第70話 俺の味方の我が姉

 教室で主人公役が決まったその日の夜、俺は勉強なんぞ手につかず、自分の部屋でぼんやりと天井を見上げていた。

 

 暗くなりきった窓の外からは秋風が時折窓を叩き、かすかに木々を揺らす音が聞こえてくる。


「……俺、主人公役なんて絶対無理だよな……」


 思わず1人ボソッと呟く。その呟きは誰に届く訳でもなくて静かに消えていく。

 

 昼間の光景が頭から離れない。

 みんなの期待に満ちた顔、水沢さんの「頑張れる気がする」という言葉。

 それを聞いて断れなかった自分。


 ──みんなの前で演技するなんて、俺には到底無理だ……。


 小さく息を吐いてベッドに突っ伏す。

 過去の記憶が頭をよぎる。


 中学生の頃、学校行事で人前に立ったときのことを思い出す。

 進行役を任されたとき、上がり症の俺は緊張のあまり声が震えてしまい、台本の内容もぐちゃぐちゃになった。

 その時のクラスメイトたちの微妙な空気、益山〜!しっかりしろよ〜!と笑われた記憶。

 彼らも俺もその時はおふざけのような感じではあったが、なかなかその記憶が頭から離れてくれない。


 ──また、あの時みたいになったらどうするんだ……。


 その不安が胸の中を占めていく。


「俺、絶対向いてないのに……どうして引き受けちゃったんだよ……」


「どうして引き受けたの?なぎ?」


「──わわっ!」

 

 ノックもなしに、姉が部屋にずかずか入ってきた。

 

「なぎ、どうしたの? 部屋でずっとため息ついてるじゃん。何悩んでるの?」


「ノックもせず勝手に入ってくるなよ!」


「いやぁ、何度もノックしても返事なくて、諦めて入って、それでもなかなか反応がなくって」


 そうか……そんなに俺は考え事に没頭していたのか──。


「──ってのはまぁ、それは嘘だけど」


「嘘なのかい」


 姉――海月みつき俺のことをいつも気にかけてくれるけれど、そのやり方がちょっと雑で困る。


「別に……悩みなんてないよ」


 適当に返そうとしたけど、海月は鋭い目つきでじっと俺を見てくる。


「ふーん、そう? でも、その顔は明らかに『悩んでます』って書いてるけどねぇ?さっきも明らかにボーッとしてたし……」


 面倒くさいなと思いながらも、俺は視線をそらした。


「おー、これは図星だね。さてさて、渚くんは何に悩んでるのかなー?」


「……クラスで文化祭の劇やるんだけどさ」


 少し黙った後、俺はぼそぼそと話し始めた。

 これ以上姉ちゃんからの追跡を逃れるのは無理だと悟ったからだ。

 主人公役を引き受けることになったこと、でも自分には無理だと思っていること。


 話しているうちに、少しずつ心が軽くなるのを感じた。

 それでも、姉ちゃんの反応が気になってチラッと顔を見ると──。


 案の定、彼女はニヤニヤしている。


「え、主人公役!? なぎが!? なにそれすごいじゃん!」


「全然すごくないよ、俺には絶対無理だし!」


 慌てて言い返すと、姉ちゃんはさらにからかうように続けた。


「でもさ、クラスのみんながなぎを選んだってことでしょ? それって、そんだけ期待されてるってことじゃん」


「期待されてるからって、俺ができるとは限らないだろ……」


 そう返しはしたものの確かにそうだ。期待されてなかったら俺をみんな主人公の役に抜擢しようとしないのも確かではある。

 

「まあ、私はなぎのこと応援してるし、もし全然色々と上手くいかなくってつらくってもお姉ちゃんがいつでも味方だからね〜」


 さらっとそう言われて、俺は言葉を失った。


 ──味方……。


 その言葉だけで、胸がなんだか熱くなる。

 思い返せば、俺のことをこんな風に支えてくれる人なんて、今まで数少なかったかもしれない。

 姉ちゃんはその数少ない一人なのだ。それを改めて実感する。


 自然と目が潤みそうになってしまった。

 ああ、やばいやばい。

 そしてそんな俺を姉ちゃんが見逃すわけがなく……。

 

「えっ!? なに、泣きそうになってるの!?」


 姉ちゃんが驚いて声を上げる。


「な、泣いてない! うるさい!」


 俺は慌てて顔をそむけたけど、確かに泣きそうになっていた。


「うわー、なぎが泣きそうになるなんてレアだわ! ちょっと記念に撮りたかったなぁ」


「姉ちゃん、ほんと黙って!」


 そんなやり取りをしながら、少し気が楽になるのを感じた。


「──でもさ、いい機会じゃない?」


 少し真剣な声色に変わった海月の言葉に、俺は顔を上げる。


「なぎ、最近ちょっと変わったよね。ちゃんとみんなに向き合ってる感じするし」


「……俺が?」


「そう。前のなぎだったら、そもそも主人公役なんて話にならなかったと思うよ?」


 姉ちゃんの言葉に、俺はハッとした。


 ──変わった……俺が?

 

 確かに、前の俺だったら絶対にクラスのみんなに名前を挙げられることもなかった。

 それに、水沢さんがあんな風に言ってくれることも……。


 ──俺、変わったのかな……。


 だけど、どうすればこの不安を乗り越えられるのかは分からない。

 それでも、少しだけ前に進んでみようと思えたのは──


「ありがとう、姉ちゃん」


 素直にそう言うと、姉ちゃんは弟の素直な感謝に驚いた表情を一瞬見せたが、嬉しそうに笑って見せた。


「お、泣き虫弟がやっとお礼言った! じゃあ、主人公としてカッコいい姿見せてね!」


「うるさい……」


 俺は照れくささを誤魔化しながら、軽く頭をかいた。

 

 俺は、まだ完全に自分には自信が持てる人ではない。

 だけど、今は少しだけ勇気を持ってみようと思う。

 

 この文化祭で、何か変われるかもしれない──俺はそんな気がした。

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