あの冷酷漢の生死なんて知ったことじゃない。」


先ほどまで隠影に向けられていた隠雪の怒りの矛先が変わる。


”姑奶奶だと?王爺の馬車と知りながらの狼藉だけではなく、自分を姑奶奶と名乗るとは!しかも、王爺を冷血漢よわばりとは、死にたいのか?”


「王爺!属下が行ってあの女をひっ捕らえてまいります。」


そう言いながら自分の主へと顔を向けた隠雪は、唖然とした。彼の瞳は深くまで澄み渡り、星がきらめくように輝いていたからだ。今までこのような表情をした主を見たことがない。まるで、なかなか見つからない探し物を探し当てたような表情だ。彼の体も生き生きと躍動しそうに見えた。


その表情をもっと深く観察しようとしたが、夜君陵の顔はすぐにいつもの冷静なものへと戻ってしまう。


”何かの見間違いか?”


と思っていると、淡々とした声で夜君陵から命が下される。


「命を与える。あの女を探せ。この仙気門のどこかにいる。」

「御意」


続けて隠雪が確認するように質問する。


「王爺がおっしゃっているのは、前回探せと命じられた女のことですか?それとも馬車を壊した悪女ですか?」

「隠雪。」

「はい。」

「本王はお前に言ったことがなかったか?日ごろから脳にいい食べ物を食べろと。」


隠雪が不満そうな顔をする。


「属下の頭が悪いのでしょうか?もしかして、あの二人は同一人物だということですか?」


「そうだ。配下の者をすべて仙気門に呼べ。全力で探すのだ。その本王の、、、」怖い目をしながら、夜君陵は続ける。

「姑奶奶を」


隠影の一字一句復唱された言葉を聞いた夜君陵には、それがあの女であることがすぐにわかった。あんな口調で話す女など他にいるはずがない。それにしても、まさか逃げずに仙気門に隠れたとは予想できなかった。いい根性をしている。


「姑奶奶か、、、」

自分の身の回りで、自ら姑奶奶と呼ぶ女は初めて出会ったと夜君陵は思った。


「王爺、あの虫は、、、」


隠影はとりあえず馬車を持ってきたが、何気に彼女の言葉を信じたのか、馬車の中を調べていなかった。


夜君陵は、ボロボロになって中に散らばる布切れの1枚を手に取ると、表情が変わる。


「呑心蚕」

「これが呑心蚕なのですか?」


隠影も隠雪も驚く。

呑心蚕、蠱(毒虫のこと)の一種である。

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