第32話 そのトリガー


――学校の教室。朝、登校し机に突っ伏していると聞きなれた声がした。


「おっす、春!こないだはお疲れ~」


教室の自分の席へつく田中。眠たそうにあくびをして目をこすってるのはまた朝早くから部活をしていたからだろう。


『こっちこそありがとう。チケットのノルマを達成できた』


「おー、礼なんか別にいいよ。すっげえ楽しかったし。ってか、あれな!お前が手伝いに入ってたってバンドくそヤバかったな!!なんかこう、上手く言えんけどすごかったわ!!特に歌ってる奴、『バネ男』だっけか?あいつの歌すげえなマジで!」


そう言って満面の笑みを見せる田中。こう真正面からドストレートに褒められるとどこか感情がむず痒くなり目を合わせていられなくなる。要するに照れくさい。けど……まあ、楽しんでくれたならよかった。


「姉ちゃんもさあ、一曲目が始まった瞬間にボロボロ泣き始めてさぁ!最後の曲とか失神しかけてたから大変だったわ」


失神!?


『大丈夫だったのか?』


「ああ、一緒に観てた高橋と二人で姉ちゃん支えてたわ。絶対最後まで観るって言い張ってたから、三曲目終わってすぐ休ませたけど」


『そうか。無事ならよかった』


も、もしかして体調悪かったのかな。無理してきてくれたんじゃ……あ、そういやお姉さんにチケット買ってもらったお礼してない。田中に伝えといてもらうか。


『お姉さんによろしく言っておいてくれ。チケット買ってくれて礼を言っていたって』


「ん?ああ、わかった。っていうか姉ちゃん言ってたぜ。またライブあったらチケット欲しいって」


え、マジで。


「俺もまた行きてえし。だから今度もまたライブあったらチケット売ってくれよ」


その言葉に僕は嬉しくなる。またライブに行きたい。それは今回の公演がお世辞ではなく気に入ってもらえたということで、本当に楽しんでくれていたという事。やってる側にしたら最大級に嬉しい誉め言葉だ。


『わかった』


僕はノートにそう書き、ありがとうの意味を込め笑って見せた。


「ねえ、今『バネ男』のライブって聞こえたんだけど」


唐突に後ろから声をかけられ僕と田中はびくりと肩を震わせた。この威圧的な声は……。

振り返るとそこには僕の幼馴染、浜辺 秋葉だった。彼女は鋭い眼差しを僕に向け再び問いただした。


「ねえ、聞いてる?」


相も変わらずな冷たい声色。だけど気のせいか、その眼差しはどこか優しい色味を見せているように感じた。


「あのよー、それが人にもの聞く態度かよ、浜辺……急になんなんだ」


「あ、ごめん田中。私こっちの人に聞いてるの」


「……こ、こいつ」


僕を指さす浜辺。田中がむっとしたのを差し置き彼女はまた僕に同じ質問をした。


「それで……ライブ、したの?」


どうやら今ので教室にいる人たちから妙な注目を集めてしまったようだ。クラス中の視線がこちらに集中し居心地が悪い。だから、答えた。答えればすぐに去ってくれるだろうと思い僕はノートに返事を書く。


『ああ』


ノートを見せると秋葉は眉を顰めた。


「……そう。って言うかもういい加減喋ったら?」


秋葉は幼稚園の頃から一緒だった。そこから小、中、高とここまで同じ学校に通う長い付き合いの幼馴染。だから僕が普通に喋っていた頃を知っているし、喋れることも普通に知っている。勿論、こうなってしまった理由も。


「田中は……なにも思わないわけ?」


「え?」


「友達にすら口をきかないとか、さ」


「そりゃなんか事情があんだろ」


「……ただ怖いだけでしょ……」


「怖いだけ?」


田中と秋葉が僕を見る。何かを……いや、答えを求める視線。覚悟はできている。あのライブのあと、大切なモノを守っていこうと思ったあの時から、そこに生じる全ての不利益を受け入れるという覚悟を。


(……でも、今じゃない……)


――もっと、『僕』という存在を大きく、効果的に使うには……今この場ではない。どうにか切り抜けたいとこだが。


「ねえ、浜辺、田中君――」


と、そこで思わぬ助けが来た。


「もう朝のホームルーム始まるよ。その辺でやめた方が良いんじゃないかな」


「お、高橋」


割って入ったのは高橋 春斗。この学校一のイケメンでありネットやSNSで活躍するインフルエンサー。浜辺たちの憧れ。


「先生来ちゃうからさ。ね、浜辺。席座ろうよ」


「……あ、うん」


秋葉の顔が曇る。いつもなら高橋君に声を掛けられようものなら満面の笑顔で対応する彼女だが、どうしたことかその表情は暗い。浜辺は顔を背けると自分の席へとついた。


『ありがとう』


そうお礼の言葉を書いたノートを高橋君にみせると、彼はにこり微笑んで自分の席へと戻った。こういうところが好かれている要因なのだろうか。性格までもがイケメンとか天が二物を与えすぎている件。しかし浜辺の高橋君に対するあの態度……謎だな。


――ただ怖いだけ……か。


秋葉の言葉がぼんやりと心に浮かぶ。あいつは多分、あの日からずっとそう思って僕の事をみてきたんだろうな。





お昼休み。僕は屋上で秋乃を待っていた。


「……やっほ。今日もいい天気だねえ」


いつものように屋上の更に上の方で待っていると、彼女がひょっこり顔を出す。来るのはわかっていたけれど少しびっくりする。


「うん。まあ、ちょっと暑いくらいだけど」


「だねえ。汗がやばいよね」


ぱたぱたと手で仰ぐ秋乃。ちょっと辛そうに見える。早くクーラーのある室内に戻してやらないとな。暑いからこそ屋上に人が来ないからこの場所が良いっていうのもあるけど。

……秋乃、普通だな。いつも通りで昨日の事が尾を引いている様子も無く、僕は少しほっとする。

彼女は僕の隣へ腰を下ろし、同じように街並みを眺めた。遠くで走る青い車。車種もわからないが目を惹かれる。対して秋乃の視線は上へと向かっていて、空を眺めているようだった。透き通るような澄んだ青。けれど遠くから雲が流れてきているのがみえ、雨を予感させた。


「秋乃、昨日の件なんだけど」


僕は口を開いた。


「うん。バンドの話だよね」


「そう。メンバーを探さなくちゃいけないんだけど」


「……うん。もしかして誰かあてがあるの?」


「無いな」


「そっか……って、無いのかーいっ!」


軽く僕に手を当てツッコミを入れる秋乃。


「だから相談したかったんだ」


「相談?なに?」


「この間のライブで組んだバンドそのまま復活できないかな」


「あー……それはちょっと無理かなぁ。月島さんって結構忙しいし、黒瀬さんはお店畳む準備しないとみたいだしね」


「そうか。まあ、そうだよな。普通に考えて」


「あとこれは個人的な考えだけど歳が近い方が良いんじゃないかと思うよ」


「そうなのか?」


「うん。ほらやっぱり時代とともに曲の風潮とかが変わるでしょ。そういうので好みが違ってくると思うんだ。こないだやった三曲も多分あの二人はあたしがやりたいって言ったから付き合ってくれたんだと思うし。ずっとやっていくってなったら同年代で音楽的に合う人が良いんじゃないかな。音楽の方向性とかもさ」


「まあ、そうだな。好きでもない曲をやり続けるのは難しいかもな」


「そうそう。ずっとってなったら辞めたくなっちゃうよ」


冷静に考えて、そうだろうな。一緒にやるにしても音楽の方向性が同じじゃなかったらそのうちきつくなる。それが原因でバンド解散とかよく聞くしな。そこで僕はふと気が付く。


「っていうか待って」


「ん?」


「時貞さんお店畳むってマジ!?」


「いや今!?遅!?反応遅すぎるんですけど!」


ええ、っと困惑する秋乃。


「普通に知ってるからスルーしたのかと思った……そっか、知らなかったんだね、春くん」


「全然知らんかった」


「でもあれ?夏樹ちゃんにも聞いて無かったの?」


「あいつと再会したのはこないだのライブの時だったし」


「打ち上げで連絡先聞いてたじゃん」


「まあ……。でもその話は今聞いたのが初めてだよ」


なんかの時の夏樹、微妙な反応だったし。あんまり連絡しない方が良いのかなと……。


「へぇ……そっか」


「?」


目を細め指先をいじる秋乃。その妙な反応に僕は首を傾げる。だがそれ以上に、時貞さんがお店を畳むという話が気になった。


「しかしそうか。あの『華魅鮨』が……」


ふとあの日の光景が過る。もしかして奥さんの姿が見えなかったのも関係あるのか?


「あ、そうそう。そういえば、夏樹ちゃんって女の子だったんだね」


「あ、うん……僕もずっとあいつの事男だと思ってたからな。びっくりした」


あの日、夏樹と再会するまで知らなかった。気の合う男友達だとしか思っていなかったあいつが実は女だったなんて。でもマジで気が付かないくらいのどっからどう見ても男の子だったし。服とか雰囲気とか全部。


「……へー、でもそんな事ある?結構遊んでたんでしょ?」


え、なんか圧あるくね?ちょっと怖い。


「いや……まあ、って言っても夏樹と遊んでたのは小学生の頃だからな。それに学校も別だったし、遊んだって言っても父さんが黒瀬さんとバンド練習する時とか、たまに家族でお店に食べに行った時くらいで……」


「ふーん、……そう、ふぅん」


「な、なに?」


「……夏樹、夏樹ねえ……」


「いや……どうしたよ」


じーっとこちらをジト目で見てくる……というより、睨まれてるのかこれ?まずいな。今秋乃の機嫌を損ねるわけには……。


「まあ、いいや。今はバンドの話だしね」


「あ、ああ……」


「そういえばさ、春くんあの時言ってたよね。夏樹ちゃんがドラムしてたって。夏樹ちゃんはどうなの?」


「いや、でも言ってただろ。もうやってないって」


「ああ、うん。言ってたねあの時は。でもやってるよ」


「……え?」


「あたしさ、バンドを組む時に色々調べてたんだ。そしたらね、その時見つけたんだよ。夏樹ちゃんがバイトでサポートドラムしてるのを」


「え、そうなのか?」


「うん。実はあたしね、黒瀬さんにお願いする前それに依頼したんだよね。でもタイミング悪くてさ、すでに予約はいってたから駄目だったんだ……それで黒瀬さんに話が伝わったんだと思うんだけど」


「……そうなんだ。じゃあなんであの時ドラムをやってないって嘘ついたんだ」


「多分、それって前の春くんと同じ理由なんじゃないかな」


「僕と同じ理由?」


「これあたしの想像なんだけどさ。あそこでドラムやってるっていっちゃうとまた春くんと遊びたくなっちゃうから嘘ついちゃったんじゃないかな」


「……それって、つまりはどういう」


「バイトしないといけないから、遊んでる暇がないって感じじゃない?」


「あいつそんなに金が必要なのか」


「必要だと思うよ。お父さん助けないとだし」


「時貞さんを助ける?」


「多分、夏樹ちゃんがバイトしてるのって春くんと同じ、お家を支えるためだよ。なんか他にもバイト掛け持ちしてるみたいだしさ。……やっぱりお母さんが亡くなってから、大変だったんじゃないかな」


「清子さんが?」


「そっか……それも知らなかったんだね。黒瀬さんが言ってたんだけど、数年前に亡くなってるみたい」


「……」


僕はそこで気が重くなるとともに腑に落ちた。どこか寂しげな『華魅鮨』の店とあの二人の雰囲気が。

疎遠になりしばらく会わないうちにお互い色々あったみたいだ。それも似たような境遇で似たようなことをしていただなんて。


――あいつも……大切な人を亡くして、大切な人を支える為に戦っていた。


これまでどれだけ苦しく辛い思いをしてきたのか。これからもどれだけ悲しみを引き連れ歩まなければならないのか。同じ境遇であるからこそ、想像ができる。


でも、だったらもう誘う事は出来ないな。バンドしている暇があるならその時間で稼ぎたい、その気持ちは僕にも痛いほどわかる。


ドラムのサポートとして雇うって方法もあるがそれはこっちの金銭面的にキツイ。というより金を貰ってやるっていうのは夏樹からしても嫌だろうし。僕なら断る。


(……ドラムをやっているって聞いてもしかしたら一緒に出来るかもしれないと思ったけど。そういう理由なら、諦めるか)


「でもさ、あたしはね、ホントは夏樹ちゃん春くんとバンドやりたいと思うんだよね」


気持ちに整理をつけようとした時、秋乃が言った。


「そうだとしてもバイトあるから無理だろ」


「そりゃそうだけどさ。でも夏樹ちゃんドラムめちゃくちゃ上手いよ。あの子が入ってくれれば凄いバンドになると思う」


確かに夏樹は上手い。僕が知るあいつの演奏は小6の時が最後だったが、周りから天才と称されていたのを記憶している。まあ元プロドラマーの時貞さんが教えていたからってのもあるだろうけど。あの頃ですら大人に混じって叩いても全然やれるレベルだった。


あいつの武器は、天性のしなやかで強靭な筋力。そこから生まれる迫力あるパワフルな演奏と、無尽蔵のタフネスを持つが故のいくら演奏しても落ちないパフォーマンス。


(あいつの家に言った時、ドラム練習に叩いていた分厚い雑誌をいくつかみたことがあったけど、だいたい破れまくってたからな……)


そこでふと気が付く。


「……そういえば。秋乃は夏樹のドラム演奏を見たことあるのか?」


「そりゃ勿論。一緒にやってもらおうと思ったわけだしね。Pwitterにデモの動画載せてあるよ」


「マジか」


「えーと、ちょっとまってね……」


そういうと秋乃は携帯を操作し始めた。そしてすぐに夏樹であろうPwitterページを開いき動画を再生した。てかアカウント名が『傭兵ドラマー』ってのが気になるな。中二病か?

そんなどうでもいい疑問をドラムの音が吹き飛ばした。

パワフルでキレのあるキックの音。懐かしい夏樹の音だが、あの頃よりもさらに力強く画面越しでも迫力がある。


そして彼女の魅力は音だけでない。一気に目を奪われる彼女のパフォーマンスだ。くるくるとドラムスティックを回したり、空中で回転させキャッチしたり派手で魅せ方が上手い。これはドラムを知らない人や興味のない人も見入ってしまうだろう。


リプイート1389、イイネ27853、フォロワー17209か。すげえな。テクニック的にも引く手数多な理由がわかる。ビジュアルも夏樹は美人だから華があるしな。


「ね?すごいでしょ」


「確かに……めちゃくちゃほしいドラマーだな」


「ね、欲しいよね。技術もそうだけど、アップしてる曲的に方向性もあいそうだし」


「そうなの?」


「うん、あたしはね。ねえ、とりあえずダメもとで聞きに行ってみようよ。何もしないで諦めるのはもったいなくない?」


そう言って秋乃は首を可愛らしく傾ける。確かにな。何もせずみすみす逃すくらいなら一度声を掛けてみるべきか。もしかしたら夏樹の話を聞いて何かいい案を思いつくかもしれないし。それに、やっぱり僕自身も夏樹とやりたいっていう気持ちはある。


「わかった。でも放課後どこかで通話してみよう」


「え、なんで!そこはちゃんと顔見て話そうよ!じゃないと口説ける物も口説けなくなるってば!」


「そ、そうか」


「そうだよ。ちゃんとこっちが本気だってとこをみせないと!」


もしかして、だからあの日家に来てたのか?結構まじめで熱い奴なんだな。いや、会った時から知ってはいたけど。


「じゃあ、夏樹には家に行っていい時間を聞いとくか」


「あーいやいや、聞かなくていいんじゃないかな」


「え、急に押しかけたら迷惑じゃね?」


「でもそれだと夏樹ちゃんに逃げられちゃいそうじゃん。そのDMでバンドのお誘いだって勘づいたら帰ってこないんじゃないかな?」


「まあ、秋乃のさっきの話を聞く限りだとその可能性はあるな」


「でしょでしょ?じゃあ放課後行こう!それで夏樹ちゃんがバイト中でいなかったら撤退。黒瀬さんに夏樹ちゃんのバイトのお休み聞いて、空いてる日に合わせてまた突撃しようよ!」


「お、おう」


すげえ行動力。しかし秋乃のこういうところは見習いたいとも思う。この行動力が僕を動かしバンドを組みライブに出るという結果を引き寄せたのだから。世界一のバンドを作となればこういう力も必要となってくる。ちゃんと学んで吸収しないとな。


そうして学校が終わり二人は『華魅鮨』へと向かった。日差しに照らされながらも二人街並みを眺め歩く。勿論誰かに見られないよう学校の生徒がいなさそうなルートを選ぶ。下校時刻をずらして出てきたのもあって、ここまではなんとか誰にも会わずにすんでいて嬉しい限り……だが、ここで一つ問題が発生していた。なぜか秋乃さんの様子がおかしい。なんというか機嫌がどんどん悪くなっているような……気がするのだ。


「……えっと、なんか怒ってる?」


恐る恐る聞いてみる。すると、


「や、別に」


と、冷気の込められた声色で返事がきた。いや怒っとるやないかい!その言い方!と思わずツッコミを入れそうになるのを喉元でとどめる。


「ごめん、僕こういうのあんまり察するの得意じゃないからさ……なんか気に障ることしたか?」


「わからないなら別に気にしなくていいよ」


つーんと唇を尖らせた秋乃。え、なにこいつ可愛い。可愛い……が、どうしたらいいんだこれ。正解の対処法がわからずに困っていると、その姿がおかしかったのか「ふふ」と彼女は笑いを溢す。


「ホント不思議だよね、春くんって」


「え!?何が!?」


「だってあれだけ人の心に響く歌をうたえるのにさ。こーんなに察し悪い。ふふ、あはは」


「それは、まあ研究するからな。その歌の歌詞とか、元の小説とか。だが逆に言えばそうしないと理解できない、そうすることでしか詞に込められた感情や心、意味を辿ることができない……それで不快にさせたならすまん。ホントにごめん」


……ま、だからこその父さんはああいう手段を取ったんだろうしな。無邪気に笑う秋乃をみつつ僕は負の感情を中和する。


眩しい日の光に照らされながら、彼女はこちらをみてより一層眩しく微笑んだ。


「ううん、春くんらしいから別にいいよ。でもまあ、そういうことならさ」


「?」


「……あたしの心も……ちょっとは研究してほしい、かも。興味があれば、だけど」


記憶を取り戻すのに必要な鍵が彼女であって本当に良かった。と、僕は心底思った。この歪でまともじゃない精神で僕がこうして踏みとどまっていられるのは、きっとこの人がいるからだ。だから僕は……。


――集中し、僕は心の奥へとそれを追いやった。


「ま、まあ、善処します」


「敬語!」


「……でも、そういえば、あの時は違った」


「あの時って、『cry』のこと?」


「うん。あの時は詞を考えるよりも先に感情があふれ出していた。深い心の闇に飲まれるように、まるであの歌の主人公に自分がなったかのような……そんな感覚だった」


「そうだね。あれは誰かをトレースした感情じゃなくって春くんの本物の感情と心だった。そしてそれが歩さんが春くんに渡したかったモノ」


「……けど、難しいんだ」


「難しい?」


「あの感覚はもう知っている。だから自分の感情の深く奥へ……あの場所へ入ることができれば他の曲でもあの歌い方ができると思っていた。でもあれ以来できない」


「……『扉』が、開かない?」


――扉。深い海の底に漂う、黒く影のような入口。


「……ああ……」


開かないどころかあれからというもの現れすらしない。


「あの時の『扉』を開けるためのトリガーは、大切な人の死を自覚することによる感情の揺さぶりだった……」


「ああ。ライブの三曲目。あの時も何とかそこへ気持ちを持って行って扉を開こうとした……けど、そこでは開くどころか『扉』自体どこにも見えなかった。だから帰ってからもう一度開くために地下室で再現しようとしてみたんだけど、それもダメだった」


「……『扉』自体が見えない、か……うーん、なんでだろう……」


結局のところ、歌と詞の世界に入り込むことが重要なんだろう……けど、それだけじゃない。それだけであれば今までのやり方であの扉は開いていた。なにかが決定的に足りない。その何か……あの扉へと到達するトリガーは一体。


「……着いたな」


「うん」


――僕らは夏樹の家『華魅鮨』へと到着した。





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