第6話 相対するもの

 今度は別の村で、

「対になっているものが、村を二分している」

 という勢力があるところがあった。

 その勢力というのは、まずは、

「二大勢力と呼ばれるものとして、二つの家が、対立して、村の雄」

 というものを争っていた・

 その勢力は、この土地において、

「お互いに、潰れることもなく、それぞれに、均衡した勢力を持ち続けられるのか?」

 というと、それは、

「時代によって、必ず、その勢力が、定期的に、シーソーのバランスを保つことなく、反対の勢力に傾いていく」

 ということからであった。

 お互いに均衡を保ったままであれば、その均衡を保つ力が強すぎるがゆえに、その最大級の力を抑えることができず、耐えきれなくなって、壊れてしまうのは、時間の問題だということになるのであろう、

 しかし、この勢力が、ある一定の期間ごとに、

「あっちにいったり、こっちにいったり」

 するということは、

「力の均衡が全体をぶち壊す」

 ということがないだけに、

「一番いい方法」

 ということで、その理由は、

「それ以外に、方法はない」

 ということで、結局は、

「実はうまくいくようになっている」

 ということなのかもしれないのであった、

「日本における勢力というのは、結構二分されていることが多い」

 つまりは、

「二大勢力の力が均衡することで、力が分散され、お互いに抑止力になる」

 ということだってあるということになるのであろう、

 日本の歴史においても、それは結構あるもので、

 古代からすれば、

「蘇我氏と物部氏」

「源氏と平家」

「武田信玄と上杉謙信」

 などというように、それぞれにライバルがいたではないか、

 ということは、歴史が先に進むためには、そういうライバル関係にいる存在がなければ、

「時代は渋滞してしまう」

 といってもいいだろう。

 だから、

「歴史が動く瞬間には、必ず、そういう二大勢力が暗躍し、戦争となったりするのではないだろうか:

 もちろん、そのことについての、

「いい悪い」

 というのは、誰にも決めることができない。

 しかし、それで、

「歴史というのは動くのだ」

 それを考えると、

「何が歴史の真実か?」

 ということは、必ず、歴史上の事実とされることの中に、隠されているといっても過言ではないだろう。

 さらに、その村には、

「医者」

 であったり、

「寺院」

 そこに対抗しているものとしては、

「神社」

 だったりする。

 つまり、

「曖昧な存在のものまで、相対的な相手」

 ということで判断するので、それは、一種の、

「対抗勢力」

 ということになるのだろう。

 それを、まるで、

「仮想敵国」

 という考え方になるのも、無理もないことで、

「仮想敵国」

 というものの存在が、部隊における、

「士気の高まり」

 というものを維持しているといってもいいだろう、

 つまり、相対的なライバルというものの存在は、ある意味、必要不可欠であり、そこに、一種の、

「抑止力」

 というものが潜んでいるといっても過言ではないだろう。

 日本という国は、今までにも、相対する勢力が潰しあうという歴史を作ってきた。

「大化の改新」

 における、

「乙己の変」

 しかり、

「源平合戦」

 と言われる、

「治承・寿永の乱」

 であったり、

「応仁の乱」

「関ヶ原の戦い」

 などが、二大勢力による、全国を巻き込む戦だったといってもいいだろう、

 近世になっても、軍には、必ず、

「仮想敵国」

 というものがあった。

 たとえば、

「陸軍であれば、ロシア、その継承国であるソ連」

 そして、海軍などは、

「アメリカ」

 だったりするのだ、

 それが、結局は、

「軍の士気の低下というものを防ぐという意味でも、必ず必要だったのだ」

 そのため、その感情が、過剰防衛を招くことによって、列強を刺激することになる、

「中国本土に対しての侵攻」

 などというのは、どこまでが、大切なことなのか?

 ということになるのであろう。

 結果、日本は、アメリカに、

「引きずり出されるという形になり、戦争へと突き進んでしまった」

 ということであった。

 だから、この村にも、昔から、

「2大勢力」

 というものが存在し、

「力の均衡」

 というものを保っていたのだ。

 そんな

「二大勢力」

 というものが残っているところでは、

「それがどこでも、当たり前のことだ」

 と思っているようだ、

 しかも、その村の近くでは、

「うちの村では、双子が生まれる確率が高い」

 ということを、まわりの街ではウワサヲされているようだった。

 しかし、だからといって、その村で、

「うちは、双子が多いんだ」

 ということを気にする人は誰もいない。逆に。一人っ子が生まれると、

「えって、お宅、一人っ子なんですか?」

 といって、驚かれるくらいだ、

 それは当たり前のことであり、自分のところが、当たり前のことだと思いたいことから、自分の村が、

「双子が多い」

 という時、双子が生まれるのは当たり前だと思っているので、

「一人っ子が生まれたらどうしよう?」

 と思うことはないだろうから、逆にそうなった時、まるでいきなり起こってしまったことのようで、それを慌てふためいて、どうしていいのか分からないだけで、かといって、人に黙っておくこともできない。

 何しろ、人の口に戸を立てられるほど、小さな村であった。

 だが、この村の周りは、必ずどこか、

「一般的な村」

 に比べて、違うところがあって、しかるべきところといってもいいのではないだろうか?

 それを考えると、

 そんな村において、今度は、さらに別の村に、今度は、

「3大勢力」

 というものが問題になっているところがあった。

 この村の場合は、

「2大勢力」

 ということだから、

「2大くらいであれば、当たり前に存在している」

 ということで問題にならないのだが、これが、

「3大勢力」

 ということになると、それぞれにパターンがあったりする、

 それこそ、二つのパターンがあり、それが3つの勢力に分かれているということで、

「3×2=6」

 ということで、

「6組」

 ということになるのだ。

 それぞれのパターンというのは、

「三すくみ」

 ということと、

「三つ巴」

 という考え方である。

 例えば、

「三すくみ」

 というと、言い換えられる言葉でいえば、

「抑止力」

 といえるのではないだろうか。これが

「三すくみ」

 ではなく、

「2すくみ」

 であれば、

「抑止力」

 になるのだろう。

「ただそれは、決してありえないことである」

 と考えられるのだ。

「三すくみ」

 というものは、じゃんけんであったり、

「ヘビ、カエル、ナメクジ」

 のように、どれか一つの支店から考えて、

「片方には強いが、もう片方には、弱いという関係性が、三つにそれぞれあって、それは、一つの大きな均衡を保っている」

 ということになるのだ。

 だから、その均衡は、抑止力ということになり、

「三すくみの関係が、普遍的なものであれば、それは、

「絶対的な抑止力」

 というものになる。

 それとは違い、三つ巴というのは、

「三つの関係性はまったくすべてにおいて、同じ力しか存在していない」

 ということで、それぞれに、それぞれだけでも、均衡が保てているということだ。

「三すくみ」

 の場合は、それぞれの均衡を、三つがそれぞれに持っていることで成立するというわけなので、

「三つの力が形を変えずに均衡していさえすれば、永遠に三すくみが消えることはない」

 ということになる。

「三つ巴」

 というのは、すべてに同じ力が存在しているのだから、これが、

「3つの組み合わせ」

 である必要はなく、

「2:2」

 でも成立することである。

 だから、どれか一方が崩れても、お互いに抑止力を持っているとすれば、2つであっても、関係ない。ただ。

「3大勢力」

 というものが、

「2大勢力」

 というんものになるだけのことであった。

 ただ、

「三すくみの場合はそうではない」

 一角が崩れるとどうなるかというと、その力関係は、均衡が崩れ、その2つの力関係が、ものをいうことになるというわけで、

「強い方が、勝つ」

 という、当たり前の弱肉強食になるのであった。

「弱肉強食」

 というものを、勧善懲悪で、

「それはいけない」

 などということになると、その理由付けとして、

「三すくみの一角が崩れた」

 ということにしてしまうと、何とか理由付けができるのではないだろうか?

 要するに、

「三すくみの場合、自分が助かるためにはどうすればいいか?」

 ということであれば、結論からいえば、

「動いた方が負けということになるので、何とか、自分が襲おうとしているやつを刺激して、自分の天敵を襲わせる」

 ということにするのだ。

 これは、要するに、

「動いた方が負け」

 ということであり、動いてしまったことで、自分が強い相手に向かうのは当たり前のことだ。

 自分を襲おうとするやつが襲ってくることはない。なぜなら、襲われているのは、

「自分が苦手」

 としている相手ではないか、

 だから、相手はじっと待っていて。自分の天敵がいなくなった瞬間、生き残った。自分が餌にしている相手をゆっくり食えばいいのだ。

 それだけ、力関係の均衡が壊れると、残った力がどこになるのかということを、、考える必要があるということであった。

 この村における

「相対するもの」

 というのは、

「対を成す」

 というものであり、以前から、

「この村では、双子が生まれてはまずい」

 と言われていた。

 つまりは、

「近くの村とは、まったくの逆である」

 ということであり、これはどういうことかというと、

「その村の人間と血を混じらわせてはいけない」

 ということになるのだ。

 その村とは、前述の、

「双子が生まれることが普通だ」

 と言われる村で、この村とはお互いに、

「これが普通のことなんだ」

 と言い合いをしているほどの、

「犬猿の仲」

 といってもいいような関係であった。

 だから、最初は気づかなかったが、

「考えてみれば、あの村の人間と結ばれれば、どちらかにとって、まずいことになる」

 と言われている。

 しかも、規則性が分からないのだ。

 たとえば、

「男が、この村だったら、双子は生まれない。逆だったら、双子が生まれる」

 ということであるならば、

「男主導の血のつながり」

 ということになるが、逆であれば、

「母体衆道」

 ということになり、それを考えて結婚すればいいことであった。

 だから、

「規則性が分からないのであれば、この村と、あちらの村との交流を辞めるしかない」

 ということで、今では、まったく交流がない。

 この辺りの村では、

「もし、そんなことになるくらいであれば、近親相姦でもいい」

 というほどだったのだ。

 この村では、

「近親相姦」

 ということに、それほどこだわっているわけではない。

「杞憂だ」

 とは言われるが、

「双子が生まれてしまうよりはまだマシだ」

 ということである。

 ただ、かつて、一度、お互いの村の男女が愛し合ったことで、子供ができたことがあった。

 最初は村人は誰もしらなかったが、

「この村で双子が生まれるわけはない」

 ということで発覚したのだが、その時は、

「女が自分の家で出産したので、余計に、男が、あちらの村の人間だった」

 ということが分かり、子供は、

「親せきのところに里子にやった」

 ということであった。

 その時の二人はさすがに双子、お互いに似たところがあり。この時から、

「お互い、もう一人の対の人物というものが、この村で生まれるようになったのだ」

 この時は双子になってしまったが、

「これ以上の双子は、出してはいけない」

 ということで、相当厳しくなっていたのだ。

 この時の二人は追放となったが、この村では、この話が伝説となり、他には漏らさないように、厳重だった。

 だから、あちらの村でも、このことを知っているのは、ごく一部だけ、時代が進めば、あっという間に知っている人はいなくなってしまったのだ。

 この村の

「対になった関係」

 というもの、それが、いわゆるこの村においての、

「悪魔の紋章」

 というものを描き出していたのである。

 そんな村から見た、

「あちらの村も、実は、かなり

「厄介な村」

 であった、

 それがどのような村であったのかということは、次章にゆだねることにしましょう。


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