第2話 死ぬなら一緒

木陰で休憩して体力が少し回復した南离は、再び歩き始めた。あの悲惨で運の悪い二人は、まだ真っ最中だが彼女の知ったことではない。どうせ、体力が続く限り、一方は誘惑し続け、他方は襲い続けるのだから。


自分を辱めるもの、自分を殺そうとするものを、彼女は絶対許さない。




この道は思ったよりも長く、しばらく歩いても人の気配を感じなかった。逆に山奥に入っていくように思えた。


「ガアアアアアア」

突然、虎の咆哮が聞こえた。それに応えるようにさらに複数の咆哮が響き渡る。普通の人であれば、虎を恐れ唸り声のしない方向に走るが、南离の目は輝き、声のした方向に走り出した。


「自分はまだ弱すぎる。猛獣を使えば、すぐに自分を鍛えることができる。虎はそれにはちょうどいい練習相手」


虎の咆哮が聞こえたほうにしばらく走った南离だが、慌てて急ブレーキをかけ立ち止まると、その足にあたった石ころがその先に落ちていった。

目の前にあったのは巨大な穴。直径は400~500mはあろうか。対岸の岩壁が遠くに見える。穴の淵に立てば、穴の壁は断崖絶壁で底が見えない。ふと見渡せばなだらかな山々に囲まれているが、ここはその中にある渓谷のようだ。


足元の穴からは不気味な音をたてて、風が吹きあがっているため、彼女のスカートはなびき、体があおられる。


彼女は2歩あとずさった。穴に落ちる恐怖ではなく、その吹き上げる風から、穴の底に何かあやしいものを感じ取った。今の自分では対処できなさそうな何かを。


いつの間にか虎の咆哮は止まっていたが、南离は直感ですぐ近くにいると感じた。しかし、いつも果断な彼女は、虎との練習をすっぱりと諦め、滞在すればするほど危険と感じられる、この身の場所から撤収することにした。


そう決めて戻ろうと振り返った時、突然生臭い突風が横から彼女に向かってきた。それと同時に、殺意のこもった黒い影が突風を追ってきて、南离の目の前に現れた。


目の前には虎、その後ろに人。


「ちっ」


いきなりの状況に毒づきながらも、視界に剣の反射した光が見えて、南离は叫んだ。


「私は通りすがりの者です。剣士様、私を巻き込まないようにお願いします!」


目の前の虎は雄叫びをあげながら、大口を開けて鋭い牙で彼女の顔に嚙みつこうとした。虎の口からはひどい悪臭があふれ、彼女は意識が飛びそうになる。


虎のえさになりそうにながらも、彼女は虎の向こう側にある剣士をちらりと見た。剣士は深紫色の服を着、身の丈ほどもあろう巨大な剣で虎を刺そうとしていた。


猛獣の殺意越しにも関わらず、南离は、剣士の巨大な剣に鋭い殺意がこもっているのを感じた。その殺意は、何千本もの針が皮膚に食い込むかのように彼女をも襲い、心を戦慄させる。


”この紫の服を着た男、一撃で虎を殺せる。”

南离の目には興奮の光が踊っていた。生きて古えの武術を見ることができるなんて幸運だ。


しかしそのとき、男は突然剣を下ろし、後ろを向いた。


「け、剣士様!早く!虎を!」


”なぜやめるんだ?”


「そいつはあなたに任せる」


低い声が南离の耳に入り、彼女は怒りで髪の毛が逆立ちそうになる。明らかに、彼は一撃であの虎を殺せるのに、このな自分に任せるなんて、、、


恥知らず、非道、残忍、冷酷、理不尽!


しかし、今もなお、虎は目の前にいる。こっちをどうにかしなくてはと思い、彼女は歯を食いしばり、心中であの男を罵りながら、一歩後ずさりしてから体を虎の下に潜り込ませ、虎が突進してくる勢いを利用して、自分の真後ろにある穴へ送り出した。


穴に墜落していく虎の咆哮はしばらくの間響き続けた。南离の表情が少し変わる。


”この穴はどれくらい深いんだろう?早く逃げなくちゃ”


しかし、彼女がその場を離れる前に、足元の土が緩み始める。それと同時に紫色の服を着た背の高い男が再び飛び込んできた。しかも、後ろには目を吊り上がらせた虎を3頭も引き連れて!


”ちょっと!なんでこの男は虎をいっぱい連れてくるの?何をやったら虎の一家全員を怒らせられるんだ?”


「こっちに来ないで!」


あの男が自分に向かって飛び込んで来ようとするのを見て、南离は思わず叫んだ。男が着地する直前、ついに二人はお互いの顔を初めてみることになった。


びっくりするほどの端正な顔立ち。しかし、彼の目は非常に暗かった。その深さはブラックホールのようで、ひと目見ただけで魂ごと吸い込まれそうになる。


もし、南离の瞳が春の光で満たされているようだというなら、この男の瞳は冥界の雲が詰まっているに違いない。


足元の地面が崩れ落ちた。足元の感覚がなくなり、無重力感が襲い、二人は一緒に穴へ落ちていった。




”くそっ!くそっ!”


落下する瞬間、南离はすぐに男の胸元に飛びこみ、両手で腰をしっかりと抱きしめた。たとえ穴の底に墜落しても、彼を人間クッションにすれば少しでもチャンスがある。


少女が懐に入ってきた瞬間、男の体が硬直し、そして、片手で彼女の首を絞めた。


「お前、いい度胸してるな」


誰も彼に近づいたことがない。ましてや体に触るなんてありえない。


彼が指に力を入れる前に、南离は叫んだ。


「そんなこと言ってる場合?今二人とも穴の底に真っ逆さまに墜落中なのよ?そんなことしてる暇があったら、少しでもマシな死に方考えてよ!」


彼女は全く恐れていない。逆に、彼の胸に体をさらに強く押し付けた。


”マシな死に方?いったい何を考えているんだ?”

男のこめかみに筋が浮かび、ピクピクしている。


「ガアアアアアア」


男を追ってきた3頭の虎も勢いが止まらず次々と落ちてきた。その中の1頭は彼らの真上におり、巨大な山でも落ちてきたかのように迫ってくる。このままでは二人は底に落ちる前にこの虎に押しつぶされるだろう。


南离の話を受け入れたかわからないが、男は彼女の細い首を絞めていた手を引っ込め、腰を抱きしめた。


ただ、殺意は依然として消えてはいない。


南离は瞭然とした。明らかにこの男は自分と同じことを考えている。彼女を抱きしめて、穴の底が見えたら、彼女を人間クッションとして利用して、生き残るチャンスを狙うのだ。


風が底から吹き上がってきて、刀のように肌を切り刻む。


同じ狙いと殺意を持った見知らぬ二人の男女が、この上なく親密な形で強く抱き合って凄まじい勢いで落下していく。男は片手で南离を抱きしめ、もう片方の手で壁に一撃をいれた。その反動で二人の軌道がずれ、頭上にいた虎は二人がいたところをすり抜けていった。


「あれを使おう」


南离の叫びは突然だったが、瞬時に男はその意味を理解し、彼女を抱きしめて頭を下にして落下速度を増した。一瞬フリーフォールのような感覚に襲われ、虎の真上に来るまで追いつくと、体を回転させ虎の体に飛び乗った。


”すごい!”


この虎に乗っていれば、クッション代わりにできる。


二人の脳内時間はゆっくり進んでいたが、実際には巨大な空洞の下に濃い緑色の地面が見えてきており、墜落まであと数呼吸ほどしかない。底には緑と黒の木々が生い茂り、まるで尖塔のような樹冠が天を刺していた。もしこの木のてっぺんに落ちたら、串刺しになって死ぬんだろう。


そんなことを思いながら、二人はどんどんと落ちていくのだった。

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