2-4 恐ろしいもの
テーブルを離れた久留島に、風太は何も言わなかった。自分が持ってきた資料を開いて、鼻歌交じりに読み始める姿は楽しそうだ。
読書するにしてはおどろおどろしい事件が多いのだが、化け狸と人間では感覚が違うらしい。そういうところも慣れないなと思いながら、久留島は本棚に向かう。
久留島達が座っていた作業スペースは吹き抜けになっており、本棚スペースは階段によって上下に別れている。大きな脚立がなくても本が取れるようにという配慮なのだろう。
久留島の目当ては下の段。特視の調査記録は手に取りやすい下の本棚にまとめてある。久留島が記録をつけている分、風太が持ってきた分でごっそり穴が空いているが、他は年代別に規則正しく並んでいた。
ファイルのラベルに貼られた年代を見ながら、緒方と双月の記録は何年前だろうと考える。久留島と同じ、二十代で特視に来たのであれば二十年から三十年前の記録だ。
順番にラベルの年代を確認し、目当てのものにたどり着いたとき、ふと不安になった。
勝手に見てしまっていいのだろうか。
今の記録の整理を続けていけば、遅かれ早かれ見ることにはなる。だからといって、仕事で見たのと好奇心による私欲で見たのではまるで違う。
伸ばしかけた手が止まり、しばし迷ってから下へと降りる。恨まれた、呪われたという二人の事情は、軽い気持ちで見ていいものではない気がした。
「読まないの?」
ふいに誰もいないと思っていた空間に声が響いた。風太にしては低い声だ。だからといって緒方のように渋いと評するような、男性のものではない。子どもでも大人でも、男でも女でもない中性的な声。
久留島は驚いて声の方を見た。
少し離れた場所に人影が見える。久留島が自分の方を向いたことを驚いた様子で、影は体を震わせた。
本棚の間には明かりとしてランプが等間隔で設置されている。そのランプの光と光の間、周囲よりも暗い場所に人影は立っていた。目を凝らしても人がいるという以外はよく分からない。さきほどまで蛍光灯で照らされた場所にいたので、目が暗闇に慣れていないようだ。
人影は何も言わない。返事が返ってくるとは思っていなかったという様子で固まっている。相手が話しかけてきたのにと思ったが、そもそも話しかけるつもりのない独り言だったのかもしれない。
「えっと、蜂屋さんですか?」
驚いたような気配が伝わってきた。闇に目が慣れてきたのか、先程よりもハッキリと人影の輪郭が見える。
ほっそりとした体型の男性のようだ。目が慣れてきたと言っても暗く、顔立ちはよく見えない。声と同じく中性的な顔立ちのように思えた。
いま特視にいる人間で、久留島が会ったことがないのは蜂屋だけだ。ふらりと戻って来る職員もいると聞いているが、外回りの業務をしている人が目の前の青年のようにおどおどしているとは思えない。
となれば眼の前にいるのは蜂屋だ。行動時間は深夜と聞いていたが、たまたま昼間に目が覚めて、資料室に用があったのかもしれない。
「直接会うのは初めてですね。一週間前に配属されました。久留島零寿です。よろしくお願いします」
相手は先輩だ。最初の挨拶は重要だろうと頭を下げると、戸惑った空気が伝わってきた。本当に人見知りらしい。
「えっと俺、仕事戻りますね」
話しかけるたびにビクビクされると、こちらも悪いことをしている気持ちになる。仕事について聞きたいこともあったが、情報共有用のチャットで聞いた方がいいだろう。
すでに何回かチャットで質問はしているのだが、そちらでの返答はかなり素っ気なかった。その返答から受けた雰囲気と、目の前の青年の印象はかなり違う。ネットとリアルでは対応が違うタイプなのかもしれない。
気まずさを感じた久留島は軽く頭を下げると、そそくさとテーブルに戻った。何も持たずに戻ってきた久留島を見て、風太が不思議そうな顔をする。
「見つからなかったのか?」
「蜂屋さんがいたから、仕事の邪魔しちゃ悪いと思って戻ってきた」
「蜂屋って引きこもってるっていう奴?」
頷くと風太は眉間にシワを寄せた。それからヒクヒクと鼻を動かす。
「……人間の匂いしないけどな……」
「ここ、換気システムしっかりしてるって聞いたし、匂いも対策されてるんじゃない?」
湿気や匂いがこもらないよう、いろんな技術を用いて建てられたと聞いている。一体いつ、どれだけのお金をかけて造ったのかと想像すると恐ろしい。
風太は納得いかなさそうに眉間にシワを寄せていたが、蜂屋がいたのは確かなので風太の鼻の方が間違っているのだろう。もしかしたら、蜂屋の匂いが人よりも薄いのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えているとスマホが震えた。ポケットから取り出したスマホの画面に表示されていたのは、巳之口という名前。
風太は興味深げに久留島が持っているスマホを見つめている。興味が蜂屋からスマホに移ったようだ。山育ちの風太にとってスマホを含めた電子機器は珍しいらしく、テレビや電子レンジ、ケトルにも目を輝かせていた。存在は知っていても、触れる機会がなかったらしい。
興味津々の風太を横目に久留島はメッセージアプリを開く。巳之口からの連絡は、仕事で近くに来ているから飲まないかというものだった。
特視の仕事は何事もなければ九時から五時。見習いの久留島にはこれといった仕事もない。緒方や双月にも地下にこもりっきりでは気が滅入るから、息抜きの外出は大切だと言われているし、許可は下りるだろう。
一応、仕事用の連絡に作ったアプリのグループにメッセージを送る。すぐに既読がついて、了解という短い返事が届いた。
「風太、このあたりに居酒屋ってあるのか?」
巳之口に了承の返事をしながら風太に問いかける。聞いてしまってから、風太はこの辺りから出たことがあるのだろうかと疑問をいだいた。出たことがあるとして、居酒屋とは無縁に見える。完全に聞く相手を間違えたと後悔していると、風太はあっさり答えた。
「町の方に旨い酒とツマミを出す店があるぞ」
又聞きと言うより明らかに飲んで食べたことのある返答だ。意外な返事に久留島は目を丸くした。
「未成年飲酒……」
「人間でいったら四十後半っていっただろうが」
ムッとした顔で風太はいうが、その表情や反応は子供にしか見えない。だからこそ混乱する。もしかして双月も飲むのだろうか。緒方、双月、風太の三人が酒盛りする場を想像して気が遠くなる。
「どうやって居酒屋入るの?」
「俺を何者だと思ってるんだよ」
風太はそういうと、どこからともなく葉っぱを取り出して頭の上に乗せた。初日にみた、煙みたいなものが広がって、気づけば先程まで風太が座っていた場所に青年がいた。
足と腕を組み、ニヤニヤと久留島を見つめているのは風太なのだろう。子供の風太が大人になったら、こういう容姿になるだろうなと想像できる顔立ちだ。
それでいて自分よりイケメンなことに久留島は少しイラッとした。化けているのだから容姿も自由自在なのかもしれない。なおのことズルいと思ってしまう。
「なんなら案内してやろうか? お礼は酒とツマミの奢りでいいぞ」
「えぇー……」
なんとなくだが、風太は大食いそうな気がする。双月があれだけ食べるのだ。風太だって一般的な成人男性よりも食べる可能性は高い。まだ給料は出ていないし、どれくらいの金額を貰えるのか分からない以上、気軽に奢るというのは危険な気がした。
「俺一人ならともかく、友達いるし……」
やんわり断ると風太は不服そうな顔をした。風太としてもせっかくの奢りの機会、逃したくはないようで押しが強い。グイグイと顔を近づけられるが、イケメンの顔をドアップで見ても何も嬉しくない。
「大丈夫。俺人見知りしない」
「お前はよくても俺の友達はそうじゃないから」
いや、巳之口も人見知りしないが。なんなら俺よりもすぐ仲良くなりそうだなと、陽気な友人の顔を思い出す。
「辛気臭いお前の友達がどんなやつか、この風太様が見定めてやるよ!」
「見定めてもらわなくても大丈夫。巳之口は俺にはもったいない、いいヤツだから」
そういいながら両手でバッテンを作る。顔もそらして、全身で拒否のポーズをとった。それでも風太ならなんやかんや言ってきそうなので、なにかしらのお土産で手を打とうかと考える。
だが、予想外に風太からそれ以上の追撃がなかった。疑問に思いながら風太の様子をうかがえば、真っ青な顔をしている。
「風太!? 大丈夫か」
慌てて久留島は立ち上がった。さっきまで騒いでいたのが嘘みたいに、風太の顔色は悪い。
地下には療養用の部屋もある。風太を運んで、緒方や双月に連絡しようと考えていると、風太が震える声を出した。それは日頃の風太からは想像できない、か細くて弱々しいものだった。
「だ、大丈夫だ。用事思い出したから、今日は帰る」
ボフンという音がして、風太の姿がいつもの子供の姿。どころか、狸の姿に変わる。椅子から飛び降りた風太は尻尾を揺らしながら、四本脚で駆け去っていく。
爪が床に引っかかる音が遠ざかっていくのを久留島は見送った。あっという間の出来事過ぎて、引き止めることも出来なかった。
「本当に大丈夫なのか?」
心配が口から出たが、答えてくれる人はいない。
その後、風太が戻ってくるかもしれないと定時まで真面目に仕事をしたが、風太は戻ってこなかった。
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