第二話 水の国 ―2―

 女王が『ブルゥンディ・ベル』と呼んだ、“この大地”とは、すなわち“この世界”だった。

 そしてこの世界は、人々が『マナ』と呼ぶ“チカラ”が遍在することを除けば、自然に存在する動植物たちは『地球』とほぼ変わりない。

 まだこの世界に『戦争』という概念が持ち込まれる以前、水の国に現れた渡来人を中心とした測量団によって作られた精密な地図、それはほぼ正三角形をしていた。その渡来人曰く、一辺はおよそ三千五百キロメートル、大雑把に言ってオーストラリアの三分の二ほどの面積だという。夢希からすれば、オーストラリアが日本の二十倍以上広いということは覚えていたから、この大地が地球に存在するなら『大陸』と呼んでいいサイズに思える。

 その渡来人が水の国を『東』と定義したため、地図に記されたこの“大陸”の三角は、底辺を『北』に、頂点は『南』を向いている。

 三角の中心点から各頂点を結んだ線が国境となり、三つの二等辺三角それぞれが『国』となる。北が『光の国ラ・ブルゥン』、東が『水の国ル・ブルゥン』、西が『地の国ロ・ブルゥン』だ。

 ただし、大陸の中心部は、半径が数百キロメートルにわたる、大まかには円形の、底の知れない大穴になっている。穴の中心に向かうように真東から大河が、水の国を南北に分断するように海と繋がり、穴へは海からの水が絶え間なく流れ込んで大瀑布を形成している。だが、穴が海水で満たされた事は過去一度としてない。

 この底なしに見える穴が、地球に繋がっている、という考えを持って飛び込んだ渡来人もかつていたようだが、その後現れた夢希を含む渡来人が悉く、この世界からの帰還者などというものを全く知らない、ということは、そういうことなのだろう。

 大陸の周囲の海を真っ直ぐ進むと、いつの間にか元の場所へ向かって進んでいる、ということになる。上空へ向かっても同様に、気付けば降下している、という具合だ。どうやら大陸周辺を覆うようなドーム状に、不思議なチカラが働いて、外への脱出を許さないようになっている、というのが、近年、元の世界への帰還を模索した、ある渡来人の行動によって知られることになった、この世界の事実だった。夢希が上空で“膜”のようなものと感じたものが、その“チカラ”なのだろう。

 歴史としては、陸の上では、太古より永く、三つの国はただ緩やかな交流のみの干渉を持ち、それぞれが凪の平穏を過ごしていた。

 だが、渡来人の尺度で三百年ほど前、土の国に現れた渡来人によって、この世界に『戦争』の概念が持ち込まれた。その、人同士が戦い争うという行動は、変化無い平和の続いた世界に於いては、娯楽という一面も持っていて、土の国の内側であっという間に広がった。

 国の中で分かれて争っていたそれは、やがて外を向き、国同士の対立へ向かう。巻き込まれた形の光の国と水の国は、それを最初、男ばかり生まれる土の国が、女を求める手段と考えたが、そうではないらしいことはすぐに知れた。

 ただ、どんな理由にせよ、一方的に押しつけられる痛みを知れば、抵抗するために戦いに身を投じるほか無かった。

 闘争心に蝕まれた人々の意思は、いつしか世界に充ちるマナと呼応し、『戦花』という“力”を産みだした。

 それは一部の者のみが発現できた力だが、その大きな力は、争いによる被害を簡単に拡大させた。その大きな痛みが哀しみを生み、哀しみはやがて戦争を終わりへ向かわせたかに見えた。だが、その終わりは、ひとときの休息でしかなかった。

 この世界の人々は、争いによって平穏の退屈を知ってしまった。それは、ドラスティックで不可逆的な変化だった。

 故に、人々は退屈の中に痛みも哀しみも忘れ去り、そして再び、争いへ向かう。

 哀しみに疲れ、退屈に飽きる――そんなことが幾度となく繰り返された。それらは“凪”から見れば劇的と言って良い変化だったが、それが所詮は大きめの“漣”でしかなかったと、後に知る。

 そして四十年ほど前、土の国に一人の若い渡来人が現れた。その男は土の国で、それまで原始的だった攻撃手段の中に『兵器』をもたらした。

 土の国はその男の指導によって、それまでのこの世界から見れば恐ろしいスピードと言える四十年弱という時間で、技術を育て、洗練させ、そしていよいよ南方の山岳地帯から採掘した鉱物を大量の兵器開発に利用し始めた。

 そして現在、戦争は、兵器を手に入れた地の国が他の二国の領土を奪い広げるという形に変化している。それまではどんなに争うことはあっても形を変えることのなかった国境が、遂に形を変えたのだ。

 そうまでする土の国の目的は知れない。だが、この未曾有の“津波”が、この世界を良い方向へ向かわせるとは、到底思えるものではない――。


 ――それが夢希の学んだ、この世界だった。

 不思議と言葉は通じても、文字という“カタチ”は、そこに意味を持たせてみたところで“カタチ”でしかなく、夢希にはこの世界の文献を読み解くことはできなかった。よって、女王に付き従っていたシアナとローラが代わる代わる夢希に読み聞かせることでその内容を伝えた。

 どうやら言葉には“意思”が込められていて、夢希はそれを理解しているようだった。だから、文字だけでは理解できなかったし、女王の言ったように、騙そうという意思が言葉を語る者の中に有れば、何となくはそれが伝わってしまうのだろうと、そういった意思が彼女たちの中には無かったことによって、夢希は感覚的に理解した。

 この数日間、『宮殿』の中で寝食をしながらそういった“勉強”を続けていた夢希だったが、一段落した今は、宮殿から少し離れた街へ降りてきていた。根が体育会系の夢希には、座学ばかりでは気鬱になる。

 街並みは、建物は高くても三階建て程度、道は清潔で広く、建物どうしの間も充分なスペースがあって解放感がある。おそらくは石材でできているそれらは白系で統一されていて、それもまた清々しさを感じさせているのかも知れなかった。

(とはいえ……だ)

 上から見た感じなら、このまま真っ直ぐ道を行けば、より広い大通りに接続する。だが考えてみれば、この世界の事を学んでも、この国、この街については何も知らなかった。

 例え大通りに商店が並んでいたとして、金銭の類いは持ち合わせていない。そもそも、通貨が利用されているのかどうかも知らない。

(それに……)

 夢希は人見知りというわけではないが、知らない人間と出会い頭に親しくなれるようなコミュニケーション・モンスターでもない。

 都会の人混みを知る夢希にとっては疎らと言っていい程度だが、大通りには今居るような道と比べれば、十分に多いと言える人通りがあった。今の服装はこの世界に現れた時のレーシングスーツではなく、支給されたこの世界の物だから、見た目で問題が起こると言うことはないだろうが、右も左も分からぬままにそこへ向かえば、今は少なからずストレスに感じるだろうと思える。

 自然、夢希の足は大通りから離れる方向へ向かっていた。

 坂道に作られた簡素な階段を登った先は、街の北側、東の宮殿の方は林に遮られて見えないが、眼下に街並みを見下ろせる高台だった。

 夢希は、ちょっとした崖になっている手前に設置された木の柵に手を置いて、その前に広がる光景を見た。

 街の中に人通りは控えめだが、遠目でも、見る人全てが女性と見えて、この国は土の国とは逆に女ばかりが生まれるのだ、というシアナから聞いた話を、信じないわけにはいかない気持ちになる。

 目を上げれば、街からそう離れていない南に、地図で言えば『大河』だという水面が、遠く向こうまで広がっている。対岸は水面の反射する陽光の中に隠れているのか、はっきりと知れない。最初に夢希がこれを、湖か海かと認識したのも無理はない。

 夢希は今、そんな光景を、とても静かで、穏やかで、平和な光景と見て感じた。

「だけど……戦争をしている……」

 口に出してみても、実感はない。河の北側に宮殿が置かれていることから、土の国の侵攻に対してこの河を最終防衛線としているのだろうか、なんて想像ができるくらいだ。

 他に夢希にできる事と言えば、理解できないということに、ぼんやりとした罪悪感のような、微かな痛みを胸中に覚えるくらいだった。

 曰く――夢希には、あるいは、夢希の戦花には、力があるという。この世界で起こっている戦いを、終結へ向けるかも知れない、そう期待される程の、力が。

 でもそれは、理不尽な暴力を振るう土の国に対抗できる、より優れた暴力でしかない。夢希はそう思う。

 ――それを、振るうことができるのか?

 夢希は自問自答する。

 それをすれば、人を殺すことになるかも知れない、という想像が、まるで現実味を持たない。いざとなればできる気もするし、全くできない気もする。でも、こんな曖昧な気持ちのままそれをしてしまえば、そこには後悔しかないような気はする。

 だからといって、力を持ちながら、争いから逃げ続けることができるのか? 関わらないまま、まだ何も分からないようなこの世界で、生き続けることができるのか? そうして生きたとして、結局その先にも後悔しか残らないのではないか?

「……ダメだ」

 思考はどこまで突き詰めてみても、身体感覚として知る現実には届かない。少なくとも、今までの夢希の人生に於いてはそうだった。

「同じ後悔なら、してする後悔、か……」

 それは後ろ向きな結論だという気もするが、ただ状況に流されてする後悔よりはずっとマシだとも感じる。

 そんな思考の中、夢希は視界の端に、動くものを認めた。

 それはどうしてか、優雅な白鳥を連想させる、一人の女性だった。

 純白の、ドレスめいたワンピースに、薄桃色のボレロを羽織り、同系色の帽子は、その幅広のブリムが彼女の表情の大半を隠している。

 そんな女性が、凛と背筋を伸ばした姿勢で、街を見下ろしながら、夢希のいる方へゆっくり歩いて来ていた。

 夢希が不思議と目を逸らせずにいると、不意に、崖下から吹き上げるように風が吹いて、その鍔広の帽子を浮き上がらせた。女性は咄嗟に、それを飛ばされないよう押さえた。


 ――そして、二人の視線が、交差した。


 瞬間、世界が溶けて消えたようだった。

 音も無く、景色も無く、無限に広がる空間のようでもあったし、極めて限定的な空間のようでもあった。そこには、ただ二人だけが、形を持つ意思として存在した。

 二人の間に言葉が交わされることはなく、だが、確かにそこには知覚を超えて、何らかの交感があった。それは、表面的な感情や思考を越えた、思惟とでも言うべきものの交換だった。

 その一瞬に訪れた理解しきれない理解に、ただ感情として、限りないと思えるほどの歓喜と、それ故に生まれる恐怖が、共にあった。

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