私はまだマシな方ですよ
@shk_spring
魂の殺人
締切を過ぎたら死という状況に直面したことはあるだろうか。俺は今そんな状況下にいる。
残り猶予一分ほどと言うアラームがセットされる音を聞いて以来、俺は無限に近い精神時間を体感している。
「はっ、はっ、はっ、はっ————!」
書き上げる内容は決まっていた。終わるはずだった——!だが、いくら書くことが決まっていようが、いくら無限の時間を感じようが手が動かなければ現実では何も進まないのだ。
現実の俺は大玉の汗粒をだらだらと流し、血走った目で画面を凝視している。焦燥のあまりか、浅くて早い口呼吸を繰り返していた。そしてそれ以上に血の気がひいて仕方ない。
「もう少しやぞ〜!」
後ろから取り立て人の愉快そうな声が聞こえる。跳ねっ返りしかいないカクヨム上がり作家を商業作家として大成させることに定評のある剛腕編集者の藤堂さんだ。
圧倒的体躯と純粋な暴力で人を逆らわせない。俺はこの人のノンフィクション小説を書き上げた根性を買われて、鬱人間製造株式会社を辞めて商業作家としてデビューしたのだ。
「うおおおおおおおおおおお!」
俺をここに缶詰にしてるのも藤堂さんの愛ゆえだ。その愛が俺を導く————!
ピピピッ!ピピピッ!ピピピッ!ピピピッ!
いくら精神時間が加速してもダメだったよ。
時刻は約束の時刻、昼の十二時を回った。残り数頁、藤堂さんを題材にした小説ならものの僅かで書き上げれるはずの頁数なのに。
椅子に深く身体を預けて、絶望と共に俺は振り向いた。身体が酸素を求めて、深く息を吸い込む。
「なんて香しい、とんこつの香りだ……!」
併設されたキッチンスペースには一人のシェフの姿があった。シェフがお出しした美しいどんぶりを藤堂さんが手にしてやってくる。
「書き終わらんかったか」
「ダメでした、藤堂さん。俺、悔しいです…!」
揺らめく湯気が藤堂さんの顔を隠して、その表情を読み取ることは出来ない。だが藤堂さんほどの器の広さを持った人ならば、その手のどんぶりの中身を俺に見せつけて——。
「ほな、このラーメンは約束通り俺が貰うわ」
「えっ」
見せるだけだった。藤堂さんは元気の良い頂きますの声とともに、勢いよく豚骨ラーメンを啜り始める。少し硬めに茹でられた細麺が勢いよく巻き上げられていく。
「旨いわ。日野古が勧めるだけはある。旨い」
焦げ目のつけられた厚切りの焼豚を藤堂さんは麺と一緒にかっくらう。一口一口が大きい。もっと味わって食べて欲しい。
「ほんま旨いな。白い飯が欲しくなる濃さや」
その場でスープの一滴も残さず完飲したどんぶりを、トドオカさんは丁寧にキッチン台の上に返してくる。俺はその姿を呆気に取られるように見ていた。
「ふぅ御馳走さん。めっちゃ旨かったわ」
藤堂さんは育ちが良い。シェフに愛想を振り撒いた。その顔で俺に振り返る。そんなに睨みつけないでください。つかつかと大股で歩み寄ってくる姿に思わず肩を縮めて萎縮してしまう。
「さて、日野古!約束を復唱せい!」
とんこつの香りがする大声が耳朶を震わす。
「お、俺が締切に間に合えば特製ラーメンを……!」
「間に合わんかったらどうなる言うた!?」
辣腕編集の本領発揮か、矢継ぎ早に俺を詰める。
「完成するまで缶詰でぇ!俺はラーメン禁止でぇ!」
「そうや!でも作って待っとる!捨てる訳にはいかん!だから俺が食う!俺がラーメンを食うのは日野古、お前のためなんや!」
藤堂さんの言葉にハッとさせられた。俺を見出してくれた漢の中の漢、そのつぶらな瞳の中に映る自分の姿は情けないものだった。
「藤堂さんっ……!俺……!俺はっ……!」
情けなくもその場にへたり込む。
「言わんでえぇ、極道モノを縛って初めての長編小説、それもラブコメや!そう簡単やない!」
大きな手のひらが俺の肩を優しく叩く。
「飯食いに行くぞ日野古!お前のための超健康精進料理が用意されとる!書き上げるまで付き合ったるからな!」
その後、藤堂さんの厳しい最終校正を潜り抜け、俺が特製ラーメンにありつけたのは翌々日の昼間のことだった。藤堂さんは六食連続で同じラーメンを食べ続け、お腹を壊してしまった。
藤堂さんのお腹と引き換えに書き上げた青春小説は不朽の名作として世に送り出されたのだった。
私はまだマシな方ですよ @shk_spring
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