歩道橋にて

 幹線道路を跨いで駅に向かって伸びる大きな歩道橋。その真ん中にある時計の下で、私は今日も彼を待っている。サークル型のベンチに腰掛け、ちらと時計に目をやると、現在時刻は7時29分。もうすぐだ。もう間もなく、私の王子様はやってくる。私は大きく深呼吸をしてその時に備える。この先は一瞬たりとも瞬きは禁止。目にゴミが入ろうが、虫が寄ってこようが、私は彼をこの瞳に焼き付けるまでここから離れない。


 来た!

 今日も7時30分に、彼は黒いスポーツウェアを身に纏い、長方形のバックパックを背負って、私の前を駆け抜けていく。バックパックに付けられたランニングシューズのキーホールダーが、彼の心臓の鼓動と同じリズムで揺れている。

 ああ、なんて素敵なのだろう。この一瞬のために私はここにいるといっても過言ではない。

 あの長い足。端正な横顔。真っ直ぐな眼差し。息遣いから腕の振りに至るまで、彼の全てが私の心を鷲掴みにして離さない。私はいまや、この歩道橋を毎日7時30分に駆け抜けていく彼という風を感じるだけの存在と化していた。



 彼と初めて会った日のことはよく覚えている。

 まあ、私の人生においてはその日が終着点だったから忘れようがないのだけれど。

 その日、私はいつも通り通学路であるこの歩道橋へと向かうスロープ前の横断歩道で、信号待ちをしていた。暑くも無く寒くも無い、時折どこからか吹く風が心地よく制服のリボンを揺らす、そんな10月最初の月曜日だった。

 きっと小テストの日だったのだろう。私は単語カードか何かを捲っていたように思う。ひと通り捲り終えたところでうーんと伸びをして、私は首を回した。その視線の先に、彼がこちらに走って来るのが見えた。私の通う高校からもう少しだけ駅から離れたところにある陸上部の強豪校のジャージを着て、彼は真っ直ぐに、歩道橋に向かって走って来た。

 整った顔の人だな。そんな事を思った気がする。

 そして、赤信号に気づいた彼がスピードを緩め私の目の前に来た瞬間、路地からバイクが猛スピードで現れた。

 危ない!

 私は何を思ったのか咄嗟に彼の前に立ちふさがった。そして結果的に、私は彼を庇うような形になって、そのままバイクに跳ね飛ばされた。痛みを感じる隙も無く、スローモーションのようにグルンと視界が一回転して、私が最後に見たのは、横倒しになった私を轢いたバイクの赤いテールランプだった。

 そして気づけば私はこの歩道橋にいた。

 最初は自分が死んだなんて分からなかったし、救急車やパトカーがどんどん来て騒然とする現場に、何だか大変なことになったぞと他人事のように空からそれを眺めていた。その後のことはあまり思い出したくはない。泣き崩れる両親や友人の顔を思い出すだけで私の胸は締め付けられそうなぐらい苦しくなるから。



 あれから二年。私は毎日ここを走っていく彼を見て、毎年10月の私の命日に手を合わせに来てくれる彼を待っている。

 彼は今年も来てくれるだろうか。今年ももうすぐ10月がやってくる。事故現場である歩道橋へと向かうスロープの手前、いまだに毎週母が新しい花を供えてくれるその場所に、彼は誰も居ない時間を見計らって現れる。その日だけは黒いスーツで、手に小さな花束を携えて。


 今年のその日の午後、夕方近くになって西日に照らされた彼が神妙な面持ちで現れた。

 彼は花束を丁寧に供え、目を閉じたまま長い間手を合わせた。

 私は今年も来てくれた彼に「ありがとう」そう呟いた。

「えっ?」

 彼は目を見開いて驚き、顔を上げた。

 私も驚いて思わず「えっ?」と聞き返す。

 私の声が聞こえた?まさかね。そんなはず無い。だって私はもう亡くなっているんだもの。

 彼はしばらくきょろきょろと辺りを見回していたが、周りに誰も居ないのが分かると恥ずかしそうに頭を掻いて、そして、少しだけ笑った。

「そんなわけないけど……キミの声が聞こえたような気がしたよ。でも、ああきっと。キミだったんだね。キミがお礼を言ってくれたんだ。うん、そうにちがいない。お礼を言わないといけないのはこっちなのにね」

 彼は目を細め、空を眺めて呟いた。

 それは、あたかもそこにいる私に話しかけるようで、私はなんだか嬉しくなって、思わず彼に話しかけた。

「ねえ、知ってた?いつもこの先の歩道橋を走り過ぎていくあなたを私は見ているのよ。一日たりとも欠かさず、365日ずっとよ。そして、私の命日にはこうやってお花を供えに来てくれるのも知ってるんだから」

「あれからもう二年が経つんだね。キミに助けてもらったおかげで、僕はまだ陸上を続けられている。僕はまだ、走り続ける事が出来ているよ」

「そう、もう二年。早いわね。高校一年生だった私たちがもう最上級生になってるんだもの。でもあなたが無事で本当に良かった」

「最初はショックで走ることなんて出来なかった。キミへの罪悪感と申し訳ない気持ちでいっぱいで、走ることはおろか、二度と立ち上がることも出来無いぐらい、僕はしばらく部屋に閉じこもって、ベッドから起き上がることさえしなかった」

「そうだったわね。最初のひと月ほどは、私はなぜ自分がこんなところにいるのかも分からずに、あの歩道橋のベンチに座って、ただ空を眺めていた」

「だけど、ある日キミのご両親が僕を訪ねて来てくれた。まだ心の整理がつかないと仰っていたけど、キミのお父さんとお母さんはいかにキミを愛していたかを話してくれた。それはいつになっても変わらない、きっと今だって変っていないだろう。そして、そんな愛情のおすそ分けを僕にくれたんだ」

「そう、私の『形見』ね。今はあなたのバックパックで揺れている、あのスニーカーのキーホルダー」

「キミが駅伝ファンだったってこともご両親から聞いたよ。だから僕はまた走り出せたんだ。くよくよしてるヒマなんて無い。走らなくちゃ、キミのために。ってね」

「良かったわ。立ち直ってくれて。あなたがあのまま閉じこもったままなら私……」

「そこからは遮二無二走ったよ。走って走って走り続けたおかげで、今じゃ全国大会のアンカーを任されてるんだ。自分でも信じられないよ。そして区間新記録を出したこの間の大会のあと、東京の大学から誘いがあったんだ」

「本当に?すごいじゃない!ああ、夢みたいね。あなたの努力のおかげよ」

「来年、僕が東京に行けば今までのように毎日ここを通れなくなる。命日の日は絶対に帰ってくるけど、それでもキミは許してくれるかい?僕の背中を、押してくれるかい?」

「何を言っているの?ええ、ええ。もちろんよ。私はあなたの足枷にはなりたくないの。だからお願い。どうか私に構わず、あなたは走り続けて。私に引け目を感じる必要なんて無いのよ。遠い空の上から、あなたが走る姿を、私はいつだって応援しているわ」


 私たちはしばらく見つめ合った。彼には私が見えていないだろうけど、彼の真っ直ぐな眼差しはその時、間違いなく私に向けられていた。


『ありがとう』

 どちらともなく出た、彼と私の声が重なった瞬間、私の体がふわりと浮きあがった。

 あれ?何これ?私の体はふわりふわりと空高く昇っていく。

 けれど、何となく私には理解が出来た。ああ、きっとお別れの時がきたのね。

「さようなら」

 私は彼に向かって大きく手を振る。

 やがて、彼は歩道橋に背を向けて走り出した。

「頑張って」

 その背中に、願いを込める。

 そう、私には見れなかった未来。

 これから向かう先にある、長い長い人生のゴールテープを切る日まで、あなたはまっすぐ走り続けていてね。

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