50話

薄い壁一枚隔てた先にある綺麗なEラインが月明かりに照らされており、和泉さんが煙草を口に含むと尖った喉仏がしずかに上下する。


くちびるから薄らと逃げてゆく紫煙は和泉さんの真上で空気にまぎれて溶けてゆく。


煙草を吸う横顔が好き。尖った喉仏が好き。口元に佇むホクロが好き。


ずっと好きな横顔。過去形ではなく、今も尚好きなまま。


でも、その瞳はわたしを映さない。誰か別の女性を閉じ込めている。


好きな人に、好かれる人になってみたい。


なんにも隔たれることなく、会う理由もなく会える立場になりたい。



──" 好きな人に、女として認知させるチャンスはひとつしかないと思うな "



あの日の千惺の言葉が消えずに、ずっと脳内で廻っている。


「心雨」


すこしだけハスキーでいて、心地よいテノールがわたしを呼ぶ。その声は、わたしの思考回路を強制的に寸断させる力を持ち合わせているから、意識が舞い戻る。


「ちょっとだけ、こっち来い」


さらに手招きまでプラスされてしまうと、拒否することなど困難だ。


言われた通りに距離を詰め、冷えたベランダの手すりに凭れた。すると、和泉さんはことんと手すりに腕をつき、その上に顎を乗せてくる。同じ高さになった視線。冷たい月の光が世界を照らすなか、和泉さんの澄んだ瞳はわたしだけを見つめている。


何を言われてしまうのか、あまい不安に構えていると、急に和泉さんの手が伸びてきて、わたしの頭にその手を乗せた。


わたしの頭を撫でる手のひら。目をぱちくりと瞬きするあいだに、和泉さんの手は復路を辿る。



「また嫌なことでもあった?」



内側を見透かされ、ありましたよ、と。言いかけた。しかし、一言でこころを渡すのは、あまりに簡単で滑稽だ。


わたしの悩みを、こんなにもあっけなく見せてたまるか。


一度くちびるをきゅっと結んで、ぎこちなく開いた。



「……どうしてそう思うんですか?」


「んー……俺の勘」


「随分と頼りないですね」


「はは、確かに。でも七年の付き合いだから、意外と侮れないんですよ」


どう?と。和泉さんは聞き取りづらいボリュームでささめいた。


ねえ、和泉さん。


わたし、和泉さんのことが好きなんです。でも、和泉さんには好きな人が居るって知って、落ち込んでるんです。


浅ましいわたしは、今日も和泉さんのお家に行きたかったんです。理由が無くなって、行けなくなって、落ち込んでるんです。


言いたい、言えない。


聞きたいことも、ちっとも聞けない。


和泉さんからもらったあのアイスだって、眺めるだけで、溶かすことも食べることも出来ないわたしは、言いたいことは全部くしゃくしゃに丸め込んで、上手になった笑顔を貼り付けた。



「……半分、正解です。和泉さん、頭撫でるフリして、本当に自然乾燥なのか髪質確認してません?」


「ばれた?」


「七年の付き合い、舐めないでくださいね。じゃあ、わたしはそろそろ寝ます。おやすみなさい」


「ん、またな」



美容師らしからぬ、簡単なお見送りを受け取ると家の中に戻る。ふわりとしたカーテンに包まり、ずるずるとしゃがみ込んだ。

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