第42話

不破はタクシーを拾って、運転手の方に都心の住所を告げた。だから、もしやと思ったけど、予想は当たっていた。タクシーを降り、不破が入っていったのは、見上げれば首の痛くなるような高層マンションだった。


コンシェルジュの方が常駐していて、エレベーターもカードキーで反応するタイプのもので、この人は一体何者なんだろう、と足がすくむ。



高層階でエレベーターを降りる。最奥の扉の前で足を止め、カードキーで開き、中に入っていく。中から扉を開けてくれていた不破は、私が入ると、通せんぼをするかのように壁に手をついた。



「いらっしゃい」



不破の重心がこっちに傾いて、見上げると同時に不破の顔が寄った。ああ、キスだ。そう自覚して、受け入れる。


不破の手がうなじに触れて、頭を固定されて、でも逃げられないわけでもない程度の拘束に、情欲の影を見せるだけの理性的なキス。不破の服を掴もうとした手がさまよって、自分のコートの裾に落ち着く。



気が済んだらしい。離れた不破は、何ということのない顔をしている。



「玄関でがっついてんの笑えるわ」



私を置いて中に入っていく。その背中を見ていたら思う。


キスの最中、隣を歩いているとき、不破の手が目に留まったとき、不破が笑ったとき、思う。



──触れたい。



恐れ慄くほど広いリビングすら意識の外に追いやられていた。触れたいという衝動に完全に私の体は侵されていた。不破の後を追ってリビングに足を踏み入れて、スーツのジャケットを脱ごうとしている不破に尋ねた。



「触れたいとき、どうしたらいい?」



不破は瞳だけを使って、こっちを見る。



「会いたいと思ったら、どうしたらいい?」



この程度の吐露に泣きたくなる。この程度の悩みに感情が振れる。


どうしてこんなものを見つけてしまったんだろう。



「私、最初に、私は何もしないと言った。ただあなたに恋をする許可がほしいと、許可がもらえたらそれでいいと言った。なのに、どうしたらいいの?」



千尋くんには触れたいと思わなかった。千尋くんと半年会わなくても平気だった。千尋くんが笑ってくれたらそれで良かった。誰かに恋をしている姿に胸は痛んだけど、私は欲張りではなかった。千尋くんの前ではいい子でいられた。


誰の前でも、私、わがままなんて言わなかった。



「もちろん、我慢すればいいってわかってるわ。嫌な思いをさせたり無理強いしたいわけではないの。でも、これは思ってもいいこと? 伝えてもいいこと?」



なんで不破には、こんなくだらないものを見せてしまうんだろう。



不破はジャケットをソファーの背にかけて、私の方へ歩いてくる。目も合わせるのも後ろめたく斜め下を見ていれば、不破は私の3歩ほど離れた場所で立ち止まった。



「言ってみれば?」



不破は腕時計を外しながら簡単そうに答える。



「言ってみたらわかるだろ」



からかっているような気配に、テーブルに腕時計を置く音。



「……嫌われるなら言いたくない」

「嫌うことか?」

「わがままはあまり言わない方がいいと学んだわ」

「随分保守的だな」

「こっちは真面目に言ってるの」

「まあ1回言ってみろよ。はいさよなら、とは言わねえよ」



恐る恐る不破を見上げる。


いつ何時も涼しげなこの顔が、例えば切羽詰まったように崩れて「会いたい」と懇願したことがあったのだろうか。私には縁のない表情を思う。



「……あいたかった、」



結局目を逸らして呟けば、不破は「へえ」とやはりからかって、興味もないくせに続きを促す。


言ってみればわかるとは、相手にしないから勝手に言っていろ、ということらしい。安心した私は不破の足元に視線を落とした。



「……触りたい、」



人としてどうなの? と呆れられそうなわがままを口にする。


すると不破は一歩歩み出て、私の顔を覗き込んだ。



「どうぞ」



思ってもみなかった返事に言葉に詰まった。


黙ったままよろよろと近付いて、不破の肩に額を乗せ腰に手を添えれば、不破はその比ではない力で背中をぎゅっと抱き寄せた。



「くそ面倒くせえ。触りたいなら勝手に触れよ」



不破は間違いなく面白がっている。



「……しらないのよ、だって」

「ああ、そう。知らねえことばっかで大変ね」

「あなたはいいわ、何でも知ってて」

「絡むなよ」



不破は頬に手を添え、反対側の首筋に顔を寄せる。繰り返される短いキスに身じろぎをすれば、腰を抱いて引き寄せ、唇を重ねた。宥めるような軽い口付けに甘やかされる。


不破のどこかを掴もうとして、落ち着きどころがわからず迷子になる。自分の手を握りしめた。



不破は私の目を覗く。



「俺はあんたに好きになっていいっつったんだ。何したっていい」



好きになってもいいという許可をもらえるだけで、奇跡だった。嫌われるどころか、わがままを一蹴して、まさか、何をしてもいい、という言葉を向けられるなんて、一体どうして想像できただろう。



「……抱きつきたい」



呟くように吐露すれば、不破は「しょうもね」と笑って私を抱きしめる。



    

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