第38話
苦しい?
波が引くのをじっと待っている。乱れた心は元ある場所へ戻すだけ。嵐が去ったら、いるものを残していらないものは捨てて、綺麗に整頓していくだけ。苦しくない。
「……1番楽よ」
何も考えない方がいい。何も思わない方がいい。感情はいちいち拾わなくていい。感情の1個1個に理由や原因を紐付けしなくていい。
「私、期待したことないの。本当よ。夢見たこともない。今まで誰にも気付かれなかったし、応援にも祝福にも嘘はなかった。信じないでしょうけど、本当なの。だから、バグなんだと思うわ。きっと感情の誘因をずっと間違って覚えているのよ。だから、私、いつまでもこんな反応をしてしまうのよ」
間違っている。あれもこれも、弾むのも落ちるのも、胸を掴まれ揺さぶられる感覚に、骨を打つような痛みだって、全て。
もうとっくに過去になっているはず。もうとっくに千尋くんを好きな私は消えているはず。ただ脳がバグを起こしていて、一部分だけアップデートがされなくて、消えたはずの基礎情報がいつまでも受け継がれているだけ。
「バグのせいで乱れるけど、落ち着いたらきちんと元に戻してきた。それで問題がなかった。2人の邪魔をしたことはないもの。だから、これでいいの。これで正しい。今日もそうすればいいの」
だからもう帰って。私は不破の目を見つめる。
不破は私の吐露を、まるでおもちゃで遊ぶみたいな笑い方でもてあそぶ。
「今までと今と何が変わってんの? 何も変わってねえだろ? バグだって思わねえとやってらんねえくらい何も変わってねえんだろ? じゃあ、やっぱ意味ねえんだよ」
──所詮、初めてのことに浮かれてるだけだから。気が紛れただけ。現実は何も変わってない。あんたはその男を好きなまま、変わらない。無意味だ。
「そんなの」
「あんたが決めるんだよな? 俺とあんたは違う。浅海の言ってることは正しいよ」
「……何が言いたいの?」
「現時点で意味はなかった。これは現状に変化がねえんだから、客観的にも主観的にも事実だろ? 俺との関わり合いもあんたの対症療法も、無意味だった。だったら、違うことしねえと」
不破は「来いよ」と手を広げた。
操られているようだった。胸の辺りを引っ張られて、不破のもとへと引き付けられる。不破に寄った。不破の前に立った。不破は私の腕を引いて私を抱きかかえた。
人の温度。両腕を使って抱きしめられる。
「浅海は俺じゃねえけど、誰だろうと根本的には一緒なんだよ。こういうときに1人でいてもしょうがねえんだわ」
「……しらない」
「じゃあ覚えろ。こういうときだよ、人に触んのは」
力強い腕の中で暖められて、鼓動の音に宥められる。
掻き乱された心がじくじくと痛み始めて、苦しさが膨張して、でも冷たくない。これといった何かはないのに悲しくて、浮かび上がれなくて、でも、寂しくない。
耳に優しい言葉も慰めの言葉もなく、不破の体温がじんわりと侵食してくる。防波堤を越えて、静かに、静かに押し寄せる。不意に奥底に触れ、辺りを浸し、氷が溶けていくように何かが開く。連動して、握りしめていた手のひらが開き、こわばりが解け、涙腺が緩んで、視界が滲んだ。
不破は何も言わない。
不破の肩にもたれて、どこまでも沈んでしまいそうな感覚を俯瞰しながら、不破の服を濡らした。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「帰れって、いっぱい言って」
不破は少し笑った。
「良かったな、俺が帰んなくて」
「良かった。……本当は安心したから。不破を見ると安心するの。変でしょう」
「あんたが変なのは元々だろ」
不破は私の顎先に触れ、不破の肩に埋めていた顔を上げさせた。目と目が合う。不破の静かな目の中に私がいて、それをとても貴重に思う。
その間にも、次から次へと涙があふれて止まらない。
「なんで泣くのそんなに静かなの?」
「しらない」
「声出せよ、びびるだろ」
「しらない」
「何だ、さっきから、知らねえ知らねえって」
「知らないわよ」
私は不破の手を払って、不破の肩に再び顔を沈める。
不破の鼓動を聞く。不破の呼吸を感じる。目を閉じる。こわばりがほどけていく。
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