51話


例えば、千惺とランチをしたあの日、テラス席にいたカップル。

例えば、飲み会の席で聞く恋模様。

例えば、街中ですれ違う恋人たち。


表面だけであればみんな幸せそうに見えた。でも、楽しいだけの恋愛なんて、きっと、世界のどこを探しても無い。


だれだって荒波に呑まれて、悩んで、諦めようとして。それでもたった一人に振り向いてほしくて、たった一人の特別になりたくて、もがき苦しんでいる。


わたしは、立ち向かうこともせずに、その道を諦めた。それが正解だと信じて、好きな人から……和泉さんから逃げた。和泉さんの気持ちも聞かずに、なんでもない振りをして、強がって。


わたしはずっとそうだ。 お母さんが居なくなって、家族が少し壊れた気がして、わたしは、それを繕うことに必死で、大事に抱えていた。お父さんやお兄ちゃんの真意を汲み取ることなどせず、ひとりで勝手にぐるぐると廻っていた。


まるで大縄跳びに入れず、淡々とリズムを刻む子どもと何ら変わりない。輪の中に入れず、足踏みしているだけ。



和泉さんの恋が叶うのなら、別にいい?


わたしは聖人君子でもない。ただの一般人。


好きな人に好きな人がいるから、告白ができない?


はじまる前から終わりを考えて、逃げ回って、バカみたい。


好きな人に、女として認知させる方法?


ぎゅっと踏ん張り、立ち上がった。部屋の隅にあるドレッサーの引き出しを開けると、中には封筒だけがある。これは少しずつ貯めていたお給料の一部だ。その中に一緒に入れていた名刺を眺め、スマホを握りしめた。


千惺が言いたかったことと、わたしが考えついたものは同じではないかもしれない。


だけど、きっと正解だと信じて、スマホに文字を打った。


:


週末の夜、わたしは、三つあるうちの夢のひとつを叶えるべく、とある美容室の前にいた。


決戦の夜だ。


夢のうちのひとつはおそらく今夜、ぺしゃんこに潰れてしまう。ということは、わたしの夢の三分の二が今夜消化されることになってしまう。


勢いで決めてしまったけれど、人生って勢いが大事だよね。お母さん。


脳内で語りかけても、もちろんお母さんは返事をくれないから、当然、わたしは自分で「うん!」と気合を入れて、" Ciel "の名前が掲げられた店内に足を踏み入れた。


わあ、ここが和泉さんの職場……!


ネットで予約する時に一度店内の画像は観たけれど、流石、開店して半年のお店だ。ドアベルの音、観葉植物、ヴィンテージ感漂う雰囲気、細部にまで映えやインテリアに拘っているのが伺える。めちゃくちゃオシャレだし、とてもいい香りがする店内だ。


「いらっしゃいませ、ご予約の方ですか?」


「はい。赤井、、と申します」


自己紹介すると「ネットで予約の、赤井さまですね。こちらがロッカールームでございます」と、促されるので、色味や鍵さえいちいち可愛いロッカーに自分の荷物を押し込んで、案内されるがままカット台に向かう。


和泉さん、居ないなあ……。


その間、さりげなく周囲に目配せをしたけれど、女性スタッフが数名しか見えない。和泉さんどころか、男性スタッフもいない。

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