第36話


千尋くんは、一度テーブルに視線を落とした。



「──夏葉、縁談受けんでしょ」



突然話題転換を試みた千尋くんの声は、自分の身に降りかかった災難を前にしたときのような悲しみを孕んでいた。



「日和に聞いた。日和、泣いてたよ? 夏葉が白川さんとの縁談を受けるつもりだって」

「……もう断られたわ」

「何て言って?」

「日和が良かったって」

「でも、白川さんが夏葉と結婚するって言ったら結婚する気なんでしょ」

「ええ」



千尋くんは悲しそうに上目で窺う。



「白川さんに限らず、良い縁談があるなら受けるわ。一応うちには歴史があるから、時代錯誤だろうが、きちんとした家との関係を求めるのも理解できるから」

「夏葉はそれでいいの?」

「昔からそう思っていたから。私は女将にはなれないけど、そういう形でなら役に立つことができるって。相手方が私でもいいとおっしゃるなら、断る理由なんてないでしょう」



縁談があるなら、私が受けるのが1番だと思う。



適役というものがある。日和が次期女将として学んでいるように、千尋くんが日和の彼氏として日和のそばにいるように、人それぞれに相応しい役というものがある。


私には女将は向かなかった。裏で事務作業や客室準備をしている方が向いていた。これも適役。


日和には千尋くんがいる。2人は結婚する。千尋くんも家柄に不足はないけれど、もしそれ以上の家柄との関係を求められるのであれば、私が受けよう。そう思ってきた。



千尋くんが暗い顔をする理由も、日和が泣く理由も、私にはわからない。



千尋くんは長い間黙っていた。単なる世間話の一環にしては沈黙が重たく、もしかしたらこの話をしに来たのかもしれないと錯覚するほどだった。


ハンバーグが運ばれてきた頃、千尋くんはようやく口を開いた。



「俺は夏葉には好きな人と結婚してほしいなって思うからさ、そういう結婚には反対なんだよね。好きな人といるのってすげえ幸せなもんだよ。そういうのを夏葉にも知ってほしい」



好きな人はいるよ。好きな人といるのが幸せだって、わかるよ。


内心は殺して「そうなのね」と頷く。



「でも、夏葉がしたいことなら外野が言うことでもないのかな、とも思うからさ、できれば白川さんじゃない人と結婚してよ」



千尋くんは冗談めかして笑った。


ハンバーグを食べながら「相談は何だったの?」と尋ねると、千尋くんは「そうだ!」と手を打った。



「指輪をね」

「指輪?」

「そう。籍入れるときに贈ろうと思ってるんだけど、日和のサイズがわかんなくてさ」

「サイズ…」

「まだあげたことないんだよ。ネックレスとか時計とかバッグとかは、こう、渡しやすいんだけど、指輪って特別感があってさ」



千尋くんは情けなさそうに頭を抱える。



「夏葉、日和と身長同じくらいだし、ちょっとセクハラかもしれないけど、体型も同じ感じじゃん。では指のサイズも同じくらいかなと思いまして」



セクハラ云々はわからないけど、千尋くんの思考回路には頷けた。



「私のはわからないけど、日和はたしか5号だった。去年だからそう大きくは変わってないはずよ」

「5号! うわ、まじで助かる! ありがとうございます」



千尋くんは仰々しく頭を下げる。「やめて」と言えば顔を上げ、眩しいほどの満面の笑みを浮かべた。それが癖みたいにつられた。すると千尋くんはもっと深く笑う。



「俺、夏葉が笑うの好きなんだよね」

「……笑ってないわ」

「笑ったっての! 夏葉が笑うと一気に子供っぽくなるから、見てるこっちまで幸せになんだよね」



また会いたいな、なんて、千尋くんは簡単そうに言って、私よりよっぽど子供らしい顔で笑った。



    

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