第18話 本王の婚約者
夜君陵が衛兵に命を下し馬車が走り出すのを、南离は近くの木陰で見ていた。その姿が見えなくなるのを確認すると、力が抜けたようにその場に座り込み、大の字になって一息ついた。
彼を解毒してからも大変だった。出口になる仕掛けを見つけだし、自分よりも二回り以上大きい体の男を抱えて脱出したのだ。
もちろん、命を救った褒美はしっかりといただいている。相手は気を失っているから、蛟棺の中身をもらうことにしたのである。
南离は確認するように、懐から翡翠で作られた箱を取り出した。手のひらに収まる大きさで、厚みのない平べったい形をしている。素材はしっとりと濡れているようにも見える翡翠で作られており、継ぎ目が一切ない。おそらくかなり上等で相当な大きさの翡翠を削り出して作ったのだろう。製作方法、仕掛け、材料に至るまで素晴らしい技術を詰め込んだものであることは間違いなかった。
南离が特に興味を持ったのは仕掛けだった。体力が戻ったらゆっくりと研究するつもりだ。自分に解けない仕掛けなど存在しないはずだ。
箱以外にも、棺の底に敷かれていた絹の布を手に入れていた。絹とは言ったもののそれが何でできているのかよくわかっていないが、薄く滑らかでシルクに似ており、かといってシルクのように触るとひんやりした感触はなく、逆に温かみを感じる触感だった。薄着一枚でも寒さをしのげそうだ。
そういう意味では夜君陵はついていた。彼の服は自身の血とあの怪しげな水でびっしょりと濡れていたため、手に入れた布の一枚を服の代わりに巻いておいたからだ。
”ちょっとでもいいから、恩に着てくれるといいんだけどね。いや、二度と顔を合わせない方がいいか。”
あの男はある意味高い人間性と危険性を併せ持った人間である。そういう輩と絡むのはいい選択ではない、と南离は考えていた。
今彼女がやるべきことは自分の身分を確保することである。
色々やることはあるけど、まず寝床と食事は何に変えても必要だ。求める水準は高くなくていい。例えば、足の悪い父親とか目の見えない母親でも構わない。まずは定住できるところを見つけなければ。
しばらく横になったまま体力をそこそこ回復させた彼女は起き上がる。彼女が穴に落ちたのは早朝だ。今はもうすでに夕闇が広がり始めている。今日はひどく長い一日だったが、さっさと動き出さなければ、どんな危険が待ち受けているかわからない山の中で、野宿をする羽目になる。
南离は考えた。夜君陵の追っ手を避けるために逆方向に逃げるのは愚策だ。いっそのこと懐に入って第一波をやり過ごしてしまえば安全が買える。さらに言えば彼女はこの地域に全く馴染みがないのも問題だ。人里にさえたどり着ければなんとかなる。
馬車が立ち去ってからの時間を考えれば、もうすでにある程度の距離は離れたはずだ。一定の距離を保ちながらついていけば安全だろう。さっそく彼の馬車の車輪の跡を探し始めた。
馬車の痕跡をたどりつつもその視線を上に向ければ、美しい山々と森が広がっている。ただ、だまされてはいけない。そこには虎を始めとする危険な動物、さらには迷甜花がたくさんある。あの毒はもう懲り懲りだ。見た目だけの場所に長居したいとは思えず、南离は足を速めた。
1時間もすると山林の麓にたどり着く。その視線の先には平らな道をゆっくりと走る馬車が一台あり、それを見た南离は口を尖らせる。
”ちょっと甘やかしすぎじゃない?毒も抜いたし、怪我は大したことない。さっさと進んでよ。危うく追い抜いちゃうところだったじゃない。”
馬車が進む先には、今彼女が下りてきた山とは別の山があり、山頂まで道が伸びている。山道の幅は広く整備されている。それなりに交通量があるのだろう。道端の花は満開で、その花と戯れるように色とりどりの蝶が舞っている。山頂には薄っすらと雲がかかり、そこに夕日がさしこんで幻想的な風景を彩っていた。
その美しい景色を独占するかのように、山の頂上には宮殿が見える。現代人の南离にすれば、まさに仙人が住んでいそうな雰囲気をだしている。それもそのはず、なぜか建物のあちこちに霞がかかり、蜃気楼にも見えるからだ。
宮殿の前には一段高くなっているところが広くとってあり、花で埋め尽くされている。そこから12本の白翡翠の柱がそびえたち、それぞれに金色の龍が巻き付いていて、今にも夕暮れの空を駆け上りそうな様相を呈している。
”えっと、これって何?世に言う仙境ってやつ?古代の人ってすごくない?こんなところに住んでみたいわ。”
幻想的な光景に唖然としながらも、よくない直感がはたらく。
”まさか、夜君陵の宮殿じゃないよね?”
そんな勘を心の奥にしまい込み、南离は現実に立ち返る。
当初の計画では、夜君陵の領地に忍び込み、ひとたび群衆の中に紛れ込んでしまえば、住処が見つかるだろう。そうなれば夜君陵に見つかることもない。
ただ、今自分の視界に見える人工物はあの宮殿だけ。今夜の寝床と食事にありつくには、とりあえずあそこに忍び込むしかないのだ。
朝から動き続け何も口にしていない南离は、すでに空腹の限界を迎えていた。
”ここで悩んでいても時間の無駄ね。とりあえず忍び込んで何か食べよう。そのあと服。他のことはあとで考えよう。”
そう気持ちを切り替えると、さっと行動に移る。
森の木々、岩陰、山肌の起伏をうまく利用しながら馬車をつけていく。
宮殿前の巨大な花壇にたどり着いて初めて、その壇の手前に大きな石が鎮座しているのが見えた。その石には迫力のある字体でこう書かれていた。
「「仙気門」」
南离は自身の記憶を探った。
”もしかして、今朝暗殺者がいってた宗主の夫人ってここの人?”
彼女を殺そうとした女。いや、正確に言えば暗殺は成功した。あの彼女はもうこの世にはいないのだ。あの女は残りの余生の安泰を確信しているだろう。
”させるものか!”
やられたらやり返す。それが南离の座右の銘ともいってよい。この仙気門に徹底的に復讐してやらないと、この身体の持ち主だった彼女に申し訳が立たないとも思った。
前を走っていた夜君陵の乗る馬車が止まった。
御者席に座る黒服の衛兵が背筋をしっかり伸ばし、腹の底から遠くまで声を響き渡らせる。
「鎮陵王のお成りー!」
その声が聞こえなくなりそうになったとき、12龍柱それぞれの後ろから、襟に刺繡の入った白い衣装を着た秀麗な若者たちが現れた。背丈、体形、見た目のそのすべてがほぼ一緒で、服装もそろえられ、頭には白翡翠の冠をかぶっていた。顔立ちも繊細優美で、優雅な立ち振る舞いで馬車の方にやってくる。
南离は自分では面食いだと思っているが、このような「仙人を気取った」少年たちには全く興味がわかなかった。
”やっぱり、好きになるなら格好がいいのは当たり前、年上の男よね。”
ゴーーーーン
荘厳な鐘の音が鳴り響く。その音はさほど減衰もせず遠くまで届き、仙気門全体に鳴り響いた。
”どんだけ見栄を張ってるのよ。お偉いさんのやることはよくわからないわ。”
「仙気門、鎮陵王を歓迎いたします。」
12人の「仙人が」手を合わせ、一様にお辞儀をし、一様に挨拶した。
馬車の中から夜君陵が、極寒の冬を思わせる冷たい声で彼らに言った。
「こんな女々しい奴らにお辞儀をさせて、相変わらず仙気門は胡散臭いところだな。歓迎する気があるなら、本王に跪け。」
その言葉に思わず南离は吹き出しそうになるが、すんでのところでこらえる。
同時に、馬車の中から広がった強烈な内力に12人の「仙人」は耐えることができず、彼の言葉通り跪く。
”見栄ばっかり張ってるからこうなるのよね。みっともない。それにしても、夜君陵は道場破りにでも来たのかしら?あんな線の細い子ばっかりじゃ、準備運動にもならいでしょうに。”
南离がそう思っていると、さらに後ろから淡い緑色の人影がふわっと浮かび上がり、少年たちの前に音もなく着地する。幅広の袖を振るとあたりを覆っていた内力が霧散し、少年たちは呪縛から解放される。そろって安堵の息をつくのもつかの間、立ち上がるや否や恨みのこもった視線を馬車に向ける。
”え?古代って、皇家は絶対権力じゃないの?”
彼らが王爺に跪くのはわかる。そのあとの少年たちが反意の目を向けたのが不可解だった。現代に伝わる古代社会では、そんなことをすれば即死罪である。興味のわいた南离は、中に忍び込むの後回しにして、木陰でこの見世物を楽しむと決め込んだ。ついでに言うならば、今は「観客」も多く、こっそり入るのにも不都合だということもあったが。
後から来た男は痩せているものの長い髭をたくわえ、着ている服、気品、風格は仙人を思わせるに十分であったが、唯一吊り上がった鋭い目つきだけがすべてをダメにしているように見えた。
「鎮陵王、来て早々に仙気門の者に圧力をかけるとは、いかがなものでしょうか?」
「理由などない。本王はただ、形ばっかりもっともらしく振舞っているだけの態度が気に入らんだけだ。」
夜君陵は冷え切った声でさらに続けた。
「話によると、16年間出来損ないのままだった本王の婚約者だが、今日、悟りを開くと聞いた。誠か?」
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