第45話


しばらくしてレストルームに立つと、一哉さんが手招きした。カウンターに寄れば、一哉さんは内緒話をするように声を落とす。



「最近来ないの、どうしたの? もしかして穂高と何かあった?」

「いえ、何もないのですが、いつ来たらいいのかタイミングがわからなくて」

「何それ。絶対穂高と何かあったんじゃん」

「いえ、ないですよ。ないです、本当に」

「えー。あいつに何された? 言っていいよ、俺からも怒っとく」



不破へのあまりの信頼のなさに笑いそうになる。


「本当に何もないので」と言い切れば、一哉さんは大人らしい微笑を浮かべ何度か頷いた。



「また来ます。春には引っ越すので、今までみたいな頻度では来られなくなるんですが」

「引っ越すの?」

「はい。就職で」

「就職……待って、今何歳?」

「22歳です」

「まじか。大人っぽいね。俺勝手に夏葉ちゃんって社会人なんだと思ってた」



話が長くなりそうなのでカウンター席に腰かける。



「就職先、遠いの?」

「高速で1時間だそうで」

「高速で……車持ってねえからわかんないな」

「電車で2時間です」

「え、遠いね」

「遠いですよね」



それを不破は、都合がつくって言ったんですよ。


一哉さんに共有しそうになって、飲み込む。



「引っ越しても時々来てよ」

「もちろんです。ここが好きなのもありますが、こんなふうにお店に通い詰めたの初めてなので、愛着があるんです」

「えー、そんなの言ってくれんの? めちゃくちゃ嬉しいんだけど」



一哉さんは屈託なく笑って、薄い橙色の液体が入ったグラスを私の前に置いた。



「俺からお祝い」

「え……ありがとうございます……」

「いえいえ。俺の方もありがとうってことで。就職おめでとうね」

「恐縮です。ありがとうございます」



爽やかな味わいのものだった。控えめな甘さやフルーツの香りが楽しい。


気に入ったと伝わったのか、一哉さんは嬉しそうな表情を浮かべた。



「夏葉ちゃん、何系の仕事するの?」

「事務や裏方ですね」

「へえ! かっこいいね」

「かっこいいのは日和……双子の姉の方ですね。日和は若女将なので」

「え!」

「実家が神奈川で旅館を営んでいるんです。日和はきっと素晴らしい女将に成長すると思います」



すると一哉さんは興奮した様子で前のめりになった。



「すげえ。夏葉ちゃん、跡取りなんだ」

「私、というか、日和ですが」

「えー、どっちもそうじゃん! どっちもすごくない? 家業継ぐためにいっぱい頑張ったんでしょ?」



向けられたのは、全てをまるっと受け入れるような寛大な笑顔だった。


一哉さんは続ける。



「俺も穂高のこと見てきたからさ。家業継ぐ人ってまじですげえなって思うよ」

「……不破もそうなんですか?」

「え、知らない? 穂高の家本当にすごいよ」



一哉さんは、ホテル経営で有名なグループの名前を出して「そこの次男」と説明する。1番最初の夜を共にしたのは、おそらくその系列のホテルだ。


なるほど。住んでいる世界が違うとは、こういうことを言うのだろう。



「そんな家の子供なら、不破にもその……縁談はあるのでしょうか?」

「まあ、あるみたい。格式ばったものばかりじゃないけど、暗にうちの娘どうですか? ってのとか、いい家のお嬢様との食事会を用意されたり」

「そうなんですか」



期待はしていない。期待をしないことは得意だ。


だけど、覚えておこうと思った。不破は住む世界が違って、家の釣り合いの取れる相手と結婚する可能性があること。私は最近わがままが過ぎるから、絶対に覚えておいた方がいい。



「……ん? あれ、穂高もって何? え、もしかして夏葉ちゃんも縁談あんの?」

「あるのはあります。でも断られるので、おそらく成婚に至ることはありませんが」

「え、なんで断られるの?」

「皆さん、日和との話だと思われるみたいで、蓋を開けてみると私だから、がっかりされて……」



つい半年前にも言われた。


──何だ、そっちかよ。俺、日和ちゃんが良かったんだよね。



   

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