第9話 この怪物め
「王爺、私たちは一蓮托生、出会いは短くあれども同じ危機を乗り越えてきた仲です。些細な意見の相違で、お払い箱というのはいかがなものでしょう?」
言葉を終えるや否や、南离の目は驚きで見開かれた。
南离の目に映ったのは、夜君陵の両足の裏から、ピキピキと音を立てながら花のような霜が肉眼でも見える速度で足を伝って登ってくる姿だった。まず、彼の靴、次の紫色の衣服、それは徐々に上へ上へと伝っていき、手や顔までも霜の花で覆われてしまった。
近くにいてはまずいと思った南离はひとまず彼から飛びのくと、不可解に思いながらも様子を見た。
”一体私は何を見てるの?もしかして、氷雪奇縁(現代にあったドラマのタイトル)でもやってるつもり?”
「目の前から消えるか、それとも死ぬか、さっさと選べ。」
夜君陵は仁王立ちのまま動きを止めていたが、拳を握りしめ体の内側に気を入れた。その瞬間、内力が湧き出してきて大量の熱となり、全身に伝わっていった。
氷霜はあっさりと消え去り、後に残った水が彼の髪と衣服を濡らし、裾から水滴が滴り始める。
今いる場所は広い石室で気温が下がっている。あちこち服が破れている南离は寒さに思わず身震いした。
彼女にとって目の前で起こっている事象はとても奇妙だった。無限を作ろうと世界各地を旅歩き、普通の人ならば一つとて体験できないような、数多くの奇妙な人や物に出会ってきたが、こんな経験は初めてだった。
彼が内力で全身の氷霜を溶かしたのを見て南离はほっとしたが、それもつかの間のこと、再び霜の花が彼の体に咲き始める。しかも、先ほどの速度よりもずっと早く。あっという間に唇、眉毛、まつ毛に至るまで霜の花が全身を覆いつくす。
体感温度はどんどん下がっており、石室の温度がなぜか低下していることに気付く。
「ちょっと、一体これは何が起こってるの?ここはなんかおかしい。さっさと仕掛けを探して、ここを出よう?」
彼の周囲の冷たさに一瞬ためらったが、南离は何度か自分の命を助けてもらったことを思い返して、数歩近づいた。
見た目の通り彼のそばは寒かったが、奇妙なことに近づけば近づくほど冷たさは増し、心臓麻痺を起こすのではと思えるほどの冷気となっていた。
「さっさと消えろ。」
夜君陵は突然大声で叫んだ。元々鋭かった目つきはその度合いをさらに深めていた。ただでさえ真っ暗で幽冥のような黒目は黒さを増し、のぞきこんだ者の心に恐怖を呼び起こせそうなほど人気を感じさせなかった。
さっきまで一緒に行動していた人の物とは思えないほどの様相に、南离は一瞬自分が地獄にいる冥王にでも睨まれた気分だった。
全身の震えに思わず南离は視線を下げたが、ふとその先、夜君陵の足元で、彼を中心として白い半透明の霜花の層が作られ、それが四方に広がり始めていることに気付く。
その層が自分の足元にも広がってくるのを見て、再び距離をとる。
経験したことのない事象と、先ほどまでとはまるで別人のような夜君陵を見て、これは夢だと自分に言い聞かせたかったが、なぜか南离は、この不思議な霜花と彼は関係があると確信していた。
”しかし、人間にこんなことが可能だろうか?明らかに想像の範疇を超えている。”
霜花の範囲に入らないようじりじりと後ろに下がっていた南离の立ち位置は押され、石室の角まで追い込まれていた。
何かないかと南离はあたりを見回し観察する。この広い石室は天井が高く空虚でガランとしている。まだ明るさがあるのは地上約2mのところにところどころランプが取り付けられており、その明かりがまだ生きているからだ。だがその光源も、ジメジメとした部屋の湿度により芯が柔らかくなっているのか、徐々に弱まりだしている。
氷霜がランプの高さまで届けば真っ暗になってしまい、助かる術を見つけることも難しくなる。
”ジメジメした真っ暗闇の中で凍え死ぬなんて、、、地獄だわ。”
夜君陵は先ほどから身動きどころか、一言も発していない。ただ目は依然底のない穴の中のように黒く、その光のない目で静かに彼女を見つめていた。ちょっと前までの彼は、彼女を殺そうとしたりしなかったりの繰り返しだけだったが、今の彼は別人で、ただひたすら恐ろしかった。
”逃げたい。今すぐ逃げたい。でも、どこに逃げ場があるっていうのよ!”
彼に背を向けて仕掛けを探そうとしても、氷漬けになった鎮王陵が後ろから手を出してきそうで不安だった。
こんなに色々と奇妙な彼をうまく相手する自信がでなかった。
無限があれば、、、無限があればどんな危険で凶暴な相手でも戦う自信があった。自身が持ち得るもの全てを注ぎ込んで作った無限に、南离は相当の自信を持っていた。
今はただ、霜花まみれになった夜君陵の様子を警戒しながら、あちこちを見回っているが、足場は狭く、やれることは少なかった。
”ん?あそこの壁は一部分だけなんか違う?”
彼女が視線をやった壁の一部分に手のひらのような形をした痕跡があったのだ。
しっかりと観察をしようと注意をそちらに向けた瞬間、感情が全く感じられない冷たい声がした。それは明らかに夜君陵のものだったが、その口調は以前の同一人物のものとは思えなかった。
さっさと消えろと言ってきたときは、その口調に緊迫感と怒りがこめられていたが、今の彼の口調にそんなものはない。一切の感情がこめられていなかったのだ。
「お前を生かそうと思ったが、本王にまとわりつくこの冷気を解くには、お前の温かい血が要る。ここにいるのはお前だけだ。他に選択肢はない。何か遺言はあるか?」
”まただ。また私を殺そうとしてる。”
氷漬けの夜君陵は彼女の遺言を聞くと言っているが、あの様子では自分の話どころか遺言さえ聞いてくれるとは思えなかった。
冷え切った体をギシギシとさせながら、彼はゆっくりと剣を構え、剣先を彼女の方へと向けた。その腕が肩の高さに来た時、南离は初めて、彼の脇の下と背中の近くで、紫色の服が血で染まっていることに気付いた。
”あれはさっきの石扉の仕掛けによる傷?思ったり出血が多い、、、ってこんな時に同情してる暇なんかない。”
すぐさま今の状況を思い出した南离は、彼を不憫に思う気持ちを押し殺した。心中には緊張感と恐怖しかない南离だったが、不思議と彼に向ける顔には笑みが浮かんでいた。汚れてはいるものの、その小顔からこぼれるような笑顔は、美しく輝いていた。
「本当に私を殺せるの?」
彼女は優しく尋ねた。
さっきまでの夜君陵には一切効かなかったが、異常極まりない状態の今の彼になら、もしかしたら媚功が効くかもしれない。効かなくっても、ほんのちょっとだけでも動きが鈍くなってくれればいい。
南离の目が輝いた。
「言っただろう。お前の妖術は本王には効かない。」
霜花に覆われて体が動かないのか、夜君陵は手首だけを使って長剣を彼女に向けて解き放った。剣はすでに霜花に覆われ樹氷のような形になっているうえ、強い殺気がこめらているため、凄まじい勢いで飛んでくる。
シュッ
自分に訪れようとしている危機に南离の瞳孔が縮む。素早さには自信のある南离は、幾重にも棘のついた刃を避けたつもりだったが、それよりも先に届いた剣気が肩を掠って通り過ぎる。その鋭い気は布を切り裂き肌をかすめたのか、わずかな血が滴り落ちる。
横目で肩を見れば、指くらいの長さの傷から血が滲みだしていたが、痛みを感じる前にその赤い線は氷霜で覆われ、傷口が凍り付く。ほっとしたのもつかの間、突き刺すような痛みが肩口から広がり、あっという間に肩と腕全体が凍り付き動かなくなる。
南离は、彼の行動が信じられないような表情をしながら、目を吊り上げて顔を見た。すでに、その唇は冷気で白くなっている。
「私が妖術を使っているといいましたが、私が術師ならば、あなたは怪物でしょう?」
まだまだ二人の争いは終わりそうにはなかった。
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