第24話 往復びんた
南离はただ「まばたき」を1回しただけだった。その刹那の間に、あの双眼は姿を消した。
ほんの一瞬で移動できる先は、目に見えている柔らかい背もたれの布の中だけだ。相手が小さな虫だとしたら、背もたれ1か所の中を探すだけでもこの暗闇の中では一苦労だ。
それにしても、この虫の役割は何なのかいまだにわからない。
この虫らしきものが夜君陵のものである可能性も考えた。だが、あの冷酷無比な彼が小さな虫を飼っているとも思えない。しかも、瓶や篭の中ならともかく放し飼いにすると思えない。
あれがこの馬車がここについてから入り込んだ可能性も考えたが、あれが放つ異様な雰囲気はおかしすぎる。さらにはこの馬車の中から虫除けの香りもしている。
あの二人組が仕掛けていったもの、それはあの虫らしきものだと南离は確信した。
本来ならば、南离はこの機会に皇太子の馬車から装飾の宝石をごっそりといただくつもりだった。だが、あれを今ここで放置して夜君陵が馬車に乗った時に、彼の身にどんなことが起きるのか全く予想できない。
南离は葛藤していた。もうこれ以上夜君陵との間に貸し借りを一切作らないと決めていたからだ。作ればどこかで顔を合わせることになると思ったからだ。ここで助ければ彼に貸しを作ることになる。
”絶対に会わないって決めると、逆にこうなるのよね、、、まったく。”
南离は馬車を降りてからも迷っていた。ここで手助けをしても夜君陵が借りを返してくれる保証はない。さらに言えば、褒美代わりにいただいた(隙をついて盗んだ)翡翠の箱も自分の手にあるから、それを狙って自分を追ってくるかもしれない。
”やっても、損な役回りよね、、、”
その時半日前の記憶が南离の頭をよぎる。
夜君陵が蛟棺から迷うことなく水へと飛び込む光景だ。自分の気持ちを押し殺すように、南离の口元がぎゅっと引き締まる。
”ま、いっか。”
自分の気持ちの重さとは裏腹に、軽い気分でやるべきことの順番を変える。
彼女は馬車から離れると、街灯柱にするすると登り、ぶら下がっている灯りを取り外し、馬車の中に持ち込む。中の視界が一気に広くなる。
「こうなったら絶対見つけてやる!」
南离は袖をまくって、あの豆粒目玉を捕まえる気合をいれた。
南离が馬車の中で奮闘している頃、辺鄙な客院に招かれざる客が現れていた。
夜君陵は目を吊り上げ、2本の眉毛を小刻みに動かしながら、相手をじっと見ていた。見た目だけならばその整った顔立ちは、行き交う人を魅了できるほどのものだがその出生と運命、そして風評を知れば、近寄るものは皆無となる。当然のこと、来客も然り。できることと言えば、無意味に早くなる鼓動と恐怖を無理矢理抑え込むことくらいであった。
故意にせよ事故にせよ、鎮陵王を一度怒らせれば相手は必ず死ぬ。鬼王の殺戮と暴力を知らぬものはいない。
そのことを重々理解している木嘉は、慎重に軽く膝を曲げ、お辞儀をした。
「仙気門怡然坊幹事木嘉、王爺にお礼を。」
名乗り終わるのを待たず、夜君陵は突然袖を振り、強烈な力を木嘉の膝に向かって飛ばす。彼女は両ひざが痺れ、体を支えることができずその場に跪く。
床は御影石でできており、無理矢理跪かされた衝撃で膝を強打した木嘉は、思わず涙ぐむ。
「本王は皇室の一員のはずだ。膝をつかぬ礼など礼にもあたらぬ。お前の目の前の男は崇拝に値しないとでも、思っているのであろう。」
夜君陵の声から、冷え切った怒りの感情が読み取れる。
”ふん。仙気門の怡然坊だと。くだらぬ。矮小な女幹事が来たと思えば、見惚れ、簡素な礼をし、目に恐怖を浮かべる。何をしにきたのかわからん。”
「木嘉、恐れ入ります。」
「お前の名は木嘉というのか?」
「はい。」
夜君陵は感情も込めず冷たく言い放つ。
「隠雪、往復びんただ。2往復。」
短く返事をした隠雪は足音もなくスッと木嘉の目の前に止まる。無駄のない動きで手を上げると、肌を叩く音が4回響き渡る。あまりにもきれいに振りぬかれたせいか最初は何も変化がなかったが、10秒もすると木嘉の頬が一気に腫れ上がる。
木嘉の心の中は怒りと恐怖が混在していた。鎮陵王が暴力的だという噂をあまり信じていたなかったため、この状況が予想できなかったからだ。
混乱の最中、再び夜君陵の冷えた声が届く。恐怖も相まって心臓を握られているような感触だった。
「自分の過ちが何かわかるか?」
「木嘉にはわかりません。」
彼女は本当にわかっていなかった。
「あと2往復だ。」
夜君陵の言葉に涙があふれる。怒りや恐怖ではない。今度は屈辱だ。
彼女は長年、仙気門で制香と華池(香草を入れた風呂)を管理する幹事を務めてきた。彼女の人並み以上に整った容姿も相まって、門の仲間にちやほやされることは多々あったが、このような侮辱や暴力は受けたことがなかった。
「王爺!」
木嘉は頭を上げて弁解をしようとしたが、その間もなく目の前にいる隠雪から無情な掌が飛んでくる。再び響く肌を叩く音が4回。
隠雪は日ごろから鍛錬を積んでいる。手首の使い方も十分に熟知しており、びんたと言えども威力は相当なものだ。木嘉の顔は元の姿がわからぬほど腫れ上がっていたが、それでも気絶もせず意識を保っているのは、自分の任務のためか、それとも屈辱に耐え忍ぶ気持ちの強さなのか、本人さえもわかっていなかった。
「幹事だと?お前は婢女(目下の人が名乗る一人称。名乗るのが失礼に当たる場合に使われる。女性用。)であろう?その婢女が本王の前で名乗ることなど、誰が許したのだ?」
夜君陵の木嘉を見る視線はいまだに冷たい。あたかも道端に転がる石を見ているようだった。
”この様子だと、仙気門は自分と一戦交えるだけの準備ができているのであろうな。さしあたっては、面子でも潰しに来たか?”
「私はあなた様の婢女にございます。どうかお許しを。」
木嘉はいつ死んでもおかしくない状況に恐怖し、跪いたまま毛一本すら動かせず硬直していた。
「わかればよい。本王もそこまで理不尽ではない。お前にも機会を与える。言ってみよ。何しに来た?」
「王爺は、貴、貴賓。」
「ん?本王に貴賓という言葉を出そうとしたら、お前は口がまわらなくなった。ということは、お前は心の中では、本王に貴賓という言葉を使いたくないのであろう?」
「い、いいえ。この婢女めは、け、決してそのようなことは思っておりません。」
木嘉はこの期に及んでそんなつもりは一切なかったのだが、強烈なびんたに口が思うように回らなかったのが災いした。
「そうか。本王は貴賓。それで?」
夜君陵の雰囲気が幾分落ち着く。揺り椅子に深くもたれかかり、気が少し緩んだようだ。
「この婢女めが担当いたしますのは仙気門の制香と華池ですので、王爺の風呂のお好みを伺いにまいりました。よろしければ、お香のご要望も承ります。」
口を動かすたびに頬がひどく痛むが、それを気にしている場合ではない。少しでも発音をしくじればまたあのびんたが飛んでくると思うと、気が気ではなかった。
「お?華池があるのか?」
「華池は仙気門の天然の温泉でして、この山でも最も月に近い場所にございます。華池、月見、そして、門の特産である果実酒を同時に楽しむのは、当山の仙人でも憧れるほどのものでございます。貴賓であらせられる王爺には、門主より、宴の前に華池に入り、旅の疲れを取っていただくよう命じられております。」
夜君陵は表情では笑っていたが、心の中では笑う気持ちは一切なかった。
「門主の指示か。」
「はい。」
「いいだろう。行こう。」
夜君陵は迷うことなくスッと立ち上がるが、木嘉が慌てて声をかける。
「申し訳ありませんが、華池は裏山にありますので、歩きでは行けません。馬車でお連れしますが、王爺の馬車でいらっしゃいますか?当門の馬車もご用意できますが。」
「本王は他所の馬車を使うのを好まない。隠影、馬車をだせ。」
「はい。」
隠影が厩に向かった頃、南离は馬車の壁に当てつけられていた布を、すべて引きはがしていた。あの虫らしきものをかなりの時間をかけて探していたが、姿はおろか痕跡さえ見つかっていなかった。だが、なぜか彼女は本能的に、あれがまだ馬車の中にいると確信していた。
その時、キンという音とともに、一条の光が勢いよく中に差し込んできた。そのあと、誰か怒りのこもった声が聞こえてくる。
「王爺の馬車を壊すとは、不届き者め。領死!(「死を覚悟せよ」の意)
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