第1話



男は、不破ふわと名乗った。


本名がどうかは知らない。



「──何だよ、また来たのか」



ワイシャツの袖をまくりネクタイを緩めた不破は、私を視界に捕らえて早々眉を寄せた。



「いいでしょう。あなたの店じゃないんだし」

「俺の店も同然だ」

「ただの常連が何を言っているの?」



私はカウンター席に座る不破の隣に腰を下ろした。


店主の一哉かずやさんが「何にする?」と私に尋ねる。決まりきった答えを口にしようとすると、不破が返事を遮ってしまう。



「休みの日くらい他にやることねえのか?」

「それはあなたの話?」

「俺は酒飲みに来てる。飲めないあんたとは違う」

「ノンアルコールも美味しいの、ここは」



私は不破を一瞥することすらなく「お任せで願いします」と一哉さんに伝える。


不破は面倒臭そうに顔を背けた。



「この店、教えるんじゃなかった」

「今さら悔やんでも遅いわ」

「まさかストーカーだとは思わねえだろ」

「ストーカーじゃないわよ」



不本意な名詞に思い切り顔をしかめた。


無関係な一哉さんが「ごめんね」と苦笑する。



不破は、初めて会ったあの日、私をクラブから引っ張り出し、この店に連れてきてくれた。その結果、私がここを気に入って、週に一度のペースで足を運ぶようになって、不破が後悔するに至った。



「こんな頻度で来るとか、絶対友達いねえだろ」

「当たり前でしょ」

「胸を張るな」

「そういうあなたはいるの?」

「目の前にいる」



不破の目の前には一哉さんの姿。


一哉さんは、不破とは対照的な朗らかな笑みを浮かべ、驚きを隠せずにいる私に説明を加えた。



「高校の同級生なんだ」

「そうなんですか。大変ですね」



つい、素直な感想が口を衝いて出ていった。


一哉さんはけらけらと笑い、不破は不快そうに眉間に皺を作った。



不破は基本的に茶色っぽいお酒を好んだ。


それから、いつ来てもスーツを着崩していて、基本的に私をうっとうしがっていて、そのくせ、近くに私の存在があることなど痛くも痒くもないような、ひどく冷めた目をしていた。


口うるさくとも目が静かで、私が不破のそばにいることを気に入るのに、時間は必要なかった。



席を立つのはいつも私が先だ。


不破が何時までそこにいるのか、店を出た後どこに帰っていくのか、ほとんどのことを知らない。



「ごちそうさまでした。お会計を」



立ち上がってレジカウンターに向かう。


その前に、不破を見下ろした。



「前向きな返事はまだ聞けそうにない?」



不破は目も合わせずに呆れる。



「まだも何も、ねえよ」

「お礼は考えるけど」

「具体的に何?」

「ウィスキーとかどう?」

「俺はそんな安くねえのよ」



ふざけながら、不破が私を見上げる。


目が合った。夜の海を思わせる静かな不破の瞳が、暖色の光を浴びて輝いている。



「そう。じゃあ、また出直すわ」

「出直すな。諦めろ」

「嫌よ」



不破に背を向け、ヒールをかつかつと鳴らす。


不破は私を呼び止める意図もなく声を張る。



「じゃあ、口説き文句を練り直せよ」



顔の向きを変えなくてもわかる。



「俺に恋をしたい、なんて言われても、食指がまったく動かねえ」



不破はきっと意地悪な顔で笑っている。




   

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