第17話 いなくなった女
夜君陵は動けない、いやすでに動けなくなっていた。
自身に迫る魚の群れは、すでに目の前まで来ている。
なぜか生まれつき死に対して敏感な夜君陵は、人生で初めて自身に死神が近づいてきていることを感じた。
それでもなお、彼は歯を食いしばり南离を急かすことはしなかった。それが最も自信が生き残るための最善の選択だと信じたからだ。
少しでも長く生き延びるために、全身に内力を行き渡らせ身を縮める。突如、鋭く尖ったものが背中の傷口に刺さったような痛みを覚える。今までに感じた痛みよりも強烈だった。内力の防御は意味をなさず、痛みは神経をえぐる。
「夜君陵、手を出して!」
南离の声を聞いた夜君陵はすかさず手を伸ばした。
手は力強く引っ張られ、体全体が自ら引き上げられる。全身に行き渡らせた内力が切れたのか、それとも緊張が解けたからなのか、彼の身体は南离に覆いかぶさるように倒れる。
南离は、既に開かれた第2層の蓋を死体とともに水に蹴り飛ばした。
”この女は本王の期待に応えた。”
一瞬の差が生死を分けるこの状況で、彼女は棺を開けた。しかも、緊張を解かず自身を水から引き揚げることを忘れなかった。先ほどまでこの身に感じられていた強烈な死神の気配が嘘のように消えた。
ただ、この時、夜君陵は身体の半分の感覚を失っていた。麻痺は顔面にまでおよび、話すことすら差支えのある状態にあった。
「夜君陵、この棺の中に死体はなかったよ。」
棺を開けた結果昇降機の仕掛けが止まったため、すぐさま蓋と死体を押しのけ彼の身体を引き揚げたのだった。第2層を開けた先は空だったが、幸いなことに下には上質な絹の敷物が何層にもわたって敷かれており、二人の疲弊した体に休息を与えるのに十分なものだった。
安心できる状況にも関わらず、彼の反応が返ってこないことに気が付いた彼女は、やっと彼の異変を理解する。彼の傷口に触れようとしたが、すぐさま彼の手に阻まれる。
「触るな。何かが入った。」
「水の中にいた生き物?」
「そうだ」
夜君陵は、自分に水に入るなと言っていた。その原因が何かわからないがそのせいだろう。彼の実力をもってしても、防げなかったのか。
「体中の感覚がほとんどないのよね?」
「そうだ」
彼女の手を掴む力は強烈なものだった。そうでなければ、こんなに強く自分の手を掴む必要はなかった。
南离の心の闇が、彼女自身を笑わせようと誘惑してきた。こんなおいしい状況ないわよ!と言っているようだったが、繊細で柔らかく、甘える子犬のような声で彼女は言い放った。
「じゃ、私がとどめを刺さなくても、あなたは死ぬかもしれませんね。王爺、あなたは私を何度も殺そうとしてましたけど、私より先に死ぬのはどんな気分ですか?教えてください!」
南离が空いた手で彼の胸を撫でると、麻痺したはずの彼の身体に力がよみがえる。
「気息奄々の本王に何を望む?これ以上侮辱するなら、化けて出るぞ。」
「王爺、何を言うんです?あなた様は俊美不凡。死なせるわけないでしょ?」
言い終えるや否や、南离は夜君陵の体を引き起こし、彼の背中を棺の壁に押し付けつつも、彼の両足の間に片膝を滑り込ませる。
この時周囲が暗かったのはどちらにとって幸運だったのだろうか。
身分も知れない女の足の上にまたがって、辛うじて立っているという恥辱に、彼の表情は真っ黒になっていたからだ。
「お前が本当に女なのか、いまだにわからぬ。」
「ったく、王爺は純粋ですね?あ、もしかして童貞?あそこを触ったことのある人、何人い、、、」
「黙れ!」
”破廉恥。不埒。不届き者。”
夜君陵は顔だけでなく耳まで真っ赤に染まっていた。
南离はクスリとわずかな笑みを浮かべつつ、彼の体を棺の壁にしっかりと押し付けるように、さらに自身の体の重みをかける。
「これからあなたを助けます。さっき思い出したんですが、蛟棺の蛟頭は毒を吸い出す仕掛けが仕込まれてます。」
「あ?」
「私を信じますか?」
彼女はこの真っ暗闇の中なぜか自慢げな表情をしていた。どうせ見えてないだろうと思っていたが、夜君陵が暗視できることを失念していた。
夜君陵にしてみれば彼女の表情は、大人を少しでも驚かせてやろうと自分の成果を誇張する子供のようにも見えたが、その顔は見れば見るほど愛らしかった。
「これは蛟棺の作りの裏側です。劇毒を仕込んだ以上事故が起きた時の保険なんでしょう。私も他人から聞いただけなので詳しくはわかりません。10分の保証はできませんが、試す価値はあります。」
それを聞いて夜君陵の気がさらに遠くなる。
結局、彼女も人から聞いただけで確信が持てていなかったからだ。
夜君陵は体の痺れにこらえつつも言った。
「本王を下ろせ。」
「私の膝を抜いて立っていられますか?」
棺の深さは1m以上あり、下手に彼が座り込んでしまえば、壁の上端にある蛟頭が傷口に届かなくなってしまう。傷口を蛟頭に近づけなくては意味がない。
夜君陵が言い返そうと瞬間、背中に何かが食い込み強烈な痛みが襲ってくる。
目の前には自分を心配する、身分も名前も知らぬ不埒な女。その光景を最後に彼の意識は暗闇に落ちた。
「王爺、王爺?」
不安そうな声を聞きながら、彼は昏睡状態から目を覚ました。
衛兵が前に出て彼を支えようとするが、すぐさまいつもの冷え切った表情に戻った主の表情を見て、慌ててその手を引っ込める。
「王爺、今あなた様は背中に酷いけがを負っていらっしゃいます。今しばしお休みください。」
夜君陵は確認するように、目を細めながら周りを見回した。
自分の馬車の中だった。いつもと違うのは、床に柔らかい敷布団が敷かれ、底に寝かされていたこと。しかし、内装はいつもと同じ、花と鳥が彫刻されたいつもどおりのものだった。
「彼女は?」
衛兵は主の言葉の意味が分からず聞き返した。
「彼女とはどなたのことでしょう?」
「あの女はどこへ行った?」
夜君陵は不機嫌になりつつももう一度聞いた。
自分は気絶していた。ならば、彼女はどうやって自分を運び、どこへ行ったのだ。
「王爺、我らがあなた様を発見した時には、周囲に誰もおりませんでした。」
彼は手をやって傷口に触れてみた。傷口は治療され包帯で巻かれていた。服さえもびしょ濡れになった自分の服ではなく、着替えさせられていた。
”この布は?”
夜君陵は着ている服を見て唖然とした。服ともいえぬその布は、明らかにあの蛟棺の底に敷かれていたものだった。それが乱雑ではあったもののしっかりと彼の体に巻き付けられていたのだ。
”あの女以外にこんなことをできるやつはおらぬ。
あのふしだらな女に、自分は素っ裸にされ、全てを見られたのか?しかも、棺の中のものはどこへいった?”
羞恥、恨み、欲望がこみ上げる中、彼は声を荒げた。
「衛兵!」
彼は腹の底から雄叫びをあげるように命令した。
「探せ!
年は16から19歳。体は細く目がとても美しい。そして、立ち振る舞いがとてつもなく不埒な女だ!」
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