鎮守の森へ

 部屋から見える紅葉の木が月夜風に吹かれ、鮮やかに染めあげられた衣装のような赤い葉を、さわさわと自慢げに揺らしている。

 夕飯のお膳を下げに部屋に入った僕に向かって、

「わしはもうじき死ぬ」

 山じいは静かにそう言った。

 しばし窓から見える景色に目を奪われていた僕は、その言葉にギョッとして思わず振り返った。

「お前さんには本当に世話になった。こんな、どこのものともわからぬ年寄りを拾い上げて、寝床を与えてくれたばかりか、食事に身の回りのことまで…。この寺の庵主さんはもちろんだが、お前さんには毎日毎日苦労をかけて、感謝の言葉もない。ありがとう、ありがとう」

 そういって深々と頭を下げると山じいは何度も手をすり合わせた。


 寺から少し下った山道で行き倒れていた山じいを見つけたのは、ひと月ほど前のことだ。

 寺を包む森が少しずつ色づき始めたその日、僕はいつもながら掃除をするふりをして、朝露の輝く澄んだ山の道を、ぶらぶらと竹ぼうきを抱えて歩いていた。

 お堂からは庵主さんが鳴らす鈴の音と読経の声が聞こえてくる。

 僕は山道に転がる手ごろな小石を拾うと、竹ぼうきをバット代わりにフルスイングして森の中に打ち込んだ。ガサガサッザザザッっと小石は雑木林の中に突っ込んで消えていき、また小石を探してはそれを打つ。そんなことを繰り返し、小石を探して山道をきょろきょろと下っていった先に、人がうずくまっているのが見えた。

 それが山じいだった。

 大きな楠の根元に寄りかかるように座り込み、苦しそうな顔をして何事か唸っている山じいを見て、僕は最初、自分が打った小石をぶつけてしまったのだと思い青くなった。

「おじいさん!だ、大丈夫?」

 よくよく考えれば森に向かって打ったのだからぶつかるはずは無いのだが、気が動転した僕が慌てて駆け寄り抱き起すと、山じいはかすかに首を振った。

 やせこけた顔は青白く、全身の皮膚は乾ききっていて何日も飲まず食わずであったろうことは明らかだった。僕はすぐに山じいに肩を貸し、背中に背負うようにして寺まで負ぶっていくと大声で庵主さんを呼んだ。

 庵主さんは何事ですかと苦笑いしながらゆっくりお堂から出てきたが、肩で息をしながら見知らぬ老人を負ぶっている僕を見ると飛び上がった。

 僕たちはすぐにお堂の奥の部屋に布団を敷き、それからせっせと山じいを看病した。

 二人で体を拭いて、重湯を少しずつ口に入れてやると、山じいの顔に少し赤みが戻った。少し食べて眠り少し食べて眠り。最初の二、三日はずっとそんな感じだったけど、やがて、少しずつ食べる量が増えて、山じいは日ごとに起きていられる時間も長くなった。


 初め、山じいは何も喋らなかった。名前を聞いてもどこから来たのか尋ねても首を横に振るだけだった。僕は山で見つけたこのお爺さんを勝手に山じいと呼ぶようになった。

 一週間が過ぎ十日が過ぎて、山じいは布団から起き上がれるようになって自分で食事が摂れるようになると、お堂に居た庵主さんと僕のところに来て、額を畳にこすりつけ言った。

「この度はとんだご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。私は死に場所を求めて、この辺りをさまよっていましたところをあなた方に拾われた、身寄りも行き場もない、どうしようもない年寄りでございます。この御恩は一生忘れません。いつか必ずお礼に参ります」

 庵主さんの膝元に平伏していた顔を上げ、そう言って出ていこうとした山じいだったが、少し歩いただけでふらふらと倒れそうになった。僕と庵主さんは慌てて両脇から山じいを抱え、布団に寝かしつけた。

「なにも気になさることなどないのですよ。あなたが元気になってまた生きる気力を取り戻せる日まで、何日でもここで療養なさってください。御覧の通り貧しい寺でございます。粗末な食事しか出せませんが、他に私にできることと言ったら仏様にお祈り申し上げることぐらいでございます。あなたに御仏のご加護がありますように」

 庵主さんがそう言って合掌すると、山じいは横になったまま涙を流した。

 その日を境に山じいは僕とも話しをするようになった。相変わらず自分のことは話してくれなかったけれど、体の調子が良いときは膳を下げに来てくれることもあった。

 だが、少し無理をして歩くとまたふらふらと倒れこんで苦しそうに息をした。

 僕は毎日山じいに食事を運び、体を拭いて、トイレまで肩を貸してやった。


 山じいが死を口にしたのは、そんな日が二週間、三週間と過ぎ、もうじきひと月になろうかという日の晩のことだった。

 山じいはすり合わせていた手をとめ、僕の顔をまじまじと見つめると、辺りを見回した。

「庵主さんは?」

「さあ?お部屋で本を読んでいるか書き物をしているか。呼んでこようか?」

 僕がそう言うと山じいは慌てて手を振って止めた。

「いや、わしはお前さんに話があるんじゃ」

 重ね重ねになるが、と前置きして山じいは話し出した。

「お前さんには心の底から感謝しとるんじゃよ。なにかお礼がしたいがわしには財産なんてものはないし差し上げるような立派な物もない。じゃが、今はわしの頼みを聞いてくださらんか」

「頼み?」

「左様。わしはもう長くない。この齢になると自分の寿命は自分でわかるんじゃよ。今まで生きてきて、よい人生だったとかと聞かれればそうは思えないし、この世に未練などない。だが最後にお前さんと庵主さんに引き合わせていただけたことで、わしの人生も捨てたもんじゃなかったと思えることができた」

 そう言うと、山じいはまた手をすり合わせた。

「しかし、ひとつ心残りがある」

「心残り?」

 山じいは、また辺りをきょろきょろと見回し、静まりかえった部屋の真ん中で僕の耳に顔を近づけて小声になった。

「ええかお前さん、よう聞いてくれよ。わしの故郷、和歌山は南由路郡にある尾名川村に矢野々という小さな集落がある。大昔、都から流れてきたある武将の末裔が暮らす小さな小さな集落じゃ。じゃがある日、集落の中で諍いが起こった。きっかけはつまらんことじゃよ。本家と分家のよくある軋轢の話じゃ。その諍いの中、わしのバアさんが災いのタネであった先祖の残した財産を持って集落を飛び出したんじゃ。集落の者は総出でバアさんを探したが見つからんかった。いや、正確に言うと見つかったんじゃが、その時バアさんは生きては戻ってこんかった。三日ほどたって、村の遥か北の山で自刃したバアさんの遺体を駐在さんが見つけたんじゃ。ところが持って出たはずの財産はどこを探しても出てこなかった。集落の人間はそれこそ血眼になって財産を探したが、何の手掛かり一つ見つけられなかった。財産を失った本家は徐々に傾き、それにあわせるように集落の分家も貧しくなっていった。そんなわけでバアさんは集落の墓に入れてもらえず、村から離れた鎮守の森に小さな墓石を建ててそこに一人さみしく眠っているんじゃよ。わしは父と母を早くに亡くしてのう。バアさんはわしが不憫だったんじゃろう、親代わりになってわしを育ててくれたんじゃ。そんなことがあって集落の人間からは悪鬼のような扱いをされておったが、わしにとってはかけがえのない大切な人じゃったんじゃ。頼みというのは他でもない、わしが死んだら矢野々を訪れて、わしの骨をバアさんの墓に入れてもらえないだろうか。散々迷惑をかけておいて、この上まだ何を言うかとお思いになるじゃろうが、どうか哀れな老人の最後の頼みと思って聞き入れてくだされ。このとおりじゃ」

 山じいは額を畳につけてそう懇願した。

 僕は何も言えなくなってじっと手を見つめていた。

 そんな僕の手の上に山じいは手を重ねてきた。

 その手は思いのほか暖かく、久しく触れていなかった人の暖かさに懐かしさを覚え、僕はそのまま山じいのぬくもりを感じていた。

 しばらくして山じいの目を見つめ僕が頷くと、山じいは僕の手をぎゅっと握りしめ「ありがとう」と穏やかに笑った。

 それは、山じいがここへ来て見せた、最初で最後の笑顔だった。


 山じいが小さな壺に入って一か月と少しが経ち法要を済ますと、僕はあの日の夜、山じいから聞いた話を庵主さんに打ち明けた。

 役所の人が調べても山じいの本名も出身地も何一つ不明のままで、肉親はおろか親戚の一人も結局は見つからなかった。庵主さんは山じいを無縁仏としてお寺に葬るつもりだったようだが僕の話を聞くと、しばらく黙った後こう言った。

「そうですか。それであなたは行ってあげたいと思っているのですね。行ってあげたいが私は何と言うだろう、止められるのではないか。そう思っているのでしょう」

 庵主さんの声はいつも通り穏やかだった。

「行っておあげなさい。あなたにはあの方の思いが誰よりもわかるはずです。自分に似た境遇のあの方の願いを叶えて差し上げたいと思うのは当然のことです。道中気をつけて。そしてきっと元気に戻ってくるのですよ。私はここであなたの無事を仏さまにお祈りいたしております」

「庵主さん……ありがとう」

 僕には物心ついた時から父も母もいなかった。祖母は一人で僕を育ててくれ、僕の十一歳の誕生日の次の日にこのお寺のお墓に入るまで、いつも優しく、これ以上ない愛情で僕を包んでくれた。

 あれからもう二年が経とうとしている。

 僕は祖母の墓前に山から採ってきた花をなるべくたくさん挿して手を合わせた。

「ばあちゃん、行ってくるね」

 そう挨拶して僕は荷造りを始めた。

 山じいを木箱に入れるとリュックの一番下にそっと置く。

 衣類と地図、そしてばあちゃんが残してくれた少しのお金。

 旅立ちの朝、庵主さんがお守りとおにぎりを持たせてくれた。

「御仏のご加護がありますように」

「行ってきます」

 紅葉の時期を過ぎた山は、冬に向かってだんだんと殺風景になっていく。

 いつでも雪をまとえるように、葉を落とし小ざっぱりとした木々たちの中を、僕は少し緊張しながら、一歩ずつ下って行く。

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