第56話
不破は目的地もなく車を走らせた。道路照明灯が連続的に流れ、道路のずっと先まで見通せる夜のドライブは、浮遊感を一層強めるばかりだった。
「ねえ、本当にごめんなさい。勝手なことを言ったのに会いにきてくれてありがとう。仕事は大丈夫?」
「優秀な部下がいるから」
「そうなの。でもごめんなさい。気を付けるわ」
不破はどうでも良さそうに、そう、と言う。
国道を滑るように走る。通行量の少ない道を照らす信号機の光さえ、どこか感傷的な何かに映る。
不意に不破は尋ねた。
「夏葉、結婚すんの?」
途端に重たい空気が肩に乗って、車窓の外に目を逸らしながら、不破に触れたい、なんて思う。
「……すると、思うわ」
「へえ」
「私、不破のおかげで変わったそうよ。それで前向きなお返事をいただいたの。良かったのよ、これは。こういうことを、昔から望んでいたんだもの」
結婚の二文字が薄暗い。
結婚したら家族の役に立てるけど、私は白川さんとキスをして、白川さんに抱かれて、私の日常は白川さんに塗り替えられていって──…。
不破を知らなければ良かったのだ。千尋くんに恋をしたままだとしても、結婚生活を悪くはとらえていなかった。
不破を知ったからだ。不破を知ったおかげで縁談が一歩進んだというのに、不破を知ったせいで私が後退りをしているなんて、どんな皮肉なんだろう。
そういえば不破はさっき「気持ちはある」と言った。からかいか、冗談か、はたまた、社交辞令か。悪ノリに乗じるつもりで、結婚に反対なのかと不破に尋ねてみる。
不破は、からかって、呆れて、もしくは、げんなりするかうっとうしそうに顔をしかめて「そんなわけないだろ」と興味の微塵も見当たらない返答を寄越して――。
「それは夏葉が決めることだろ」
――ほら。
多少なりとも期待していた自分を見つけて目を伏せたが、落胆や恥ずかしさには襲われなかった。
不破の返答が続いたから。
「したくねえなら、俺んとこ来れば?」
不破はこんなことまで簡単そうに言う。
「俺がいいんだろ? 全部。じゃあ俺んとこ来ればいいんじゃねえの?」
口調にも態度にも、冗談っぽさが見当たらない。
「……なんで、そんなこと言うの?」
「そう思ったから?」
嘘? 本当? 対極のふたつがせめぎ合う。
でも、不破の嘘を私は知らなかった。胸がいっぱいになって、返答に窮して、膝の上に置いた手を見下ろす。不破は横目に私を見て、は、と馬鹿にするみたいに笑った。
「夏葉、泣いてんだろ」
「泣いてないわ」
「泣くなよ。今何もしてやれねえよ」
「──あなた、私のこと好きなの?」
真に受けていいのかという疑いは消えず、そのままぶつけた。
不破は膝に添えた私の手の甲に手のひらを重ねた。
「それなりに」
思わず笑ってしまう。
「変な人」
不破は「私でいい」とは言わない。「日和がいいけど日和じゃなくて私でもいいよ」とは言わない。「好きだよ」とも言わない。「それなりに気持ちはあるよ」って言う。
ちょっと、でも、そこそこ、でもなくて。
「あんた、こんなもんで喜ぶの?」
「嬉しいもの」
「へえ」
不破はやはり、とても簡単そうに言った。
「彼女、なる?」
何か変わるのか尋ねれば、不破は苦笑と共に「何も変わんねえな」と答える。
「じゃあ、なる」
もたれかかれば最後、どこまでも沈んでいく。その感覚を未だ持っている。
でも、沈み込んだ先の苦しさは、嫌悪しない。
「それなりに以外の言葉をくれたら、なるわ」
強がりと困惑と泣きそうな気持ちに蓋をしてふざける私に、不破は迷いもせずに応えた。
「──あんたを見つけたのが俺で、良かった」
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