47話

その日はなんとなく和泉さんに会うことが出来なくって、バイト先でシャワーを浴びて帰宅した。安心してください。顔は洗っていませんので、すっぴんではないです。


今宵も隣室の明かりを先に確認して、ああ、帰ってきてないんだ。と、行く宛てもなく勝手に落ち込み、こんなんじゃダメだって、スマホを取り出した。


通話ログでお兄ちゃんの名前を探して耳にあてると、電波はすぐに繋がってくれる。


「もしもし、心雨。なんかあった?」


第一声でわたしの心配をしてくるお兄ちゃんが、いつものお兄ちゃんらしくて、頬が緩むのは当たり前だった。


「ねえお兄ちゃん。今わたしが住んでるマンションって年契約だよね?」


「たぶんな。どうした急に、卒業後の引越しのことでも心配してんの?」


あたしの熱量とはちがい、お兄ちゃんはあっけらかんとして訊ねてくる。再来年ではなく出来ればすぐにでも、の話である。失恋へと向かう初恋を持続するには、隣人という存在はあまりよろしくない。


和泉さんの恋が上手くいって、好きな人がもし和泉さんの家に来てみてよ。


飲み会の時にみはるが言っていた桃色ボイス事件が我が身に降り注ぐ恐れがある。赤の他人ではなく、好きな人の桃色ボイス……そんなの耐えられない。


だから考えついた、引越し作戦。これはまだ、わたしの脳内計画であり、実行には移せていない。ワンチャン月契約を狙ってみたけれど、引越しはおそらく無謀な話だ。


「ずっと住み続けるのは無理だと思ったから、今のうちに聞いてみようと思っただけだよ」


「先のことを考えられる心雨は偉いなあ!分かった。契約のこと、聞いとくよ」


「ありがとう」


いつも、自己肯定感をあげてくれるお兄ちゃんと通話を終えて、家に帰りついた。


すると、ドアノブに茶色の紙袋が掛けられているので、当たり前に怯む。なんだ。一体、誰からの刺客だ。


自分の家なのに、忍者の気分。神経質になりながら紙袋を覗いてみると、中には綺麗な状態のタッパーがきちんと仕舞われているだけなので、拍子抜けだ。



《ごちそうさま》



ちょこんと貼られた付箋を見れば緊張が解けて、頬が緩む。


意外とまるっこい字は、間違いなく和泉さんのものだ。洗ってくれるだけでありがたいのに、こういう、手書きのメッセージを残すひと手間が和泉さんらしい。しかも、わりと上手なうさぎのキャラクター付きときた。



家に入るとリビングのソファーに浅く腰掛け、スマホを取り出し、暫く悩む。



わざわざ洗って下さり、ありがとうございます。と打ち、厚意を無下にするのも気が引けて、消去する。


今度は何が食べたいですか?


うーん……。少し、馴れ馴れしい。


忙しいみたいですけど、体調、大丈夫ですか?


……彼女でもないのに、何聞いてるんだか。


《受け取りました》


さんざん悩んで、ちっぽけな脳内が出した答えはたった一言。それだけのメッセージでさえわたしにとっては苦行だ。たったひと言を何度も読み返し、いざ送信。


呆気なく向こう岸に渡った文章を確認して、ソファーにだらりと脱力した。固くなった息を吐き出すと、自分のやる気も全て身体から逃げていく。


ふにふにとくちびるを摘んでみた。下くちびるが終われば、上くちびるに触れる。



脱力した腕でスマホを握りしめると、ふあ、と小さなあくびが出た。ソファーに横になって目を瞑ると、心地よい眠気がわたしを呼んでいた。


会いたくない、と願えば会えるのなら、会いたくないと思えばいい。


和泉さん、会いたい、なあ。


でも、わたしは毎回、飽きることなく願ってしまう。



一日の疲れを閉じ込めた体でねむる前、夢の中、目覚めた瞬間、髪を梳かすその時。一日がはじまるその時も、もちろん講義中も、ご飯を食べると和泉さんも今ご飯を食べているのかと考えるし、たくさんのフラッシュを浴びている最中でさえも、和泉さんを想って笑顔を浮かべている。



…………会いたい、です。和泉さん……。



今日もまた、眠りに落ちる直前、いつもの願望を胸に抱いた。


給湯器の故障が直ったとのメッセージは、翌日の録音で聞かされた。


わたしたちをつなぎ止めていた理由も、こんなに呆気なく、切れてしまった。

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