41話
いつも見上げているその人と視線が同じになる。
ゾッとするほど美しい造形が目の前にあり、こころが震える。同時に、いつかの息遣いが耳元に過ぎる。過ぎ去った記憶は、どうしていつもわたしから離れてくれないの。
冷めた目が私を見下ろし、捕らえた。温度のない瞳は容易くわたしの心を攫い、鼓動を早める。
「あ、あの……退いてくださると、助かります」
ぽそりと呟いた声は、和泉さんの身体に吸い込まれて消える。
どうせすぐに退いてくれる。どうせ冗談って笑ってくれる。
……でも、和泉さんは退くことはおろか、表情をかためたまま、笑ってもくれない。
「心雨、お前な……ちょっと無防備すぎ」
するりと手が腰周りを撫でた。触れ方がとても自然で、じょうずで。わたしの慣れない身体は驚く間もなかった。
「風呂貸してって、平気で男の家に上がり込むのかよ」
「それは……和泉さん、だから……」
「俺だから無防備になれる、とでも?」
額にくちびるが落っこちた。薄いくちびるは見た目よりずっとやわらかい。
ちがう、ちがう。
無防備、という四文字を、頭の中で反芻させる。警戒心が無いと見なされていた?
「ちがい、ます。警戒してなかったとは言いきれません。……でも、それ以上に、和泉さんのことを信用しているんです」
「……信用」
盛大なため息とともに、和泉さんが脱力するので身体が重なる。その重みは決して身体に負担を掛けない絶妙さだった。それに、導線上にあったわたしの肩口に額を押し付けてくるから、やわらかい髪の毛の先があたり、くすぐったい。なんの罰?……いや、ご褒美?
心臓がそろそろパンクしそうなんですけれど、この調子だと和泉さんはわたしの心臓事情を知らない。
「なあ、心雨」
名を呼ばれ、横を向く。すぐ真横に和泉さんが居た。
喋らずとも吐息が聞こえ、鼻先がぶつかりそうなほどに近い距離だ。
「確認だけど、俺……男だって知ってる?」
質問の真意が分からなかった。
なぜ、いきなり、真顔で馬鹿なことを聞いてくるの?
「知ってます。和泉さんは、男の人、です」
出会った当初から今日の今まで、和泉藍という人が男性だということは、存じ上げている。
「本当に?」
「本当、です」
「じゃあキスしていい」
「な、なんで!?」
「したいから」
したいから、という理由で受け入れるほどわたしは安い女じゃない。だって、いままで、飲み会でどれだけ男の人を拒否してきた?
そんなわたしの鼻のてっぺんに、軽い口づけが落ちた。あまりにあっけないキスだった。びくりと身震いすると、和泉さんが宥めるように髪の毛を掬って耳にかけてくれる。
「嫌いなら、避けろよ」
「……」
「避けないなら、我慢しない」
「……っ」
「もう逃げるなよ、みう」
なんの確認をとられているのだろう。
どうして退いてくれないのだろう。
なんできゅうに、キス、なの?
「つか、逃がしてやんないけど」
至近距離で衣擦れの音がした。まぶたがゆっくりと閉ざされていくのを感じて、わたしも目から緊張を解いた。
一瞬だけ軽く触れ合うくちびる。幸福感で満たされる刹那、音もなく離れてゆく温もりにもどかしさを感じた。
さらりと撫でられる髪の毛の輪郭。耳に掛けられた髪の毛を掬った和泉さんは、わたしの下くちびるを軽く摘んだ。
「もっかいしていい」
「……!」
「してくれないと、夢に見るかも」
どんな夢みるつもりですか、と、言いかけて、やっぱりやめた。
「……っ〜〜い、いっかいだけ……」
わたしのほうが、もっと濃厚な夢を見ているからだ。
先程よりも深いくちづけが降ってきた。余裕もなくわたしを求めるくちびるは、微かに情欲のにおいがした。大人のキスだ。
顔を離すと、足りない、と言ったふうに、予告なく重なったくちびる。導線は見えないのに、はじめから糸で結ばれているように、離れては近付いて、詰められて、近寄って。
決して離してはくれない。
触れる度に、じくじくと身体の真ん中が傷んだ。
怪我をして熱を孕んだ心臓が、恋の痛みを覚えて、忘れないでと焦がれている。
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