02. いろちがい
アーティはマコトの部屋の匂いが好きだ。先に断っておくが、変態的な意味ではない。
玄関を入ってすぐ右手にあるのはユニットバスなどの水回り。廊下を抜けてさらに奥にはコンパクトなアイランドキッチンとリビングルームがある。モスグリーンのベロア生地のソファには、毛布や脱ぎっぱなしのルームウェアが散乱していた。家主のずぼらっぷりがうかがえる。
リビングの隣のもう一部屋は、フィルム現像用の暗室だ。アーティは足音を潜めて扉に近づき、深呼吸をする。扉の奥から微かに漂う現像液のツンとした匂いに、慎ましやかな胸を膨らませた。
約三十年ほど前に提唱された「サステナブルな社会を実現するための条例」により、近年ではペーパーレスが常識だ。本に触れたことがないという子どもも珍しくない。写真の展覧会でさえ液晶画面表示がスタンダードなのだから、マコトのアナログなやり方は時代錯誤と言われるだろう。でも、いや、だからこそ。普段の生活とは無縁の薬品と紙の匂いが仄かに漂う築一五〇年の1LDKは、現代を生きるアーティにとって特別な場所だ。
(マコト先生の写真、見たいなぁ……)
アーティはもう何度もこの1LDKに押しかけているが、一度も現像室の中に入ったことがない。光を入れないようにするため、扉には厳重に鍵がかけられていた。さっきの玄関扉のようにこじ開けようと思ったわけではないが、未練がましく金メッキのドアノブを指先で撫でる。すると背後から家主の足音が近づいた。
「アーティ、そこは駄目って言ったでしょ」
子どもを諭すように穏やかな声で注意された。「はぁい、ごめんなさい」と素直に返事をして、アーティはドアノブからパッと手を放す。
「マコト先生、今日のお仕事の予定は?」
一方的に押しかけた客にウェルカムドリンクが出るわけもなく。つけっぱなしのラジオから市内の小学校で発生した銃乱射事件のニュースが流れる中、アーティは慣れた手つきでウォールシェルフからコーヒーミルとドリッパーを取り出す。
「午前中は寝て、午後は機材の手入れ」
マコトは眠そうな目を擦ってあくびを噛み殺しながら答えると、ソファへ沈んだ。客人が勝手にIHの電源を入れて湯を沸かし始めても、止める様子はない。
「普段通りってことですね! じゃあ一緒にお出かけしませんか?」
「え~……」
明らかに乗り気ではない返事をするマコトの仕事は、フリーのカメラマン。人気すぎて首が回らないほど忙しい……という日は、見ての通りほぼない。副業をしている様子もなく、彼の生計は謎に包まれている。そんなミステリアスな部分もアーティにはたいへん魅力的に思えた。
仕事以外ではインドア派なマコトは、彼女の誘いにあまり興味が沸かないらしい。話題をはぐらかすように、いつも首からぶら下げているレンズフィルターの手入れを始めた。シルバーの枠で縁取られた円状のガラス体は、磨かなくとも手垢一つなく透き通っているのだが。
「前にスナップ写真の練習に付き合ってくれるって言ったじゃないですか。お天気もいいし、きっと気持ちいいですよ」
「うーん……」
「ついでにお買い物もして、夜はキッシュを焼きましょう。もちろん私が作るんで!」
「よし、行こう」
気のない様子だったマコトが、その一言で食い気味に立ち上がる。 クローゼットへ向かう後ろ姿は別人のようにきびきびしていた。何を隠そう、彼はアーティの手料理に目がないのだ。
(胃袋の次は、マコト先生のハートもゲットしちゃおう!)
恋する乙女はどこまでも抜け目ない。アーティは小躍りしたくなるような気持ちでコーヒーミルのレバーを回す。豆が挽かれるガリガリという音楽に、軽快な鼻歌を乗せた。
しばらくしてから戻ったマコトが彼女の隣に立ち、ドリップの用意を始める。アーティは眼福と言わんばかりに彼の頭上から爪先までを眺めた。
すらりとしたシルエットがよくわかる黒いタートルネックのインナーと、細身のスキニーパンツ。ソファの背にかけられたグレージュのトレンチコートに袖を通した姿を想像して、無事に悶絶した。普段の首元が緩い服装も良いが、外行きファッションのマコトは控えめに言って超絶好みだ。天に感謝の祈りを捧げたい。
だがふと足下を見て、あることに気づく。
「先生、また靴下が色違いになってますよ」
「そうなの? 気づかなかった」
「も~。ふふっ、赤と緑、どっちがいいですか?」
「どうせ自分じゃわかんないし、どっちでもいいけど……」
「じゃあ赤にしましょう! いつものところにあります?」
「うん、たぶん」
これも、二人にとっては日常的な会話だ。
ドリップをマコトに任せ、クローゼットの中の引き出しを開ける。そこで彼の足元と同じくボルドーとカーキがセットになった靴下を発見した。
(マコト先生、またセット売りの安い色違い靴下を買ったわね。せめてワンポイントが入ってたり、素材が違うのを選べばいいのに)
ボルドーと一言で表現したが、アーティの目にはピンクや黄色の糸が混ざり合ったカラフルな靴下に見える。この二足の違いがわからないと言うマコトが撮る写真に、彼女はとても興味があるのだ。
二人は確かに同じ世界に存在しているが、異なる色の中を生きている。
それから二人はコーヒーカップを持ってソファとスツールの定位置に着いた。撮影場所の候補についてアーティがあれこれ話していると、マコトが不意に顔を上げる。
「あ」
「どうかしました?」
「ドアを直さないと、出かけられない」
「……あ」
いくらのんびり屋なマコトでも、不法侵入どんとこい状態で外出できるほど無神経ではない。
二人は顔を見合わせ、ややあってドリップしたコーヒーを気まずそうに啜る。いつもと同じ豆のはずなのに普段よりも苦く感じたのは、気のせいではないだろう。
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