第17話 微熱による休息 前編

 居酒屋しのぶの仕事は大変だ。


「タケル君、ジョッキ持ってって!」

「はいっ……っ!」


 厨房で店員同士が行きかい客を捌いて回している中、ビールジョッキを持とうとして思わずふらつく。


「おい、タケル大丈夫か?」

「はい、大丈夫、ですから……っ」


 視界が歪み始めるのと同時に耳に響くジョッキが割れる音が脳にこだました。


「お、おいタケル! ——!!」

「て、ん……ちょ……」


 気が付けば意識を失い、タオルはその場で倒れ込んだ。


「42度か、結構たけーな」

「……悪い、爺さん」


 温度計を見る爺さんにタケルは謝る。

 どうやら、俺は今日の雨に打たれて風邪をひいてしまったらしい。店長が爺さんに電話をしてくれて車で迎えに来て爺さんが頭を下げていたと、駿人が言っていた。

 

「爺、さん……ホント、ごめん」

「二度言うな、わかってんなら次に生かすことを考えろ」

「……うん」


 温情が込められた手つきで、タケルの頭を重蔵はでる。いつもより熱っぽい体で頭が働かないせいもあってか、言葉が短くなる。


「ちゃんと晩飯食って、クソして寝りゃ御の字だ。おかゆ作るから待ってろや」

「わか、った……爺さんたちは、晩飯何食うんだ?」

「カレーだぞ、人のこと気にしてねぇで今は寝てろ」


 閉じられた扉の音を境に、タケルはゆっくりとベットに寝そべる。

 いつも体調には気を使っていたし、問題なかったはずだが……たぶん、生方にかさを借りずに店まで直行したから、だよな。

 店長やみんなも心配してくれていたのに強硬したのは俺だ。

 ……今回の件に関しては、どう見ても俺の判断ミスだ。


「……恰好、悪ぃ」


 額に手を当てて、弱音が口から零れて来る。

 ……最近、ほんと俺ダセェ男に成り下がってやがる。

 生方に連絡入れねえと。


「兄ちゃん」

「あ……? はや、とか? どうした?」


 自室の扉の横から駿人が覗き込んでくる。

 可愛らしい愛着のある顔つきの駿人は心配げに目を潤ませている。


「……兄ちゃん、ゆっくり休んでね」

「……おう」

「それだけ、なんだ……晩御飯、また今度一緒に食べようね」

「……ん」


 ドアのきしむ音が完全に止んだ時、扉が閉められたのだと認識する。

 ……はやく、風邪治さねえと。生方に連絡、入れねえとな。


「……ぜってぇ、罪悪感でいっぱいになってそうだな。アイツ」


 濡れないようにって気を使ってくれたし、悪いことしたな。

 スマホを手に取ったタケルは指でラインの画面をタップする。

 

『わりぃ、生方。今日風邪ひいちまった。トラックの泥水おもいっきり被ったせいかも知んねぇ……悪ぃけど弁当は風邪治ってからで頼むわ』


 と、いったん打つ。嘘は、言ってねぇ……し。生方に逆に送って、余計意識しちまうんじゃ。

 いやいや、明日弁当作らせちまう。迷惑をかける可能性が大だ。

 だったらちゃんと理由を返信しておくべきだ。


「……これで、よし、っと」


 ポンと返信すると爆速で返信が返ってきた。


『わかったよ! タケル君、無理しないで! 体温かくして、美味しいご飯食べて、ゆっくり寝てねっ!』

「……おー、はえー、のな」


 ボーっとしながら、タケルは重い指先でタップしようと画面を触る。


『……生方、迷惑かけて悪い。助かります。ありがとうございます』


 タップしていて、予測変換で店長と話していた時のワードが出てきてそのまま打っていることに気づかずタケルは送信した。続けて、ひまりからの返信が送られてくる。


『もし、よかったら明日お見舞いに来てもいい?』

「……ん、あぁ、え、っと……」


 ぼんやりとする思考でタケルはタップすると力尽きてきた脳にどんな内容かもその時のタケルには記憶に残っていなかった。


『お願いします、おやすみなさい』

「……ごれ、で、よひ、……っと」


 タケルは眠気が襲ってきて、徐々に視界が暗み出す。爺さんの作ってくれる晩飯を期待しつつも、俺は誘われるようにまぶたの裏にある夢の中へと落ちていく。



 ◇ ◆ ◇



 母さんがリビングで鍋を持っている情景が広がっていた。

 俺は小さい体躯で母さんの隣にいた。


『母さん、今日の晩御飯何?』

『今日はカレーよ! お母さんの自信作!』


 黒髪をローテールにするのが好きだった母さんの笑顔は柔らかい。あの日が来る前の、母さんだ。

 カレー……そうだ。母さんの得意料理。

 野菜盛り盛りで、母さんが気分次第で具材が変わるオリジナルカレー。俺、カレー好きじゃなかったけど母さんの作るカレーなら、気軽に食べれたのをよく覚えてる。


『かれー! 好き!』

『タケルならそう言うと思ったぁ、お父さんはまだ帰ってこないけど、食べちゃいましょっ』

『うんっ』


 タケルは晩御飯を食べるために椅子に座る。

 カレーと福神漬けにお茶。というシンプルでどこの家にでもありそうなメニューをいつも通り食べるのだった。


『いただきます!』『いただきますっ』


 俺はカレーを食べ始めると味がしないことが分かる。

 なんで、だ? あの頃のカレーの味、忘れたことがないのに。


『……食べたな? タケル』

『え? ……おとう、さん?』


 横にいた母さんが父さんで、真黒な怖い顔で怒っている。


『貴方最近どこに行ってるの!? いっつも帰りが遅いじゃない!!』

『うるさいなぁ、仕事なんだよ』

『どこがよ、キスマークつけておいて!! 浮気してるんでしょ!?』


 スプーンを持った俺は、呆然と二人の口論するやり取りを眼前に見つめていた。

 ……聞きたく、ない。見たくない。

 この情景を、忘れたくても忘れられない。

 あぁ、そうだ。だからカレーの味がしないんだ。

 母さんが父さんと俺のために作ってくれたカレーの味がしないのは。

 俺はその日から、カレーが嫌いになったんだから。



 ◇ ◆ ◇



「……大丈夫か? タケル」


 重い瞼が、開けば爺さんが扉の前に立っていた。

 トレイを持ってやってきた爺さんは心配げに見つめている。なんか、変な顔してるだろうか。


「爺さん? どうし、たんだ?」

「晩飯、つってもおかゆだが……食べれそうか?」

「……うん」


 タケルはゆっくりと起き上がり、おぼつか無い手つきでれんげとおかゆの皿を手に取る。


「……大丈夫か?」

「ん、食べれるから、大丈夫」

「……そっか。じゃあ、儂は駿人と食べて来るぞ」

「……ん」


 閉められた何度目かの扉の音を耳にしながら、おかゆを食べる。


「……優しい、味」


 母さんも熱出した時によく作ってくれていたっけな。


「……母さん」


 小さく零した言葉と共に頭の奥に目にした情景が目の前にあった気がした。

 母さんが、縄で首を括って、自殺した時の姿が。


「……母さん、俺、生きてもいいのかな」


 小さく零した嘆きをみ殺すためにおかゆを一口ずつ食べていく。

 タケルは知らない、重蔵が扉の向こう側にいることを。



 ◇ ◆ ◇



 重蔵は小さく、口にした。


「……まだ、トラウマになってんだな。タケルは」


 重蔵は知っていた。タケルが幼い時、母親が自殺したところを。

 葬式にも泣きもせず、ただ死んだ目をしていたことを。

 綺麗な黒猫みてぇな綺麗な金色の目が、闇に沈んだのを。

 大人しい性格で僕って言ってたアイツが、俺と使うようになったのを。

 儂は、たったの一度も忘れたことはない。

 葬式から自然とタケルは不良になっていった。

 怪我して帰ることも増えて、生傷をいつもつけて夜によく出歩いていた。

 タケルの心は、あのバカ野郎に潰されたんだ。


「……タケルを置いていきやがって、あの馬鹿がっ」


 重蔵は激しく憤慨した怒りを拳に込める。

 儂は絶対に死ぬまでタケルの面倒は見るし、育てる。

 だからこそ、儂には儂にできることをするだけだ。

 一階に降りていって、普段通りにいることに努めることにした重蔵はチャイムの音が聞こえリビングまで向かう。


「ん? 誰だ、こんな時に……」


 二階から降りて、重蔵はリビングのインターホンの画面を確認した。

 そこには、芋っぽい雰囲気の女の子がいた。

 しかも敷居学校の女生徒の制服を着ている。


『……タケル君の家ってここで本当に合ってるはずだよね』


 不安げに言う少女が、タケルの名前を呼んでくれいるのに言葉が詰まった。

 ……もしかしたら、タケルの高校でできた友達かもしれん。

 そういえば、前まで購買のパン食うための金を渡してたのに急にいらんと言われたの……もしかして。女の子が何か言っているのを聞いて、もしかしたらと願った。


「はーい」


 重蔵は、期待を込めて扉を開けた。

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