文章を書くに才能は必要か?

三輪徹男

本編

 これを読む方の大体は、果たして自らに小説を書く才能はあるだろうか、なかったとしたら自分はどのように創作と向き合えばよいのだろうか、どうしたら才能ある人に負けない作品をつくれるだろうか、などと思っている方でありましょう。文章を書くに才能は必要か、という題名にもある疑問に寡聞ながら私が申するとすれば、やはり最低限は必要になってくるというのが見解であります。と言いますのは、たとえば猿に紙とペンを持たせたところで文字を書くことなど、……まして物語を綴ることなど絶対に出来るわけはないのでありまして、そういった意味においては才能は絶対に必要なのであります。

 逆に申しますと、執筆をする上で一般の方と格別した才能や環境などというものはまったく無用なのであります。なにせノートと筆記用具さえあれば世界中何処にいても小説を書くことはできるのですから、発展途上国や数世紀も前の時代だったならばまだしも、文字を書けず筆記用具もノートも買えないほどの貧困者がほぼほぼ居らぬ今日の日本では、質はさておき誰にだって文章を書くことができましょう。


 とはいえ、分かっております、恐らく読者諸君のおっしゃる「才能」とか「文章を書く」ということは、以上のような事柄を意味するのではない。それはたとえば、かつて文壇に名を馳せた文豪のような上手な文章を書いたり、本屋の入り口に並べられているようなベストセラー小説を書くことだったりであって、無論誰にでも出来ることではない。そこに弛まぬ努力はもちろん大前提として、生まれながらの才能は必要であるか否か、そして才能がなかったとき己は創作を絶対に諦めなければならないのか、………諸君が私、私でない誰かに尋ねたいのはそういう部類のものでありましょう。

 その観点に立って申しますと、才能があればたしかに幾分か有利になります。文章の書き方というものが生まれながらに分かっていて、事物に対する観察眼が養われていて、つねに感性が鋭く冴え渡っている。ここで私の言う才能とはつまりこういうことを言いますが、では創作には必ずしも文章の書き方が生まれながらに分かっていなければならないのか、事物に対する観察眼が養われていなければならないのか、つねに感性が鋭く冴え渡っていなければならないのかというに、そういうわけではありません。むしろそうでないことがその人の個性となっている場合も少なくない。

 そしてこれらは後天的に養うことのできるものなのであります。それには出来うる限りのことをなんでも、情報の信憑性など関係なく己が信じたものを試してみるとよいでしょう。才能ある人の文章を写経してみたり、休みの日には何処か心休まるところや美しいものを見に行き、夜は早くに寝て朝も早くに起きる。大体文章に秘められる無自覚的なある匂いというのは、ほとんど作家自身の生活に根強く関係しているのでありまして、力強く規則正しい文章を書く人はけだし健康的な生活をする人に多く、じめじめとした陰湿な文章を書く人は私生活もまたそういう感じがするものであります。太宰治が第一回芥川賞落選を巡って川端康成に腹を立てたという話は有名でありますが、私が思うに川端の選択は正しかった。勘違いされるやもしれませんがこれは好むと好まざるとに関わらない話でありまして、私生活のだらしない人は、必要以上に己が作品に入り込んでしまうことが珍しくない。それはだらしない私生活そのものがある種日本文学的であるからであり、文学と作者とが一体となってしまっているのが悪い方面に影響してしまっているのであります。

 しかし昨今の世間の情勢において、仕事や趣味だけに一途にのめり込むことはよろしくありません。いちいち私が説明せずとも社会人、まあ学生でも承知しておりましょうが、昔と違って人が人たりえる生活を営むことは難しいのであります。仕事のみでは体を壊し、趣味のみでは身を崩す。生活と文学とがここまで区別されてしまっている現代、我々作家は苦境に立たされているのであります。一世紀も遡れば文学は社会に対する態度というものを表すに最適でありましたが、個人主義、自由主義、多様性が猛威を振るう現代では私個人の社会に対する意見や態度などは見向きもされません。文壇は衰退して、一部の大衆向け作家以外は生活と芸術との双方を両立させねばならず、それには作家活動を副業として別の本業を建てたりせねばならない。かの三島由紀夫なども本当の作家活動とはべつに、商業主義的な作品をつくったりもしているので、その風はその時代から吹きはじめていたのかもしれない。

 少し話が逸れましたが、畢竟才能なんぞはあってもなくても、創作活動を続けていく上ではぜんぜん障害にならないのであります。むしろ諸君が考えるべきは私が今話したような「生活と創作の両立」そして「文壇の再生」であって、決して自身に才能があるかどうかなどということではありません。そんなものは馬の糞ほどにも役立たない、考えるだけ仕方がないものであります。思うに作家に限らず、最近の若者は悩むも無駄なことを悩みすぎなのであって、悩むべきものと悩んでも仕方がないものとをきちんと切り分ける術を学ばなければならない。「嫌われないかどうか」「失敗しないかどうか」、そんなものは悩んだところで一歩も前に進まぬどころか、却って自分の周りに壁を建てて自ら八方塞がりに陥っているのであります。そしてそれは当然才能に悩む諸君についても言えることであります。

 ひとまずは健康的な生活を心がけること、それからなんだかんだで重要なのは文学のみに囚われないことでありまして、これは生活との両立を言っているのではなく、べつの趣味や極める道を見つけろ、と言っているのであります。私のツイッターでも似たようなことをツイート致しましたが、著名な作家の大抵は文学以外にもさまざまなことに長けておりまして、たとえば村上春樹は英語が得意で米文学やジャズに造詣の深く、三島由紀夫は剣道四段や自衛隊への体験入隊など文武両道を体現しておりました。森鴎外は作家の他に陸軍軍医も勤めておりましたし、夏目漱石は英語教師を数年ほど勤務したのち英語研究を目的としてロンドンへ洋行しております。芥川龍之介は文学を志す者に「数学をやれ」とおっしゃったことがあるとかどうとか。………。


 以上のことはなにも小説のみに言えることではなく、創作全般、ひいては創作とは全く関係のないことにも言えることであります。ここにおいては己の才能に関することしか申しませんでしたが、創作を続けていれば必ず突き当たるであろう他者との才能の差との折り合いの付け方は、遅かれ早かれ諸君が必ず悩むものであります。が、創作とはどこまでいっても自分との戦いでありますから、これといった正解はない。それゆえに何を決めるも誰の助言を受けるも受けぬも自由であるということを、肝に銘じておけばよろしいでしょう。

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