17
第49話
3月が過ぎ4月に入ると、私の住居は実家に移った。
日和と千尋くんは籍を入れ、実家近くのマンションに住み始めたので、日和は旅館とマンション間の移動に忙しい。
引っ越して以来、不破とは会っていない。連絡が来ることもなく、暦は初夏へと足を踏み入れる。
不破は掴めないのだから仕方ない。「高速で1時間は都合がつく」と言ったのも、家の場所を教えてくれたのも、触れ合った夜も、くれた言葉や感情も、全ては幻覚の類だった。そう思った方が余程それらしい。
会わない方が楽だ。
欲張りでわがままな私は影を潜めている。仕事に忙殺されて焦がれる時間もない。不破という人間がどんどん遠のいて、記憶はどんどん薄れていって、こうしていつか完全な過去になるのだろう。会わない方がずっと健全で、楽だ。
私は、今度は正しい選択をする。恋を恋で塗り替えるのではなく、恋を時間と仕事で塗り替えていく。千尋くんへの恋が過去のものになったように、不破への恋は今度こそ私1人で過去のものにする。
その先にようやく希望が持てる。不破は千尋くんへの恋心を過去のものにするために出会っただけの人なのだと、納得ができる。
5月の下旬、事務室でパソコンと向かい合いメール管理をしていれば、日和が慌てて駆け寄ってくる。
「夏葉、夏葉! 白川さんいらしてるんだけど!?」
「予約の確認をしていなかったの?」
「したけど! ご両親かと思ったの!!」
「思い込みは危険よ」
「はい、反省します! てか、ねえ、違うでしょ。なんでそんな冷静なの?」
日和はテーブルに手をついて、私の顔を覗き込む。
私はもしやと思い日和を窺った。
「日和、白川さんに何かされた?」
「されてないけど!」
「何だ。じゃあいいじゃない。何を騒いでいるの?」
「夏葉に会いたいとか言ってんだよ!?」
画面に戻した視線がさまよう。驚きながら「おっしゃっているでしょう」と言葉遣いを指摘すれば、日和は不服そうに「おっしゃっているんだよ!」と言い直した。
パソコンをスリープ状態に落としながら呟く。
「私に何のご用が……」
「え、行くの!?」
「え、行くでしょう? 呼ばれているんだもの」
「白川さんだよ?」
「どこにいらっしゃるの? お部屋?」
立ち上がり事務室の扉を目指せば、道を塞ぐように日和が前に立つ。
「やめようよー。夏葉は腹痛で倒れたって言うから」
「なんでそんな嘘つくのよ」
「だって、何言い出すかわかんないよ、あの人」
「行けばわかるわ。どこにいらっしゃるの?」
「……庭」
「わかった。ほら、日和も仕事に戻って」
日和の肩に触れ、横を通って事務室の扉を開く。日和は「わからず屋」と拗ねたような口調で呟いた。
庭に出ると、小さなベンチに腰かけ庭を眺めている姿があった。顔を見るのは昨年の夏以来だった。「お待たせいたしました」と声をかければ、白川さんはこちらを振り返り、微笑する。
「忙しいのにごめんね」
「とんでもございません。どのようなご用件でしょうか?」
「少し話したくて」
5分ほどぽつぽつと世間話をすると、白川さんは言った。
「今夜あなたに給仕を頼みたい」
「私、ですか?」
「僕は、前向きにあなたとの今後について考えてみようと思っている」
白川さんは「では」と私の肩に触れ、客室に戻っていった。
私は滅多に給仕をしないが、白川さんの希望に応えるため中居さんと話し合い、今夜の給仕を私が行うことになった。日和は口うるさく反対し、なぜか千尋くんまで「やめておけ」という旨のメッセージを連投してきた。
「日和、千尋くんに何か言ったんでしょう」
「言ったよ! 不破さんに言いたいところをぐっと堪えて千尋に言ったの」
「不破も千尋くんも関係ないんだから、巻き込まないの」
「だって私の言うこと全然聞かないんだもん!」
誰に止められても、やめておくつもりはなかった。
ただの給仕に過ぎないし、これはおそらく幸運と呼ぶべきものだとわかっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます