第8話
不破が怒る姿を想像してみた。あの静かな目が怒りに染まって、淡々と理詰めする姿が簡単に浮かび、きっと怖いに違いないと確信する。
そのとき、店の扉が開いた。来客だろうかと視線を向ければ、予想外に不破が立っている。
不破は私を一瞥した後、慣れた様子で歩を進め、定位置であるカウンター席の一番端に腰かけた。
「穂高、今日は来ないのかと思ってた」
「俺も来ねえ気だった」
「その様子じゃ仕事じゃなさそうだな。うまくいかなかった?」
「泣き出したから置いてきた」
「はい、最低」
むしゃくしゃした様子で煙草を咥えた不破は、火をつける前に横目で私を見た。
「煙草、平気?」
「ええ」
「そ」
不破は慣れた手つきで火を付けた。その仕草が色っぽく感じ、私は目を逸らすことを忘れてしまう。
「……穂高、さん」
「何?」
「お名前、さっき聞いたの」
「ああ」
紫煙があがる。
「私は
不破はたっぷり3秒は黙って、へえ、という飾り気のない相槌を打った。
「夏葉ちゃん、穂高のこと不破って呼んでんだよ。おもしろくね?」
「呼び捨てかよ。絶対俺のが年上だろ」
「いくつなの?」
「28」
「あ、ほんとね」
口の端だけで笑う横顔から、ようやく視線を外す。
いつもより口数が少ない。というか、雰囲気が刺々している。女性と揉めたので、虫の居所が悪いのだろうか。
あまり喋りかけない方がいいだろうか、と思って黙っていることにした。すると、不破はまるで苦行のように煙草を蒸しながら、
「あさみなつはって、どっちも名前みてえだな」
不意に、気怠げに笑った。
「よく言われるわ。あさみちゃんっていう名前の女の子、多いものね」
「元カノにもいたわ」
「あさみちゃん?」
「そう。あさみちゃん」
不破は一哉さんにお酒を頼む。一哉さんは「ギムレットにする?」と尋ね、不破と一緒に笑っている。
不破は2本目の煙草に火をつけた。
機嫌が悪いかもしれないと理解しているのに、好奇心が抑えられない。煙草を咥える見慣れぬ横顔に、私はつい口を開いてしまう。
「あさみさんというのはどんな人だったの?」
きっとはぐらかすだろうという予想は裏切られた。
「ろくでもねえやつ」
きら、と何かが光って、今さら、不破の耳にピアスがついていることに気が付く。
はい、ギムレット。一哉さんがグラスを置く。それは透明な液体だった。いつも飲む濁った液体とは違う。いつものグラスとも形状が違う。
「──なんでそんな人、好きだったの?」
煙草。ピアス。静かなだけでない瞳。ギムレット。
些細な発見が不破を他人に見せる。
「さあ、なんでだろうな」
この不破を私は知らない。
知らない人のような不破は、けれども変わらず、何もかもを見透かしたような目をしている。
だからきっと、何かを見つけた。
押せば倒れそうな何かだ。
不破は煙草を消し、手を伸ばす。壊れ物にそうするように、私の後頭部に触れる。
「──なあ、浅海」
愚かにも、名前を呼ばれたとは思わなかった。
「相手逃して困ってんだわ。今なら誘いに乗ってやれんだけど」
「……恋をしていいの?」
「あんたがそうしたいなら」
不破は手を滑らせ、私の左手に重ねた。
大きな、暖かな、少しかさついた手。初めて重なった男の人の手は、私をか弱い生き物にする。
望めば恋が手に入ると、鼻先に餌を吊された。出る幕もなく錆びてしまった“女”という私が、今、壇上に招かれている。可愛くない鼓動が聞かれ、迷いを帯びた答えを見つけた。
「……遠慮しておく」
握り返せば指先が絡んだのに、と思いながら、手を離した。
「今のあなたに頼むことではないわ」
断ったというのに、不破が気分を害することはなかった。それどころか、より楽しそうな表情を浮かべて、テーブルに頬杖をついている。
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