第6話 まな板の鯉
「本王の声が聞こえるなら返事しろ」
返事はない。
「今すぐ返事するなら、本王にはまだ君を許す用意がある。」
聞こえてくるのは沈黙のみだった。
夜君陵は眉をひそめた。あの女では身を潜めるのは不可能だ。なぜなら、内力が低い彼女は呼吸音を隠しきることができず、武を極めた自分に気付かれないはずがない。
つまり、彼女の身に何か予想外のことが起きたに違いない。
洞窟の入り口を眺め、心を決めて中に入ろうと足を上げた瞬間、後ろから再び一陣の竜巻がいきなり襲い掛かってきた。それも前回と打って変わって意図的に彼を狙っており、無数の落ち葉を巻き込みながら洞窟に追いやろうとしてきた。
洞窟の入り口がつぶされては困ると判断した彼は、目を光らせながら洞窟に飛び込んだ。
洞窟に入ると、すぐさま彼女の気配に気付いた。
パッと後ろを振り返ると、彼女は闇に溶け込むように入り口付近の壁に背中を張り付けていた。まるで魂の抜けた人の抜け殻のようにピクリともせず、呼吸もせずひっそりと、彼女はそこにいた。
内力で向上させた視力と気配察知がなければ気が付かなかったであろう。それくらい、彼女の隠密は機能していた。
彼女は死んではいない。しかも、その目は暗闇の中でさえも星のように明るく輝いていて、視線を彼に向けている。
彼女はどうやって生き永らえ、自分を欺くほどの隠密をしたのだろうか。
「君はやはり、、、」絞め殺すべきだと夜君陵が言い切る前に、先ほどの竜巻が外から突っ込んできて、さらに彼を洞窟の底深くに吹き飛ばしてしまった。
南离は夜君陵の様子に少しためらったが、すぐさま壁を蹴って夜君陵を追うように飛んだ。つまり、竜巻に向かって。
夜君陵は目の前の葉を振り払い、手を伸ばして彼女を抱き留めた。
「お前、、」
「しっ!この先に何かいる。起こしたくないなら静かにして」
南离は彼を睨んでいたが、怒っていてもなぜか妖美で心を熱くさせる。怒気のこもった瞳には万種の感情が垣間見え、口を開けばその唇から媚気がこぼれてくるようだ。
ありえない。夜君陵は決して、自分が彼女のことが好きでこんな反応が起きているとは思えなかった。
なぜなら、人から色々な女性をあてがわれていたが、どんな女にも心が揺れたことがなかった。さらに言えば、どんな媚功や薬を使われても屈することがないよう、彼はあらゆる訓練に耐えてきた。簡単に他人に振り回されるようでは領主として不適格、常に冷静で警戒心を保つことが必要なのだ。
しかしこの女は隙あらば自分の心を、欲求を揺さぶってくる。自分にとってあまりに危険。さっさと彼女を殺すべきだと再認識した。
そう思った矢先、竜巻の力が消え去り、二人の身体が自由落下し始める。南离の体を支えながら地面にふわりと着地すると、その先からしゃがれた声が聞こえてきた。
「クヒヒヒヒ、何年待ったことか。俺と同じ運命になるやつが来るなんてな。」
いきなり聞こえてきた言葉に南离はドキッとしたが、さらっと煽りをいれた。
「な~んだ。獣かなんかだと思ってたけど、人間だったのね。」
「けっ、獣だと!」
煽り耐性がないのか、非難の代わりに何かが風を切る音が聞こえてきた。それはまるで音の外れた笛のようなもので、この入り組んでいると思われる洞窟の中で響けば、強烈な不協和音となる。
南离は暗闇があまり好きではなかった。しかも、何も見えないうえ、その優れた五感のおかげで不快感がさらに助長された。
”無限があれば、、、”
ふと南离の足の力が抜け、地面に座り込みそうになるが、夜君陵がすぐ支えてくれる。
”この感じは、、、”
彼女は数刻前の体験を思い出す。そう、迷甜花だ。
抱き留めてくれる夜君陵の腕と腰に手をまわし、すがるように抱きついた。
横にいる男がなぜ自分を支えてくれているのか考える余裕はない。今考えるべきは、なぜ今になって迷甜花の症状が出てきたのかということだ。
「迷甜花って何?」
一言出すだけでも一苦労な彼女が極力短く質問する。
彼が答えるよりも早く、かすれた声がうれしいのか、食い気味に答える。声の位置は先ほどよりも近づいた気がする。
「クヒヒヒヒ、あれはいいものさ。花は美しいのに毒が強い。花びらを一枚与えれば、女はイチコロ、すぐいいなりになるのさ。」
”なるほど、幻覚剤みたいなものか”
「致死毒ではない」
夜君陵の口調は冷淡で苛立ちを覚えたが、自分の腰を支える手はそのままだった。
この王爺は気分屋で、いきなり自分を放り投げるかもしれない。そう思ったせいか、彼のベルトを掴む手に少しだけ力が入った。
「放せ」
「嫌よ。」
彼は怒っていたが、一言口に出すだけで、どんどん体から力が抜けていく。
”あ~も~。この迷甜花をどうにかしなくちゃいけないのに、周りの状況は暗くて何もわからない。変な声の男は武器どころか姿さえも見えないし、横にいる王爺は一歩間違ったら敵になる。媚功で解毒できるけど、絶対やばい。”
ただ、南离は、掴んだベルトから王爺の体が緊張していることに気付く。人は危険を感じると体が緊張するが、もしかして変な声の男は危険なのか?
まだ状況が整理できていないうちに、不協和音とともに何かが飛んでくる音が聞こえてくる。同時に横の男からすさまじい殺気が放たれる。
さっき暗闇の中の男が襲ってこなかったのは射程距離外だったから?なら、あいつが近づいて攻撃してきたのはまずい。今自分は半身不随の病人みたいなもの。王爺がここから連れ出してくれなければ絶対死ぬ。
しかも、同時に自分の腰に回った彼の手に力が入る。
ダメだ。このまま盾にされたら死ぬ。
いきなり状況が激変した中、一瞬でそう判断した南离は今持てる限りの力で叫んだ。
「助けて!何でもするから!」
嘘に聞こえるかもしれないけど、これしかない。今を生き残るのが最優先。他は後回しだ。交渉する暇なんてない。彼の心を動かすしかないのだ。今までの自分の行動を見て、少しでも自分が有用に見えることを願った。
ヒュオオオオオオッ
目の前に迫る危機を感じ取った南离は、絶望とともに全身の血が凍りつきそうになった。王爺に私の願いは通じなかった。
”これじゃまな板の鯉じゃないのよ”
今日だけで何度目だろうか。彼女は自分のひ弱な体を呪うのだった。
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