21話



「みは、初心な心雨にハードルが高すぎるでしょ。私は心雨の" 最初に付き合った人と結婚する "スタイルはカッコイイと思うよ。その人との恋、応援する」



傷心モードのわたしに、千惺は軽いタッチで信念を後押しする。一緒に落ちることなく、沈んでは掬う、こんな友人関係は、ありがたいと思う。



「でもさ?ふかく考えると、それ、地方大会も県大会も甲子園も経験せずに大リーグに行きました、くらいの覚悟が無いと無理じゃない?」


「はいはい、この夏もしっかり泣いたのね」


みはるの例えを千惺はしっかりと拾う。なるほど、1ヶ月以上経っているのに、甲子園の余韻の尻尾はかなりの長さらしい。


「泣いたのよ〜!やっぱ元野球部マネージャーとしては甲子園は外せないのよ〜」


「甲子園を家族と一緒に見たくないからって理由で帰省しないみはもウケるよ」


「自衛なのよん。家族間で応援する高校が違うと殺伐とするのよ。特にうちは父ちゃんが頑固オヤジだから喧しいの」


盛大なため息を零すと、みはるは「煙草ちょうだい」と千惺に強請る。しかし相手が悪かったようだ。「せめて三日じゃなくて一週間頑張れ」千惺はみはるの彼氏の味方につくので、みはるはぷくっと頬を膨らませた。


「うちもお父さんは甲子園毎年応援してるよ。うちは熱闘甲子園までしっかり観て満遍なく応援する派」


怒ったみはるがあまりに可愛いので擁護をすると、彼女は目を輝かせた。


「やだ。来年は蒼井家で甲子園観戦しようかな」


「わたしは帰らないのに、みはるが行くの?」


「そもそも、なんで帰ってあげないの」


「バイトとか、あるし」


「たかだかバイトじゃん。……あ、もしかして訳あり?」


理解はできるのに、再生ボタンは壊れているのか、止めてくれない。


『話があるんだ』


夕暮れがリビングの真っ白のカーテンに色をつけていた。お母さんが好きだと言ったカーテンだ。


お母さんが居なくなって、お家のことは全部わたしがやった。料理、洗濯、掃除、ゴミ出し。お父さんは仕事をしているし、お兄ちゃんは高校のうちからバイトをして、大学の進学資金の足しにしていた。


わたしはバイトが出来る年齢ではなかったので、自分に出来る精いっぱいのことをした。休日に学校の友達と遊ぶ時間が無くても平気。学校で会えばいい。家にいる間はお兄ちゃんのお友達が話をしてくれるようになったから、寂しくない。


大学進学も考えていなかった。実家から通勤圏内で就職するつもりだった。この家が失くした、お母さんの代わりをしていくことが、わたしのやるべき事であって、わたしらしさだと思っていた。


珍しくお父さんが早く帰ってきて、ある話をしてくれた。洗濯物を取り込んでから、と言うわたしに、父さんがするから、と。させてくれなかった。


お母さんがしていたことを、お父さんがさせてくれなかったのは、あの日が初めてだった。



小刻みに震えるくちびるは結んで、手元へ視線を落とす。グラスの汗を親指で拭って、再び二人を見据える。


「なんにもないの。なんにもないから、ちょっとだけ、帰りづらい」


そうして事実だけを伝える。言ってしまえば、ほんとうになんにもない理由だ。たったそれだけで、たった七文字の理由で、わたしは帰る場所である我が家に年に一度しか帰れずにいる。



──『心雨』



千惺の緩い笑顔の脇で、とん、と心臓を内側から抉られた気がした。


あ、この記憶、嫌なやつだ。と、酔った脳内でさえ直ぐに理解する。


「パパりんが新しい奥さん連れてきた、とかじゃなくて?」


みはるの問いかけに、小さく首を横に振る。



「無いよ。むしろ、それだったら箔がついて良かったんだけどね」


「単に家に帰りたくないってこと?思春期男子の反抗期かよ」


たしかに、わたしのこれは、一種の反抗期に違いない。同学年男女が思春期真っ只中のあの頃、覚えることが多すぎて、反抗期などとは言ってられなかった。



「じゃあさ、帰りにコンビニでハーゲンダッツ奢ってあげる!何味がいい?」



突拍子もないことを飛び抜けて明るい声で告げるのはみはるだ。


「なんでハーゲンダッツ?」


千惺と同じ疑問が過ぎったらしい。ふたりで声を揃えると、みはるはふふんと喉を鳴らした。


「いまの蒼井は思春期真っ只中の中学生ってことでしょ?中学生ってとりあえずハーゲンダッツ食べたら喜ぶじゃん?」


「ハーゲンダッツに年齢関係ないでしょ」


「みはるが言うから、無性に食べたくなってきた」


「そっこー飲んで、買いに行こ」


「んじゃあ、遅れてやってきた、心雨の反抗期記念に、かんぱ〜い」


「……なんですかそれ……」



そんなことを言い合って、注文していたスクリュードライバーで再び乾杯した。乾杯の合図は、飛び抜けて明るい「うえ〜い」である。喉を通るお酒は、甘さと苦めさが混在していて、飽きのこない味に胸が騒いだ。


にがくて、あまくて、心地よい、恋に似ていると思った。

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