第23話 闇を切り裂くように
――また一つ、後退する足。
『また逃げるの?』
――背後に気配を感じ振り返る。するとそこには小さな子供が立っていた。
見覚えのある小さな男の子。少し長い前髪、虚ろな瞳で僕を見つめる小学生。
昔の幼い僕が、そこにはいた。
悲しいのか、寂しいのか、まるで縋るような瞳で――。
『ねえ、この光景、見覚えない?』
指をさす先に目をやる。広がる観客席。困惑した顔でこちらを見るバンドメンバー。
ズキン、と脳内が痛みを覚えた。ゆっくりと溶け出す、記憶の氷塊。
『……あの時も、僕は逃げたよね』
蘇るあの日。
――たくさんの観客。父さんと母さんが、仕事を休んできてくれた学芸会。小学校で初めてのイベントで、忙しいのに来てくれた。
僕ら二年生はミュージカル風の白雪姫の演劇をすることになっていた。クラスメイトが四十人いて、王子役と白雪姫役が七組。僕はその王子役の一人で、ペアとなった白雪姫は茜だった。
あの頃はまだ茜と仲が良かった。この演劇をやるのに二人は一生懸命で、休憩時間は勿論、茜はピアノを習っていて忙しかったのにも関わらず、放課後僅かな時間を使って練習に付き合ってくれていた。
「春はちょーっと演技苦手みたいだからね」
「……あう……ご、ごめん」
「ふふ。けど、まあ私の王子様だしね。付き合ってあげる。上手くいくまで」
「うん、ありがとう」
「……でもさ、歌は自信もっても良いと思うよ」
「え、歌?」
「うん、春はね歌が上手だよ。だから自信もって。本番で皆に見せてあげよう、春の歌」
柔らかく笑むその表情に褒められた言葉に温もりを感じて、強張る心が緩んだ気がした。
「ありがとう。僕、頑張る」
『嬉しかったよね、あの言葉』
……うん。家族以外の人に初めて言われたから。たとえ、僕をその気にさせるための言葉だとしても、茜のあの言葉で僕の心は軽くなった。側にいてくれることで僕は秋葉に救われていたんだ。
――……けど。
沢山のセリフを覚えて、たくさんの練習をして、壇上に上がった……けれど、客席を目の当たりにすると、足が震えて前に行けなかった。
『あの時も……ステージの皆が心配そうにこっち見てたよね』
「……春?」
六人の王子と姫が手を取り合う中、茜だけは一人だった。脚がすくんで進めない僕に彼女は手を差し出したまま、こちらを不思議そうに見ていた。
(……あ……あれ、なんで、あれ?あ、足が……)
嫌な汗が滲みだす。やがて異変を察知した観客がざわつき出した。
一緒に、たくさん頑張ってきた茜。今日を楽しみにしてて、頑張ろうねって笑っていた彼女の表情が曇る。壇上のクラスメイト、観客席からの視線が僕に突き刺さり……そして、ついに僕は逃げ出してしまった。
『……』
(怖い、怖い、嫌だ……怖い!!)
走って、走って、学校を抜け出してグランドの横にある用具入れに隠れた。着たままの劇の衣装を汚して暗い部屋に腰を下ろす。
『なんでもできるって思ってたんだよね。でも、できなかった。僕は自分が思っていたよりも怖がりで、緊張しがちで、表に立つことが苦手だった……』
失敗できないあの舞台で、本番で……失敗してしまった。皆に申し訳なくて、目を合わせられなくなって、口数も減って、仲の良かった茜とも距離ができた。
『……全てを失った』
そうだ。小学生で何を大袈裟にと思うかもしれない……けれど、僕にとってあの日の失敗は、そう思えるほどの出来事だった。
自分の活躍に期待していたことへの失望、皆の迷惑を考えずに逃げたことに対する怒り、茜をあんな悲しい顔にさせてしまった悔しさ。
『――春はね歌が上手だよ。だから自信もって』
僕は、茜の期待を裏切った。
混乱する頭の中でぐるぐると回り、吐き気が込み上げる。
「……春、こんな所にいたのか」
「お父さん」
そして、希望を見た日でもある。
「ご、ごめんなさい、僕……」
「ああ、うん。大丈夫だ。緊張するよな、俺も春の気持ちわかるからさ」
父さんは泣き出す僕を抱きしめてくれた。忘れていたあの日。教室に戻るともう生徒はいなくて、先生と少し会話をした。失敗はあるから気にするなって言ってくれて、僕は申し訳なさで胸がいっぱいになった。
帰りに父さんと母さんに連れて行ってもらったファミレス。そこには僕の好きなグラタンがあって、学芸会のご褒美で行くことになっていた。
「美味いか?春」
食べたグラタンはあんまり味がしなくて、美味しくなかった。父さんと母さんが僕に気を遣っているのがわかって、もやもやとした気持ちが膨らんでいく。いつまでも消えない、壇上の困った皆の顔。
(……もう学校、行きたくない)
それまで楽しかったゲームも、アニメも楽しいと感じれなくなってしまった。何をするにしても、あの光景が脳裏をよぎってはもやもやしてしまう。
「おにいちゃん、だいじょうぶ?」
「……うん」
そう言ってまだ小さい妹が僕の服をひく。あの時の僕は、もやもやとした気持ちをどう解消していいのかわからなかった。
「ひっぱらないで!」
「!、……ふぇ、うええん」
つい声を荒げてしまい妹を泣かしてしまった。僕を心配してくれただけなのに、感情を抑えられずに八つ当たりをしてしまった。
「おいおい、春。百合を泣かせたら駄目だろ」
「だって、僕の服ひっぱったから」
ホントはもうそんなことどうでもよかった。ただただ悪いことをしたっていう気持ちでいっぱいで、ごめんなさいって言いたくて……けど変なプライドが邪魔して、拗ねてしまって、そんな自分にイラついて。
父さんが百合を抱き上げ、頭を撫でる。
「怖かったな、百合。よしよし……春、ちょっとこい」
「やだ」
「いいから来なって」
手をひかれ引きずられていく。行先は地下、父さんのスタジオだった。
『叱られるって思ってさ、内心ビビりまくってたよね。僕』
うん、叱る時は二人きりになれる場所に連れていかれてたからね。でもこの時は百合が一緒だったのを不思議に思ってて……。
「さあ、春。そこ座んなさい」
「……」
言われるがまま座る僕。すると父さんが僕の向かいに座り、百合を隣の椅子に座らせた。
いよいよ説教が始まると覚悟を決めたその時、父さんは立てかけてあったアコギを手に取って弾き始めた。
「わあぁ、おとうさんすごい」
妹に笑顔が戻る。さっきまで大泣きしていたとは思えないその顔に僕は密かにホッとしていた。そして驚く。父さんが弾き始めたのが僕の知っている曲だったから。
「そういやさ、まだ聴いて無かったなって思って。歌って見せてよ」
その曲は学芸会の演劇で歌う予定だった曲だった。僕はいままで恥ずかしくて家では一度も歌の練習はしてなかった。茜との練習でだけしか歌ったことはない。だから父さんが知るはずのないその曲を弾き始めたことにものすごく驚いた。
『まあ、あとで気が付いたけど、あの日……父さんは普通に劇を見ていたから、知っていて当然なんだけどね。でもあの時の僕にはどこか魔法のように感じられて、すごく驚いた……それは、それまで抱えていたもやもやがどっかに吹っ飛んでしまうくらいで』
「おにいちゃん、おうた!」
「あ……うん」
きらきらと輝く妹の瞳。百合のその笑顔に背中をおされ、僕は歌い始めた。
楽しそうに聴く二人。その様子に僕も楽しくなって……。
『……初めて、歌が楽しいと思えた』
「すごいすごい!おにいちゃん、おうたじょうずー!」
「あ、ありがと」
抱き着いてくる妹。
「百合……さっきは、ごめんなさい」
「んー?」
「ほら、大きな声だしちゃって……泣かせてさ」
きょとんとする百合。しかしすぐに満面の笑みを浮かべた。
「ゆり、わらってるよ?おにいちゃん。えへへ」
父さんが僕の頭を優しく撫でる。
「やっぱり春は歌上手いな」
『それが始まりだったよね。僕が歌う……きっかけで、理由だった』
……歌う事で手に入ったモノ……理由。
『そう、僕が歌ったから笑顔にできた』
夏樹とも、歌があったから……友達になれた。
『歌が上手いから、たくさんのフォロワーができた。ネットの海でたくさんの人と繋がれた』
歌が上手かったから、家族を助けられた。
『そうだよ、歌が上手かったから』
――秋乃と、友達に……なれた。
ステージ上、ギターを抱えてこちらを見ている秋乃と目が合う。
『ほら、みて……客席』
子供の僕が指さす先、そこには田中と高橋がいた。
『いいの?ここで逃げたら、全部なくなるよ』
――背筋が凍る。ざわめく心。さっきとは比にならない大きな恐怖心が滲みだす。
『……いいの?』
――絶対に、嫌だ。
僕はマイクスタンドの前に立った。
――歌う事だけが、僕の全て。
あの日のように、失うのはもう嫌だ。
『――だからさ、頼りにしてるからね?』
秋乃は僕にそういい、任せろと返した。なのに逃げ出していいのか?いや、ダメだ。
もう友達ではいられなくなる。秋乃はきっと優しいから許してくれるかもしれない……けど、僕が僕自身を許せなくなる。……もう、彼女と顔を合わせられなくなる。
そんなの絶対に嫌だ。
情けなくてもいい。失敗してもいい。惨めな思いをするかもしれない、悔しさで耐えがたい苦しみを味わうかもしれない。でも、良いんだ。
このまま逃げ出して、裏切って、約束を守れずに苦しむよりはその方が良い。
「……いくよ」
秋乃はそう言って悲しそうに微笑んだ。
(……僕は……、……)
失いたくない……ぜったいに、秋乃を。
――ソータの顔が脳裏に過る。
例え、あいつにだって……渡したくない。
――秋乃のギターが会場に満ちた闇のように不穏な空気を切り裂き、曲がスタートした。
……ズ、ズズ……
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