第16話 閃きと信頼

「すぐに棺を降りてください。水面にたどり着く前に私が棺を開けます。」


今となっては第2層を開けて放り出すことで毒を回避するしかない。近くに蓋が落ちたとしても筏にもできる。まさか第2層の裏側まで毒は塗っていないだろう。


この提案は夜君陵が同意してくれなければ意味がない。彼女の作業する空間がないからだ。加えてここは罠だらけの墓地だ。水中が安全だという保障も全くない。


「成功する公算は?」

「5割」


それを聞いた夜君陵は迷うことなく飛び降りた。背中の重みがふっと消える。


凡のものならこれほど素早く決断できるものはまずいないだろう。迷えば迷うほど生き残れる可能性はどんどん下がる。


5割と答えたこと、これは事実である。蛟棺に対しては彼女も実際に見るのは初めてで、こと仕掛けに対して天才的な彼女であるが、真っ暗闇の中記憶だけで解除する必要があるのだ。

今の彼女はなぜか頭の中が冴えわたり、極度の集中状態にあった。これが答えの理由だった。


「全力であたれ!手を抜いたら殺す!」


”え?ほんとに飛び降りたの?信じてくれた?”

その事実を証明するかのように、彼が水面にたどりついた水しぶきの音が聞こえてくる。


彼女は理解した。脅しのような一言を彼は残して降りたが、この男は強い精神力、意思、判断力、行動力がすべて備わっていると気づいた。指導者が指導者足りうる能力を持っていると。


彼はわかっていた。彼女の提案が今の状況を打破するのに最善の方法であることを。だから彼が彼女に従った。女であろうと、知り合ったばかりであろうと関係ない。これまでの彼女の行動は全て見ている。あとは自分の判断を信じるのみだ。


南离は自分を信じてくれた彼を嬉しく思った。

しかし、今その感情は必要ない。一瞬でも早くこの仕掛けを解除する。そう決めた彼女はすぐさま体を引き起こし脚を組んだ。感極まる状況だが足元にあるのは、あの死体だった。


棺は留まることなく下へ下へと向かっている。

この落下速度からして、製作者は棺を壊すことを前提には考えていないはずだ。ならば自分にもまだ時間はあると言い聞かせた。


遥か高みまで極まった集中状態で、彼女の思考は高速に回転し、ここまでに見たあらゆる細部まで記憶を再現する。


南离には自慢できる才能が一つあった。

それは記憶力である。

これまでいくつもの種類の武器を作り上げてきたが、幾つかは数百、数千もの部品を必要とする。普通ならば製作図を見なければ絶対に組み上げられるものではなかったが、南离にはひと目見ればよかった。ひと目見れば記憶し、間違えることも一切なかった。部品の形状、材質、場所、順番、さらには部品ごとの研磨の具合まで。


かつて、彼女の無限の設計図を盗もうとした輩が何人もいた。人数、金、権力、どれをいくら注ぎ込もうと、それが見つかることはなかった。それもそのはず、図面など最初から存在しなかったのである。


無限は彼女の全てを注ぎ込んだ最高傑作である。素材の希少さ、部品の数や精度、使用される技術の高さ、図面におこせば数百枚は下らないであろう情報は、必ずどこかに存在すると思われていた。が、その秘中は彼女の頭の中であり、誰も侵すことのできない領域に収められているのだ。


ただ、南离自身でさえも無限を複製することは叶わなかった。ある素材に関しては、希少さ故再入手はできず、自分で錬成するにも錬成の元となる素材さえもわからないようなものだったからだ。


唯一手元にある無限を作る時に使ったその素材は、とある古墳で手に入れた。彼女が訪れた時にはその古墳の宝物はすべて持ち去られた後で、彼女はがっくりと肩を落としながら引き上げようとしたときに見つけた。


それはただの黒い石だった。鉱石にも金属にもどちらでもないようにも見える。ただひたすら黒かった。表現するなら、だった。


石に惹かれた彼女はその特性を研究し、生かし、数年を経て無限を作り上げた。こうして、無限は彼女の唯一無二の武器となり、彼女の存在もまた唯一無二となった。


無限への思い入れの強さのあまり長いこと記憶を遡っていた気がしたが、集中力を増した今の南离には一瞬のことであった。今必要な記憶は棺のものだけだ。


そう自分に言い聞かせると、応えるように第2層の蓋の映像が脳内によみがえる。


南离が必死に仕掛けの解除を始めた頃、夜君陵は自身を取り巻く水が何かおかしいと感じていた。

最初は温度。上の階の気温から水温は氷点下に近いと予想していたが、周囲の水温はさほど低くはなく安堵を覚えていた。しかし、考えれば考えるほど、その異常さが理解できてくる。


”さっきの階から10丈(1丈は3mほど)は下にいるはずだ。なぜこんなに冷えていない?”


さらに自分の居場所を確保しようとその場所から移動しようとしたが、水の抵抗が異常に強い。普段ならば腕で一搔きすれば半身ほどは進めるはずなのに、全く前に進めなかった。


”ここから動けない。”


背筋に悪寒が走った夜君陵はすぐさま叫ぶ。


「聞け!絶対に棺を開けろ。水には絶対に入るな!」


南离は彼の言葉から水にも何かあると理解できた。

さらなる圧力が自身にのしかかってくる気がしたが、続いて聞こえてきた言葉に安堵する。


「恐れるな!お前のやるべきことだけやればいい!」


夜君陵の気遣いに感謝しつつも、記憶から解除に至る道を探す。

原木の表面を行き交う紋路。その表面には仕掛けを隠せるような穴や継ぎ目は一切なく、ただひたすら滑らかで痕跡は一つも見えなかった。


”違う!”


彼女の頭に閃きが訪れる。


”もし、紋路が継ぎ目だったとしたら?”


紋路沿いに原木を切断し、それを継いだらどうなるだろうか。その紋路は少なくとも他のものより少なからず太くなるはずだ。


その頃夜君陵は、悪化する自分の状況と格闘していた。自分の体が動けば動くほど沈み、捕われ、重くなっていくのだ。しかも、自分の位置は一切変わっておらず、沈み具合は悪くなる一方だった。

追い打ちをかけるように石室で負った背中の傷が開く。にじみ出た血が水に染み出し、血の匂いが漂い始める。


その時、パシャパシャと水の上を何かが跳ねる音が聞こえてくる。最初は小魚かなにかと思っていたが、こんなところで小魚のが出てくるはずがない。


”まずい。これでは無事では済まんな。”


彼は体を強張らせつつも、視力を集中させた。水はあたりの暗さと血のせいではっきりとは見えなかったが、水面に飛び散る水飛沫と、たまにきらりと見える背びれらしきもののおかげで、魚の群れがこちらに向かってくることがわかる。


”あの女め、やれるならさっさとしろ。”


彼は体を震わせる。

彼自身にも、それは恐怖なのか武者震いなのかわからなかった。

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