第50話
夜、白川さんのお部屋にお食事を運ぶ。配膳を済ませたので一旦下がろうとすると、白川さんに引き止められた。
「夏から何か変化が?」
「変化、ですか?」
「少し雰囲気が変わったようだから」
夏からの変化といえば、不破と会ったことくらいだ。それは引越しや進学に相当するような大きな変化ではないので「思い当たりません」と答える。
白川さんが手酌をしようとするのでお酌を代われば、白川さんは私の腰元に手を添えた。お客様から触られるのには慣れない。気を悪くさせずに手から逃れる方法を探して、私はいつも身動きが取れなくなる。
「不躾だけど、男、知った?」
不破を思い出して、目を泳がせる。
白川さんは笑った。
「だからなのかな。色っぽく魅力的になったなと」
「そう、ですか……」
「でも反応はウブだね。知ったけど慣れてはない程度?」
笑顔を作ろうとして、困った。こわばった顔を顎を下げて隠し、白川さんの手から距離を取る。
そんな反応すら好ましいらしい。
「以前断った縁談だけど、ぜひ前向きに検討したい。これから互いに互いを知り合う時間を設けていきませんか?」
恐縮です。ありがとうございます。よろしくお願いいたします。
頭を下げる私が、遠い。
給仕を終えるとどっと疲れた。事務室で仕事の続きをしようとするも身が入らず、他の職員さんに今日はもう帰りなさいと気をつかわせる。休みを要するほどではないが、仕事にならないので、お言葉に甘えることにした。
旅館のすぐ裏にある実家に戻り、リビングのソファーに倒れ込む。天井を見上げていれば、勝手にため息が出ていった。
「……良かったじゃない」
私でいい人もいた。日和じゃなくてもいい人もいた。
これが望んでいたこと。白川さんがいいのならば、成婚に向けて時間を共有していくフェーズに移るのは、当然だ。
これも全ては不破のおかげだ。自分ではよくわからないが、不破と関わり合ったおかげで色気が出たきた。それが功を奏して、白川さんのお眼鏡に適った。不破のおかげで千尋くんの恋を過去のものにすることにも成功したのだから、不破って私の救世主なのかもしれない。
腕で目を覆い、ひとりでに笑ってしまう。
幸運が降って湧いた。私の収まるべき場所がそこにある。家族の役にようやく立てる。私でいいと言う人を大切にしないと。
でも、気がふれている。
「会いたい──」
白川さんといるとき、私、馬鹿みたいなことばかり考えていた。
どうして不破に触れられるのは、平気だったんだろう。
時刻は21時をさしていた。
無意識のうちにスマホを手にしている。不破発信の短い文章でのみ成り立っているようなトーク画面を開いている。
入力をするのは簡単だった。送信を押すためらいは、どうせ私は不破の行動を決められない、という諦めが打ち消した。
【会いたい】
送った瞬間、嘲笑が浮かんだ。これを目にした不破がどんな反応をするところも想像できなかった。悲しかった。別に何にも起こっていないのに、悲しかった。
ソファーに沈み、目を閉じる。5分だけと制限を設けて、現実の感覚から抜け出そうと試みる。すると、スマホが震えた。不破からだった。
【会えんの?】
会えるの? 返事に迷った。何の言葉も出てこなかった。
そのとき、スマホに着信が入る。画面に不破という文字を表示しながら、音を立て震え続ける。
「……はい」
電話を取った。
『会えんの?』
電話越しに声を聞くのは、初めてだった。
言葉に詰まる。何の単語も出てこない。胸が逼迫している。強く強く押されて、骨がうっと打たれる。
『夏葉?』
馬鹿みたいだ。声を聞いたくらいで涙腺が緩む。
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