第53話
恋をしたことがある。朝美という2歳年上の幼馴染に対してだ。
親同士の仕事上の付き合いで、子供の頃から年に数回顔を合わせる仲だった。昔から、朝美は強気で優秀な人だった。
「穂高ってあなたのこと?」
迷いなく土足で踏み込んで、悪びれることもない。
「あなただけ母親が違うと聞いた。“水商売上がりの女”だって。だから隅に隠れてるの? かっこ悪い。あなたは身の振り方を間違えている。あなたは堂々と、飄々としながら、虎視眈々とあなたやあなたのお母さんを侮ってきた人全員の鼻をへし折る機会を狙って、彼らを真っ当な態度で嘲笑うべきなのに」
意志の強そうな瞳と、自信のみなぎる笑顔に立ち振る舞い、胸をそり返しているような大きな態度。
「あんた敵多いだろ」
「まあ、そりゃあね。でも、私は能力が高いという自負があるし、それに見合う努力をしている。影でこき下ろすことしかしていない人なんて、敵じゃない」
「へえ。そこまで言い切れんのはすげえな」
俺が願ったわけじゃない。気付いたときには白黒の世界が色付いていたのだから、どうしようもない。
朝美は俺の兄へ長い片思いをしていた。俺の8歳上の兄は、頭が切れて、洞察力に優れ、人の懐に入るのが上手い、朝美の言葉を借りれば、能力の高い人、だった。
彩りはもとより寒色めいていた。
朝美にいろんな感情を教わった。いろんな欲望を教わった。朝美といると、自分にも世界にも深みが増していくようで、平たく言ってしまえば楽しかった。
特有の「楽しい」を持続させたい欲があって、中学3年の秋、姑息に立ちまわることを選んだ。兄が結婚を前提に交際していることを知って悲しみに暮れる朝美に、付け込むことにした。
連絡を取って、約束を重ねて、学生の頭で思いつく限りの場所に引っ張った。笑えばいいと思った。泣けばいい、怒ったりびびったりすればいい、と思った。
朝美が兄にしてほしいことを全部、俺が朝美にしていくことを心に決めていた。
朝美の感情が動けば俺の感情も一緒に動いた。その共鳴はひどく希少なものなのだと知った。そういうものを積み重ねていった。
そうこうしている間にも、兄の結婚の話はより一層現実感を増していく。変化の乏しい時間を積み重ねて、その頃には高校2年の冬を迎えていた。いつからか俺を信頼して泣くようになった朝美を抱きしめて、思うままに泣かせて。
「俺は朝美が好きだよ」
傷口に甘い毒を擦り込む。
朝美はすがるように抱きしめ返して、朝美の気が変わらないうちに、下手なキスをした。
そんなことで朝美が心変わりするはずもない。
朝美の心は兄に渡したまま、それを俺も承知の上で、笑い合って、ふざけ合って、デートをして、旅行をして、触れ合って、繋がって、一緒に朝を迎えて、時々喧嘩して、それでも求め合って、俺の中に増える朝美の気配を喜んだ。
手探りで愛そうとした。手探りで振り向かせようとした。
朝美の特別には、最後までなれなかった。
兄は結局結婚を取りやめた。理由は曖昧なものの他、真実味を帯びた何かは誰にも語られなかった。
兄が結婚をやめてから、朝美は泣くことが減った。たまに泣いては遊ぼうとした。
「ねえ、穂高、キスして」
「穂高がキスしたら、この涙、止まるよ」
涙を流すその顔に口付ける。すると、朝美はそのうちけたけたと笑い始める。それが伝播して、共鳴して、ほら、これは希少な体験なのだからと、俺たちは俺たちなりにうまく恋愛をしているのだと思い込んでいた。
兄が結婚をやめてから、3年はもたなかった。
大学3年生の春、朝美の肌に覚えのないキスマークを見つけた。
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