第9話 教室、シオンと〇〇〇

 あの暗闇が脳裏にこびりついて離れない。


 心を完璧に奪われてしまった俺は酔っぱらいのようなおぼつかない足取りで教室へ戻る。


 カエデとは長い付き合いだが、俺たちは微妙なバランスで曖昧な関係を保ってきた。何度か妙な雰囲気になったことはあるが、一線を踏み越えたことはない。


 だがしかし、さっきのは過去イチやばかった。2人きりのときにあんなことをされたら……俺は俺の中の獣を封じておく自信はない。そいつは「解放しろ!」と心のドアをガンガン叩いているのだ。


 落ち着いて考えよう。

 ポッケの中の布地を握りしめる。


 もしもカエデがDIOだとする。とすれば、カエデは時間停止してシオンのパンティを脱がし俺の手に握らせ、最後にはそれを自身のパンティを交換するというトンデモナイ変態女ということになる。


 まあ、理解できなくはない。時間停止能力を得たカエデならやりかねない。


 もしもシオンがDIOだとする。とすれば、シオンは時間停止してパンティを脱ぎ俺の手に握らせ、そのうえで恥ずかしがってるふりをするトンデモナクあざとい女ということになる。


 うーん。あり得なくはないが……俺の知っているシオンとは少し違う。奴はそんな演技なんてあまりしない。


 どっちだ。


 どっちにしても――DIOは淫乱女だ。


 手の震えがまだ止まらない。

 膝をガクガクいわせながら廊下を歩いていると。


「コウくん、ごめんっ!」


 シオンだ。両手を合わせて頭を下げながら突っ込んでくる。つむじが俺の腹に突き立った。


「ゴフッ! ――謝りながらタックルしてくんじゃねえ」


「ごめんごめん! ――ほんとにごめんね? そんなボロボロになって……カエデちゃんに相当絞られたみたいだね。わたしが話したばっかりに、こんなことにはなると思わなくて……」


「ああ、まあ気にすんなよ」


 失ったものもあれば、得たものもある。そういうことだ。最初はぐちゃぐちゃにしてやると思ったが、今はなんともない。


「俺が仏並みに寛大な心の持ち主でよかったな」


「アーメン!」


「それはキリスト教な」


「――ちょっとこっち来て」


 窓際に押しやられる。


 シオンが肩をぶつけてきてくっついてきて、体で通行人からの視線を遮るように壁を作る。なにやら内緒話があるらしい。夏の空みたいな色の瞳が美しくて息を呑む。


「カエデちゃんにどんなことされた?」


「それはもう地獄の責め苦だよ。身の毛もよだつような恐ろしい所業……思い出したくもない」


「そっかあ、ごめんね。申し訳ないからさ、やっぱりこれあげるよ」


 にへらと笑う。


 子どもが捕まえた虫でも披露するように、閉じられた両の手のひらから現れたのは――黒いパンティ。


「その、好きなん、でしょ? これ」


 シオンはもじもじと体を揺らす。


「恥ずいけど、コウくんがどうしても持っておきたいって言うならあげる。わたしのせいで叱られたんだし」


「…………」


 俺は見惚れていた。

 そのつややかに輝く漆黒の布地に。


 ポケットの中のカエデのパンティを握りしめる。それはまだ確かにそこに存在していた。これを得るための代償として失ったはずのそれ。どちらか一つのはずだった。二つを同時に手にすることはできないはずだった。


 しかし――泣く泣く手放した宝物は自ら俺の下へ帰ってきてくれたのだ。


「ねえ、なんか喋って、コウくん。目が怖いよ」


「どうしても欲しい。シオンのパンツをどうしても持っておきたいんだ。どうか俺にくれ。頼む。これのことが――好きなんだ」


「ええ? えへへ。なにそれ告白? あんまり嬉しくないなあ。……とにかくあげるね。ごめんなさいの気持ちだから」


 人目をはばかりながら廊下で行われる、秘密の受け渡し。


 周囲に目をやる。誰もここでパンティが取引されているなんて知るはずもない。


 手で隠しながら、俺の手の上に乗せて、握らせてくれる。見えない。だがそこにある。数分前に失ったはずのそれを、俺は再び手にした。


「じゃあそういうことだから。――嗅ぐのはナシね」


 知るか。これは俺のもんだ。思いっきり顔に押し当てて、息を吸い込む。


「すうっーーーーっ」


「ちょっとダメダメダメ! 嗅ぐのはダメだって!」


 なんだか甘い匂いがする。やばい興奮してきた。麻薬でも染み込んでんのか。


「すうーーーーーーーーーーっ」


「ダメだってーッ」


 本日二度目、ゆでダコみたいに赤くなるシオンの顔。しかしそれはスパイスにすぎない。俺の腕を掴んで引き剥がそうとするが、負けるわけもなかった。


「すーーっ。よし。――教室戻れよ。授業始まるぞ」


「へ、へんたい……」


 座り込んだシオンを廊下に置き去りにして自席へ戻る。カエデはいつものクールな無表情で教科書を捲っていて、彼女の献身が守られた側の人間によって無意味となったことは気づいていない様子。


「カエデ。ありがとな」


「……何が?」


「何でもない。気にしないでくれ」


「……へんなの」


 ふっとニヒルに笑って――ニヒルの正しい意味は知らないがともかくかっこいい感じに――カエデに背を向ける。俺の背中には男の渋みが鬼の顔のごとく現れていることだろう。


 両手をポケットに突っ込む。

 右に白、左に黒。2つ合わせて完全なり。


 アキに声をかける。


「お前の仇はとったぞ。今度こそな」


「……どういう意味?」


 チャイムが鳴り教師が入ってきて、頬の赤いシオンも駆け込んでくる。


 俺は2つの宝を握りしめた。

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