第17話 そうして背を押され、僕はまた一歩前へと進む。
「あ、黒瀬さんだ。こんばんはー!」
「おう、深宙ちゃん!こんばんは!今日も可愛いなぁ、おい」
にかっと笑う男性。短髪で眉毛が太く、背が高い。がっしりとした筋肉質な体はまるで熊のような威圧感がある。
彼は秋乃に挨拶をすると僕の元へ来た。
「あ、あっと、その……こ、こんばんは」
すげえ威圧感。怖くて反射的に僕は目をそらしてしまう。しかし、そんなことはお構いなしに黒瀬という人は僕に顔を近づけてくる。その圧力にのけ反り後退して後ろにいた秋乃に支えられた。
「ひっさしぶりだな!春!!元気してたかぁ!?」
「……え?」
「おおう?もしかして忘れちまったか?まあ、無理もねえか。最期に会ったのは歩の葬式の時だったからなぁ……」
――その瞬間ふと記憶が蘇った。
「……父さんの友達の……時貞、さん」
「おお!そうそう!!ははは、思い出してくれてよかったぜ!」
そうだ……この人は
「……時貞さんも元気そうで、よかった」
「おう、元気だぜえ!今日は春の顔もみれたからいつも以上に元気になったがなぁ!ははは!!」
「春くん、その感じなら黒瀬さんの紹介はいらないよね」
「あ……うん。時貞さんがドラムなんだね」
「おうよ!まさか歩のせがれと一緒にバンドやる日が来るとはなぁ、嬉しいぜえ!」
「僕も嬉しいです」
父さんの友達ってのもあるけど、顔見知りで何度か会って話したことがあるし比較的緊張しなくて済む相手だという事が嬉しい。
……ああ、そうか……そうだ。僕は昔ここに来たことがある。小さいとき父さんの練習でこの場所に来たことが。
そして、この時貞さんの演奏で、この場所で歌わせてもらったことがある。
(……僕、たくさんの事を忘れていたんだな)
頭の中を巡る思い出。店内は様変わりしていて、あの頃とは似ても似つかないほど派手になっている。けど、それでも……思い出せる。父さんにジュースせがんだこととか、走り回ってこけてギターケースに頭ぶつけて泣いたこととか。懐かしい。
(そういえば、夏樹は元気なんだろうか)
ふと蘇った記憶、その中に一人の男の子の姿が見えた。夏樹。フルネームを
「あの、夏樹は元気ですか?」
「ん?ああ、元気だぜ。そういやあいつもお前のこと気にしてたな」
「ほ、ほんとに?」
「ああ、ホントだ。って、嘘吐いても仕方ねえだろーがよ!がっはっはっは」
「……そっか。僕の事、忘れてなかったのか」
「忘れるだあ?お前らめちゃくちゃ仲良かったじゃねえかよ。昔の話とはいえ、そんな薄情なことしねえぞ夏樹の奴も」
ぐっ、心が痛い。薄情ですみません……。
「ま、今度の俺らのライブ観に来るみてえだから、そん時にでも話してやってくれや」
「……うん」
――あいつと出会った頃は、もう既に僕は歌う事に夢中だった。
当然、バンドもやりたくなり仲間が欲しくなっていた。けど周りの子供たちはテレビゲームや携帯ゲーム、サッカーバスケばかりで、バンドに興味がある同世代はいなくて、だから一緒にやってくれそうな人は誰もいなくて……かといって父さんのバンドに混ぜてもらえるわけもなく、僕はずっと一人だった。
でもそんなある日、夏樹が現れた。
定期的に連れて行ってくれた父さんのバンド練習。そう、このムーンライトに時貞さんが夏樹を連れてきたのだ。同い年だし良い友達になるんじゃないかって。
一緒に遊んでくれる夏樹は貴重な友達だった。今思えば、引っ込み思案で消極的な僕とは対照に、積極的にぐいぐいくる夏樹の性格が良かったんだろう。仲良くなるのに時間はそこまでかからなかった。だからこそ貴重で、僕にとって大切な存在だったように思う。
『いつか一緒にバンドやろうぜ』
ツンとしたつり目。気の強さが現れた、意思の強い綺麗な瞳。
にやりと歯を見せ、笑うあいつの顔が脳裏に過った。夏樹は……まだドラムしてるのかな。
「さて、顔合わせは終わったかな?それじゃあ早速練習始めようか、皆」
月島さんが右手の部屋を指さした。そうだ、今はこっちに集中しないとな。僕を頼ってくれた秋乃の期待に応えるために。
☆
「――っし、と」
リーダーである時貞さんが頷く。とりあえずライブでやる曲を三つ合わせてみた。その三曲とも勿論僕は完璧に歌詞を覚え数回練習をし万全の状態で臨んだ。
「……あの、申し訳ございません」
結果なんか普通に失敗した。
「がっはっはっは!!」
「どんまいどんまい!佐藤君!まだ始初日だから」
「あ、ありがとう、ございます」
マジでびっくりするほど声が出なかった。カラオケや歌ってみたで歌うのとまるで感覚が違う事に驚く。思うように喉が開かないし自分の声がどこにあるのかわからない。要するにコントロールが全くと言っていいほどできなかった。やばい、すごく恥ずかしい……逃げたいかも。始める前に持ち上げられていたのもあって恥ずかしさが倍増しててヤバい。穴に入りたい。深く暗い人の目が届かぬ穴に。
「おーい、春くん」
「……はっ!?」
「ほら、もう何曲かいくよ?」
「あ、ああ……うん」
――よし、さっきのを踏まえて修正を……やってやる。僕は『バネ男』やれるはずだろ!?
そうして計、六曲を終えた。……まあ、そうね。結論からもうしますと、なんの成果も得られませんでしたって感じ。ま、マジかぁ。
休憩に入り月島さんと時貞さんが喫煙スペースへと行き、僕と秋乃二人が部屋に残された。僕は壁を背に座り込む。
「……な、なんか悪いな。期待に応えられてなくて」
「え?そんなことないよ。最初だからさ、緊張もするって」
「あ、ああ……ありがと」
「んーん」
ああああ!!!めっちゃ気を遣われてるううう!!!いつもの秋乃なら、からかってくるのにからかってってこないのがその証拠!!嫌だああああ、もうかえりたいよおおおおお!!!
顔に熱が帯びてきているのがわかる。悔しさと恥ずかしさと気まずさ惨めさが混在していて、頭がおかしくなりそうだった。
――い、いや……落ち着け、僕。こんな窮地、配信してて何度もあったろ。大丈夫だ。まだライブ本番まで時間はあるし、何とかできるはず。でも、やっぱりくそ気まずい……!あんだけカッコつけて引き受けておいてこの様は……マジで悔しいよ、僕。
と、そんなことを平静を装いつつ思っていると、隣に秋乃が座り込んできた。
「春くん、はい」
「ん」
見れば彼女は、水筒から飲み物をつぎ僕に差し出していた。
「お水だよ」
「お、ありがとう……助かる。あとで自販機で買ってくる」
「いやいや、お金もったいないでしょ。それ一緒に飲もうよ。まだたくさん入ってるしさ」
「いいのか」
「うん、良いよ。たーんとお飲みなさいな」
手に持ったカップを眺める。ほんと優しい奴だ、秋乃は。いや、もしかして僕が落ち込んでいるからか?あーくそ、マジで情けねえ。
(……いや……まって?)
――そこでふと気が付く。
一緒にってこれ、このカップ。水筒の蓋だよな?一緒に……飲む?共有すんのこれ?まさか……これって……か、間接……キ、キ。
「?、どうしたの?」
じーっとこちらをみる秋乃。い、いやそーだよどうしたよ僕。そんなのいちいち意識してんじゃないよ。普通のことだろ、こんなの……多分。
「……飲まないの?」
「あ、いえ飲みます」
「なんで敬語?」
僕は微かに震える手で、カップを口元へ。意を決して口をつけ、水をゆっくりと飲み始めた。
「あー……間接キスですなぁ、こりゃあ」
「ごほっ!!?」
「あはははは、むせた。ウケる」
「ちょ、お前……う、ウケねえよ……」
「うそうそ。ほら、コップもう一個あるし」
「な!?」
バッグからもう一つのカップを取り出し、にこにこと笑う。そこで僕はからかわれたことに気が付いた。
(こ、こいつ……)
「安心して飲んで良いからね」
「ぐぬぬ……」
「あははは」
ふと扉の外からの視線に気が付いた。月島さんと時貞さんがこちらを見ていた。にやにやと口元を緩ませている二人。な、なにしてるんだ……あの人らは。
僕と秋乃が見ていることに気が付くと、扉を開いて入ってきた。
「……入ってこないで何してたんですか……?」
「いやあ、今入ってくのはお邪魔かと思って。ほんと仲がいいんだねえ、佐藤君と深宙ちゃんは。はは」
「おいおい、マジかよ……お前ら、もしかして付き合ってんのか?」
「「つ、付き合ってないですよ!?」」
「息ぴったりじゃねえかよ」
いや確かに……思えば否定する時めっちゃシンクロしているな。けどちゃんと違うって断っておかないとって思いがそうさせてるってだけで。秋乃的にも、こういうのが噂になっちゃってモデル業に支障が出てもまずいだろうし、反射的にでた言葉がたまたま重なったってだけだろう。
しかし時貞さんが妙な顔してるな。悲しむ犬みたいに眉が八の字に曲がってて、なのに口元はにやついている……どういう感情なのそれ?
「さてさて練習再開しよっか。ずっと二人の微笑ましいいちゃいちゃを見ていたいけど、ごめんね」
「「い、いちゃいちゃしてませんケド!!」」
「あはははは」
完全に月島さんのオモチャじゃねえか!秋乃さんなにか言い返してやってくださいよ。ほらさっきの勢いで……いや、なにその顔!赤面してる場合じゃないっすよ!あかんこいついじるのは得意だけどいじられるの駄目なタイプだ!
秋乃に助けを求め視線を送り続けていると、肩にポンと時貞さんが手を置いた。
「夏樹に報告ちゃんとしろよ」
「なんで!?てかなにを!?」
「まぁ、殺されるかもしれないけどさ」
「なんで!?」
時貞さんは切なくも優しい微笑みを浮かべつつドラムへと戻っていった。いやなんなんだあの人。
月島さんもベースを手に取り定位置へと移動する。秋乃も慌てて自分のギターを手に取り僕の前を横切った。深紅の美しいギターに目を惹かれる。
「……そのギター綺麗だな」
思わずこぼれ出た言葉。秋乃はきょとんとして立ち止まった。
「……これね、貰ったギターなんだ。めっちゃ綺麗でしょ」
「すごいな。高そうなギターなのに貰ったのか」
秋乃はにこりと微笑んだ。
「うん、貰ったんだよ。……だからさ、あたしの宝物なんだよね。この子」
――まただ……妙な既視感に襲われる。頭の隅で、微かにぼやけるセピア色の中に。あのギターも……昔、どこかで。
「佐藤君、深宙ちゃん大丈夫かい?」
「あ、すみません!OKです」「ごめんなさい。うん、大丈夫!」
それからまた何曲か合わせ、感覚を掴もうと歌った。しかしこれと言って手ごたえもなく時間が過ぎていった。僕はどうにもならなかったけど、楽器隊の練習になったことがまだ救いか。
「それじゃあ今日はここまでだね。秋乃ちゃんと佐藤君は黒瀬さんが車で送ってくれるみたいだから準備してね。次の練習は三日後。よろしくね」
「はい」「はーい!」「おう!」
時貞さんが喫煙室へと向かう。練習終わりの一服らしい。月島さんは店の戸締りをするために店内をチェックしに行った。
僕と秋乃は使った部屋の軽い掃除。モップをかける。ちなみに時貞さんは一服後たばこの吸い殻の片づけ係をしている。
「ねえ、春くん」
「ん?」
「さっきのさ、時貞さんと言ってた夏樹ってだれ?」
「ああ、時貞さんの息子さんだよ。黒瀬 夏樹。小学生の頃にたまに遊んだ友達」
「え、友達いたんだ」
「みたいだな」
「?、みたいだなって、どゆこと?」
「いや、僕も時貞さんに会うまで忘れてたから」
「君の友達が少ない理由がわかった気がするよ」
「ぐっ……っていうか、時貞さんとバンド組んでたのにそういうの聞いてなかったんだな。あんまり家族とかの話しないのか?」
「するよ。子供がいるって話は聞いてたけど、その時は娘さんって言ってたようなきがするんだよねえ。兄妹とかかな」
「あー、かもなあ」
なんせ小学生時代に会ったきりだからな。あれから夏樹に妹ができてたとしても不思議はないか。
「あの、ところでさ秋乃」
「ん?なに?」
「今日は悪かったな。僕を紹介した手前恥ずかしかったろ?でもちゃんと練習してくるから」
「え?別に恥ずかしくないよ?あたしは春くんとバンドがしたいだけだし。多分皆もそう。楽しかったから全然OKだよ」
「え、ああ……そうなのか。まあ、それならいいけど」
「まあ、でもそうだね。春くんの実力的には今日は二割も発揮できてなかったきがするね」
「それは過大評価しすぎじゃないか?」
「そうかなぁ?」
「そうだよ」
「あたしからみたら、春くんは自分のこと過少評価しがちだと思うけどね」
「え、そう?」
「そうだよ」
正直な話、あんまり期待しないでほしいんだが。いや、依頼である以上ちゃんと練習して本番も全力で歌いはするけれど……実際、僕はそんなに大した歌い手じゃないからな。本当に上手い奴には届かない。
「そういえばさ」
「ん?」
「僕が来る前は誰がボーカルしてたんだ?」
「月島さんだよ」
「ベースしながら?」
「うん」
「そうなのか……秋乃がやってたのかと思った。ギターボーカルって感じで」
「いやいやいや、あたし歌うたうの得意じゃないもん」
「そうなのか?普通に歌も上手いと思ってた。声も可愛いし」
「え?……そ、そんなこと……ないし」
お、照れた。本当に得意じゃないのか。意外だな。秋乃は割となんでもこなせてしまう天才イメージだった。あのギターの上達速度がそう思わせているんだろうか。
しかし、これはあれだな……からかわれた分をやり返すチャンスでは?
「いやいや可愛いよ。一度聴いてみたいな、秋乃の歌を」
「……無理、恥ずい」
ガチトーンの拒否に思わず心が震える。本気で嫌がってるなこれは。すんません。調子乗りました。
「っていうか、それは春くんの仕事でしょ!ライブ本番までに全力だせるように頑張ってよね!」
「は、はい!がんばりますっ!!」
「はい、よろしい」
にこっと微笑む秋乃。僕はその笑顔に胸をなでおろすのだった。
「うっし、またせたな!いくぜ野郎ども!!」
「「はーい」」
☆
「……ふぅ、ようやっとわが家へ到着だな」
春と深宙ちゃんを家へ送り届け、俺、黒瀬 時貞もわが家へと帰宅。車のキーをくるくる振り回しながら片手で車庫のシャッターを下ろす。
「正門からしか家に入れないのはめんどくせえな……まあ、今更だが」
無駄に広い古民家。周囲を草木で囲われているここが我が家であり鮨屋『華魅鮨』
正面には大きな木造りの門があり、それを潜ればちょっとした庭園風の外観が広がる。店先まで続く石畳、そこを歩いていくと小さな池が目に飛び込んでくる。ここには昔嫁の飼っていた鯉が数匹いた。今はそれも数を減らしたった一匹。この小さな石橋の上からはその寂しそうに泳いでる姿が嫌でも目に付く。俺は目を逸らすように顔を上げた。すると今度は店内に明かりがついていることに気が付く。
(また……夏樹のやろうか)
俺は店を眺め立ち尽くす。古く年季の入った俺の店。改めてこの店がいかに俺の中で大きなモノだったのかを感じる。……もう少しでここともおさらばだと思うとなんとも言えない気分になるな。
ここは俺が嫁の清子と金を貯め古民家を改築して作った鮨屋で、昔は行列のできる程のもんだった。今では不況や流行り病のあおりで客足は減り、更にはチェーン店が近隣に出来たのもあって目に見えて稼げなくなった。店を回すために作った小さな借金が膨らみ始め、このままじゃ生活も出来なくなると俺は店を売ろうと決めた。
(……約束、守れなくて悪いな。清子)
記憶の中に、消えゆく微笑みをすがるように思い出す。微笑むとできる小さなえくぼ、口元にあるほくろ、誰よりも美しく思えた黒曜色の髪色。
目を閉じ、現実へ己を引き戻す。
客口から店にはいるとそこには案の定あいつがいた。俺の一人娘、黒瀬 夏樹。一生懸命にカウンターを布巾で拭いているあいつは俺に気が付く。
「おお、親父。おかえり」
「おう、ただいま。っていうかなにしてんだよ夏樹、もう寝ろ。日付回るぞ」
「ん。ああ、これが終わったらな。もうすぐでこの店ともお別れだろ?最後の最後まで綺麗にしておいてやりたいんだ……」
――母さんの代わりに、俺が……か?
(まだ気にしてんのか、お前は)
嫁の清子は二年前交通事故で亡くなった。それからはあいつの代わりに夏樹が掃除や仕込みの一部をこなすようになっていた。
「バイトで疲れてるだろ。お前が倒れたら元も子もないんだ。ほどほどにしとけよ」
「ああ、わかってるよ。心配すんなって」
店内は広く、待合席もある。夏樹は毎夜これらを全て綺麗に掃除してくれている。もう行列どころかその待合席も埋まることなんてないのに。多分、これはあいつなりの償い方なんだろう。
「ところで親父、どうだったんだ?バンドの練習」
「ん?ああ、楽しいな。やっぱりドラムはいいぜ」
今回のバンドは俺にとって久しぶりのものだった。この店を始めてからは忙しくてたまに一人で家のを叩くくらいしかしてなかったが……多分、夏樹が気を遣ったんだろうな。月島の奴に連絡したようでいつの間にかバンドに参加することになっていた。
まあ、ここを売り払ったらアパート暮らしで、気ままにドラムを叩くことも出来なくなる。だから今のうちに思いきり楽しんで来いってことなんだろうさ。
(こいつなりの親孝行のつもりなのかもな)
「おお、そうだそうだ!そういやすげえボーカル来たんだぜ!夏樹!」
「あん?……すげえボーカル?親父、この前も同じこと言ってなかったか?すげえギターの女の子が来たって。そう何人もすげえ奴くんのかよ。怪しいもんだな」
「いやいやいや、マジですげえんだって!!まあ今日はちょっと緊張してたみたいであれだったが、技術的にはプロクラスだぜ、ありゃあ。あいつの歌を聴いたらお前もびっくりすんぜ!?」
娘の疑いの眼差し。いつからそんな俺を疑うような娘になっちまったんだ!
「……ふーん。で、名前は?」
「おう!きいて驚けや!!」
――……いや、待てよ?
と、そこでふと思う。こいつは嫁と似ていてどこか冷めている。だから、ボーカルがあの昔遊んだことのある春だと今口頭で明かしたところでさほど驚きはしないだろう。そうなれば『あ、春か。ふーん……あいつ昔から歌上手かったもんな』で終わる可能性が。それはまずい……『やっぱり親父のいう事は大袈裟だな。話半分にきいとこ』なんて思われだしたら親としての立場と威厳が。
(これ、今明かさないでサプライズ的な演出した方が驚くんじゃねえか?)
ライブで急にボーカルに春が現れ更にあの歌唱力を目の当りにしたら、流石のこいつもかなり驚くんじゃねーか?いや、俺なら驚く!よし、これで行こう。
「どうしたよ?名前はなんていうんだ?」
「あー……えーと。ひ・み・つ!」
「きもっ!!?」
「んなああ!?親に向かってキモイとはなんだ!!」
「いやさすがにいい歳したオッサンがそれやったらキモイだろ……って、親父そろそろ寝ておかないと。四時に市場行かないとだろ」
「あ?……あ、やべえ!!」
時計を確認した俺は慌ててカウンター裏から家へと上がる。ふと目に入る夏樹の後ろ姿。あの高い背丈と気の強さは俺譲りだが、あのつんとした目尻と黒髪は母親とそっくりだ……ますますあいつに似て綺麗になってきた。
「なあ、夏樹」
「んー?」
「お前、男いんのか?」
「はっ!?はあああああ!!?きゅ、急になんだよ!!んなもんいねえよ!?」
「おお、そうか!そーかそーか」
「んだよ!急に!!」
「あ、いや別に」
顔を真っ赤にする夏樹。春、どうにか夏樹を嫁に貰ってくれねえかなー……今は秋乃ちゃんと仲いいし無理か?
ふと気が付けば拳を握りこちらを睨んでいる夏樹の姿が。威嚇する娘に気おされ俺は奥へと引っ込んだ。
「さっさと寝やがれ!!クソ親父!!」
まったくウブすぎんぜウチの娘は!がっはっは!
☆
「へっくしゅ!!……むぅ、誰か噂してる?」
バンド練習が終わり帰宅後。僕は地下室へと降りていた。
目的は今日の反省とその修正。上手く歌えなかった原因の大部分はやはり緊張があったように思う。そしてさらにはあの環境。僕は歌い手としてこの地下室の防音部屋でずっと歌ってきた。だから環境が変わったことにより自分の発する歌声、その聞こえ方に違和感があったんだ。さらに楽器隊の大きな演奏音。
歌っている最中は楽器隊の音に歌声がかき消されているかのように思えたが、録音を聞くと普通に僕の歌は聞こえていた。声量は足りている。おそらくこれは慣れ、自身の聞こえ方、感覚の問題。
(それらを考えて、僕が今やるべき練習は……)
テーブルに置いた携帯が震えた。
「……」
画面をスワイプ。メッセージを開くと差出人は秋乃だった。
『初練習おつかれー!またがんばろーね!』
短いメッセージとガッツポーズする猫のスタンプ。言葉や文字には力がある。長文だろうが短い文だろうが、込められた想いは確かに人に伝わる。
配信している時のコメント、DMで送られてくる感想。それらの言葉にも今までどれだけの力を貰ったかわからない。僕が歌い手活動を今日まで続けてこられたのも、きっとそれのおかげ。
『頑張ってください』『応援してる』『推しです』
例えシンプルな言葉のひとつひとつでも、前へと踏み出すための原動力になる。
「さて、やるか」
そうして背をおされ、僕はまた一歩前へと進む。
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