第54話


朝美が体を許すとすれば、兄だと思った。


その夜は悪足掻きのように朝美を抱いた。まだ朝美は何も言っていないから、触れる権利は俺にあると言い聞かせて。



事が終わると、朝美は背を向けたまま言った。



「別れたい」



忘れさせてやる、なんて、思ったこともない。朝美がそうしているように、俺は俺で恋をしていた。


ただ、それらは交わり合わなかった。



「わかった」



共鳴を繰り返しても、肌をぴたりと寄せ合っても、鼓動の音を聴かせ合っても、涙を笑顔に変えても、重なり合わなかった。



3ヶ月ほどで、朝美から会えないかと連絡が来た。朝美は「久しぶり」と短い挨拶を済ませて、「ごめんね」と珍しく気まずそうに笑った。


私、結婚することになったの。穂高のお兄さんと。ごめん、私、やっぱり忘れられなくて………あの、それでね、穂高、お願いがあるの……。



「穂高と付き合ってたこと、内緒にしてくれない?」



くだらねえ。



意味ねえよな、あんな日々に、こんな焦燥も。


意味ねえよ。誰と一緒にいても、気持ちは置き換わらない。朝美がそうで、俺がそうだったように、人の思う先は変わらない。関係性の密度も、時間の濃度も、空間の湿度も、みんな無関係だ。恋で恋は打ち消せない。




──あなたに恋をしたいのだけど。




1人で完結する恋に食指は動かなかったが、話をすればするほど、夏葉という人物は見えなくなるようで、結果として興味を持たざるを得なかった。



夏葉は言った。


好きな人がいる。その人への恋心を断つために、俺に恋することを許可してほしい。自分は何もしない。俺も何もしなくていい。ただ、自分が俺に恋しても、会うのをやめないでほしい。


要約すると、好きなやつを吹っ切るために俺に片思いをしたい、という至極独りよがりな宣言だった。



興味はなかった。恋愛に前向きではないし、割り切った関係をいくつか飛び越えていけば、いずれ性欲にも煩わせられなくなる。それで問題ない。


でも、夏葉という人間に興味があった。タイプの女と割り切った関係を締結できたらいいという打算ではなく、興味があった。



面倒な思考回路を踏んで俺の前に立つ夏葉を、芯の部分まで暴きたい。それは、情欲と似て非なる、好奇心を固めて成った知識欲だ。


知りたい。


崩したい。


歪めたい。


壊したい。


相互に干渉し合った先に、何か猛烈に焦がれるものが生まれる気がした。




当てはめるに相応しい言葉を知らない。朝美のときには恋だと認識できたものが、同じ名前で呼ばれることを嫌がっている。


構成要素も同じではない。共感も同情も哀れみも苛立ちも、朝美には抱いたことはなかった。感情の振れ幅もおとなしい。あらゆる欲は制御できている。夏葉を失ったところで涙する男はいない。



初恋と答え合わせをする。これを恋と呼んでいいのか問い合わせる。この欲望のあり方を、この態度のあり方を、干渉の方法と、心の重なり具合と、未来への希望的観測を、初恋と照合する。


そうすれば、これは「恋」ではないと結論付く。



でも、どんなときにも背筋の伸びている夏葉に、どんなときでさえ歯がゆいほど澄んだ瞳を向ける夏葉に、嘘をついた瞬間なんてなかった。



俺のこと好きになっていいよ。


何したっていい。


会いたい。


癒して。


彼女になる?


──長い付き合いになればいいなと思っています。




どうせうまくいかない。どうせ意味を成さない。諦め、手放し、遠ざけ、色褪せるまで放置すれば、いつか自ずとそれは過去のものになる。


でも、もし、過去のものになることを待たずとも、日の目を見ることが可能ならば、俺は、脳の解答ではなく、夏葉に向けた嘘偽りない言動を支持したい。



そんな衝動に、暖かな色が重なった。




     

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る