01. トレビアン・ムッシュ
場所は花の都、パリ。その中でも第五区は名門大学が連なる学生街で、カルチェ・ラタンと呼ばれている。
歴史のあるムフタール通りには庶民的な商店街が並ぶ。北を流れるセーヌ川周辺は美術館などの文化的施設も多い。シャンゼリゼ通りほどのラグジュアリー感はないが、比較的住みやすい街と言えるだろう。
そんなカルチェ・ラタンの一角に、学生人気の高い文房具店を一階に構えるアパルトマンがあった。
「マコト先生~! おはようございまぁ~す!」
赤毛のポニーテールを快活に揺らす少女が、とある一室に向かって溌溂とした声をかける。
彼女はアネット・フォン・ペルティエ、十八歳。ここで暮らす日本人カメラマンにほぼ一方的に弟子入り志願した、若きフォトグラファーの卵だ。
「……ははーん、まぁた寝過ごしてるわね、先生。もしかして私のモーニングコールを待ってたりして?」
そばかすが散る白い頬を染めて、何やら一人でご満悦の様子である。無言を貫く冷たい扉を前に諦めるどころか、レザーのリュックから通信端末を取り出して通話ボタンを連打する。
十秒呼び出してはかけ直す鬼電を絶え間なく続けて五分ほど。固く閉ざされた玄関扉がついに開かれた。
「おはようございます、マコト先生っ!」
「おはようアーティ。そしてさようなら」
「きゃーっ! やっと私の愛称を覚えてくれたんですね! ……って、ちょちょちょ!?」
つれない扉は三センチほど開き、またすぐに閉じようとした。すかさずアネットことアーティはショートブーツの爪先を滑り込ませる。
平日の昼間にまだ寝ていたい師匠(仮)と起きてほしい弟子(自称)の拮抗した攻防戦。どちらも全く譲らない。ドアノブを引っ張り玄関を死守する相手に対し、アーティは老朽化した扉の縁に手と足をかけてこじ開けようとする。
そしてとうとう、決着の時。
「えいっ!」
「あ」
家主は手汗でドアノブに嫌われた。
軍配はアーティに上がり、年代物の扉は反動で思い切り外へ開く。その勢いのまま錆びついた蝶番を破壊。外れた扉は派手な音を立てながら、静かな午前のエントランスに転がった。
「ほら、ドアも『おはよう』って言ってますよ」
デニムジャケットに包まれた細腕からは想像できない怪力を見せたアーティが、この状況に不相応なほど可憐に微笑む。物理的な意味でも天真爛漫な彼女にとっては些細な出来事である。恋する乙女のパワーは凄まじい。
そんなことよりも、だ。
(ふぁあああットレビアーン! 寝起きのアンニュイな表情もス・テ・キ! まさに生きる芸術! ルーブルに住んでないのが不思議!)
ようやく顔を見せた青年を前に、マリンブルーの大きな瞳が一瞬でとろけた。尊敬と恋慕の入り混じった複雑な熱視線が、細身の男に惜しみなく注がれる。
青白い肌を際立たせる濡れ羽色の短い髪に、すらりと伸びた華奢な手足。不健康そうな印象の中に儚さが見受けられる美貌の持ち主だ。何よりひときわ目を惹くのは、世にも珍しいオッドアイ。海と月のような作り物めいた瞳が、彼のミステリアスな雰囲気を助長させた。しかし本人は自分の容姿に無頓着なのか、首元がよれたVネックのシャツに糸がほつれたオーバーサイズのカーディガンを羽織った非常にルーズな格好をしている。
(このアンニュイなファッションも、普通の人ならスタイルが台なしになる猫背も、ひっどい隈も、全てが魅力的だわ……! マコト先生は今日も世界一~ッ‼)
アーティは通常運転である。危ないドラッグをキメているわけでは断じてない。一般人よりもほんの少しだけ感性が豊かで変なだけだ。
「……とりあえず、入りなよ」
渋々、といった様子で招かれたアーティは有頂天になって気づいていない。背後から大家のマダムの鋭い視線が突き刺さっていることに。
「マコト」と呼ばれた青年は、壊された扉を開放的になった玄関に立てかけ、お向かいの大家へ軽く会釈する。「ちゃんと直しなさいよ」という無言の圧を放ち、彼女は自分の部屋へ戻った。
「マコト先生、入らないんですか~?」
リビングから呼ばれて深く肩を落とし、眠そうな目を擦った。この自由奔放なマドモアゼルにはどうにもペースを乱される。今日も本業の写真撮影には出かけられそうにない。
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