43話

「あ!ビーフシチュー作ったんで、半分持ってきました。バゲットと一緒に食べると美味しいんですよ、今日は枝豆とチーズのバゲットを……」



持ってきた紙袋を開けると、それと同時に手首を掴まれ、まぶたに影が落っこちて。


「……!ん、」


瞬きよりも早く塞がれたくちびるの、なんと呆気ないことか。



「ありがと」


満足そうな微笑みも、ちょろいわたしにとってはご褒美なのですが、和泉さん。



「……不意打ちはやめてください……」



家のすぐ目の前とはいえ、外で、誰が見てるかわかんないのに、急なキスは心臓にわるい。否。普通のキスでも心臓に負担がかかって、良くない。


自分の家のドアを片手で開ける和泉さんは、「うーん」と視線をゆったりと宙に漂わせた。再度わたしに落とされたその目は、勝ち誇るような色気を纏っていた。ええ、嫌な予感である。



「都度、今からキスしますって断りいれるべき?」


「え、ぇ?」


「そっちがいいならそうするよ。キスしていい?てか、する」



け、決定事項……!?


静かにドアが閉じれば、自ずとそのドアに背中を預ける形をとってしまい、為す術なくくちびるは塞がれた。


一線を越えて、昨日の今日で、もう、何度目だろう。



「気まずかったから、俺がいないうちに済まそうって魂胆?」



咎めるような囁きに、びくりと肩が身震いする。



「……っち、ちが」


「心雨、嘘つく時鼻の穴膨らむんだよな」


「っえ!みないで」


「嘘だよ、嘘。……隠すってことは、今の、本音?」


「ち、がいます……」


「じゃあ手、どけて。キスができない」


「まだ、キス、するんですか?」


「ん。心雨が俺のキスに慣れて、気まずさを感じなくなるまで」



続けようか、と。悪魔みたいな言葉を鼓膜に流し込まれ、背筋が震えた。やわらかい羽で擽られたような感覚だった。


ぎゅっとくちびるを強ばらせていると、啄むようにくちびるの表面を包み込まれる。ちゅ、ちゅ、と音を鳴らして、たまに舌先が弄ぶようにくちびるをなぞる。呼吸の合間に口を開ければ、キスが深くなるタイミングだった。


今度のは、ながい……。


正直、不慣れすぎて、どうしていいのか分からない。手も、どこに置いていいのかわかんないし、息継ぎのタイミングさえわからない。そんなわたしをあやす様に、耳の裏をこしょこしょと擽られ、そのついでに髪の毛を撫でてくれる。


そのうち、息継ぎがおなじになるから、和泉さんの服の裾を掴んだ。キスが深くなっていく予感がした。


キンモクセイの残り香と、タバコの、あじ……。


恋愛にまつわるアレソレは、和泉さんとしか経験がない。


好きかな?と、自分の気持ちに迷ったことも。


和泉さんの隣に知らない誰かがいて、胸が軋んだ日も、このあまい香りがした。


好きかも。と、淡い期待を寄せたことも。


やな事があって凹んでいるときに、くちびるに煙草を咥えた和泉さんが頭をなでなでとしてくれた。煙草は嫌いだけど、和泉さんから香る燻った香りは好き。


わたしが知る" 恋 "という文字は" 和泉 藍 "という人によって形成されているし、" 好きな人 "という字は、" 和泉藍 "という人に勝手に変換される。


ああ、そうだ。飲み会での願掛けのような告白も、真正面から一世一代の告白をされても頷けなかったのも、結局、わたしは……わたしは、和泉さんを忘れたくなかったのだ。


わたしの中にある和泉さんの欠片を消すのが嫌なだけだった。それがどうしようもなく、怖かった。


たどたどしく、和泉さんの背中にしがみついた。和泉さんは窮屈そうに屈んでくれているから、わたしは首を持ち上げた。


甘だるくわたしの腰に手を回す和泉さんは、ずっと憧れていた人で。お兄ちゃんの、友達で。


わたしの、お隣に引っ越してきて。


告白は、勇気が足りなくて出来ないけれど、くちづけはこんなにも簡単に交わす。


……ほんとうに、大問題だ。

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